年別: 2013

ついに来た閉館の日

新水族館が建設中で車は200m離れた港に置いている。トンネルをくぐってカーブを曲がり正面玄関を目指したら館前にテレビ局が2社、私が歩いて出勤して来るのを待ち構えていた。

そうだった今日は特別の日だった、50年の歴史に幕を閉じてこれから半年の休館に入る大きな節目を迎える日だった。

待ち受けていたテレビ局は東京から来たNHKさんと、もう1社は地元のさくらんぼテレビさんだった。歩いている途中で声をかけられた。「今日で閉館になるわけですが、心境はいかがですか」「まんずこれで終わりだと思うと寂しいもんだノー、しかしそれよりも何よりもすべてが緊張の種だな」

目の前では、来年の6月オープンの予定で新水族館が巨大な姿を現していた。これがうまくゆくか失敗するかいつも頭を離れないのだ。ミズクラゲの巨大水槽を作るんだといえば格好いいが、何かの拍子に全滅してしまえばそこから先、展示するものがいないのだ。

そんな事がこれまでも何度かあったのだ。「昨日の夜仕事を終わって帰るときは皆元気だったが、出勤してみたら1匹残らず死んでいた」という事が1度ならず2度、3度と起きたのだ。

これが再び起こらないとは言い切れない。いくら実力をつけても場数を踏んで経験を積んでもその不安はついてきた。新水族館が成功するか失敗するかは全てがミズクラゲの繁殖と展示にかかっていると言って過言ではない。

最大の水槽には万というおびただしい数のミズクラゲが必要になる。またここの展示の特徴は50種に及ぶ多種類を常設するというところにある。当然ミズクラゲを食べて成長し健康を保つクラゲも10種ほど含まれている。生産が滞れば展示のミズクラゲが餌として使われ減ってゆくことになる。毎日500も1000も作り続けなければならないという離れ業が求められるのだ。

出勤の途中でテレビ局に聞かれたが、いつもこんなことが頭の中を渦巻いている。

ところで今日の日は夕方には市長が来て4時45分からちょっとした挨拶と、加茂町の子供たちからの言葉や記念品の贈呈などがある。そして3時からは地元の皆さんに無料開放し一緒に5時の閉館を見守っていただこうという事になっていた。

朝からめったに顔を見ない古い友人やら親戚やら地元加茂町のひとたち、また昔共に働いた従業員などが次~次に入館してきた。夕方に向かってさらに訪れる人は増え続けて時ならぬ大賑わいとなった。

ついに来た終わりの時を一目見ようと水槽前の広場には人が埋め尽くし、市内外の報道関係者が数えきれないほども陣取っていた。最前列には加茂小学校の子供さんたちが40人も並び5時のカウントダウンを待ってくれた。

IMG_1642-600x400

 

合図とともに10から9、8と皆でカウントして館内の照明が消された。ついに終わりの時が来たのだ。一息ついたところで「館長何か一言」と司会者に求められた。

IMG_1663-600x400

 

48年もここで頑張っていたんだ。言いたいことは山ほどもあったが、「平成9年にはどん底を迎えて閉館を覚悟いたしました。今日このように希望を胸に抱いての閉館とは違う寂しいものでした」「これまで支えてくれた市民の皆様に感謝します」わずかこれだけが私のお別れの言葉だった。

同じ閉館を迎えるという言葉でも希望をもって先に進めるのと、すべてを失って去るのとは天と地の違いがある。今あることを感謝せずにはいられない。

何でこんなに優しいのだろう

眠りの浅い朝方に見た夢のような気もするが・・・いやそうではないあれは本当の出来事だった。2013年10月21日、半蔵門の駅近いビルの7階だった。

大きなテーブルを挟んで私の向かいにその方は座っている。年のころ84~5歳か。緊張しながら座る私がまるで自分の孫でもあるかのように穏やかな微笑をたたえていた。

56-1-600x400

本当はこうして私と向かい合っていることなど有りようのない雲の上の方だった。光り輝く太陽かはたまた雪を頂いたエベレストの山頂か、兎に角近寄りがたく有り難い、とてつもなく大きな存在だった。

その方の前に一冊と私の前に一冊、クラゲの写真集が開かれている。そして私が少し庄内弁の訛りが入った言葉でそのお方に説明していった。ほとんどのクラゲにこの17年間の思い出が詰まっていた。

このお方と私が、対談をしてそれを本にすると言う企画が持ち上がり、向かい合って座る事になったのだが、これはどう見てもとんでもないミスマッチであるのは間違いなかった。しかしいつの間にか時間は流れてその日が来て、こうして向かい合っているのだから世の中何が起こるか分からない。

写真集の何処を開いても語る言葉は尽きなかった。

56-2-266x400

 

「このクラゲは貧乏の極みで出会った救いの神様です。これに出会わなかったら今の加茂水族館は有りません。」「難しいクラゲの飼育の中で例外的に簡単で、放っておいても繁殖もします。」その方は椅子を少し横向きにずらしてじっと聞いてくれた。

この方とは元々は何の御縁もゆかりもない人だったのだがちょっとしたことから交流が始まり、その後は思いがけない展開が待っていた。

平成20年10月8日夕方だった。下村脩先生がオワンクラゲの発光物質(GFP)を純粋な形で取り出した功績が評価されて、ノーベル化学賞を受賞されることに決まったニュースが日本中を駆け巡った。

私はこのニュースに大きな感動を覚えた。事の大小は比較しようも無いが向こうはクラゲでノーベル賞に、この小さな水族館はクラゲで経営の危機を救われた。

クラゲのノーベル賞は自分の事の様に嬉しかった。そして感激した。その思いを手紙に書きアメリカの先生宛に発送した。この小さな1歩が今に及ぶ交流の始まりになった。翌々年の4月には加茂まで来てくださりそしてまた今日の対談につながっていった。

それにしても下村先生はなぜかこの小さな水族館に大変優しかった。ノーベル賞を受賞された直後日本中のみならず世界中から講演依頼が有った中で他を断ってまで来てくださり、折に触れては震災の影響を心配して下さり、新水族館の工事の進捗状況を尋ねたり、大雪が続けばメールで励ましてくれたりしている。

この度の対談はPHP新書が「先生と私がクラゲ談義に花を咲かせて、それをもとにクラゲの手引書を出版する」という企画を立てたときに、いち早く承諾をして頂いた。先生のご承諾が無ければ泡と消えていた企画である。

ノーベル賞の大先生と日本一小さな水族館の館長という組み合わせは、だれが考えても有りようのないものだった。

私の緊張をよそに、12時半に始まった対談は10分ほどの休憩が有っただけで夕方の5時15分まで続いた。先生は「この所時差ボケが取れなくて熟睡が出来ない」と言いながら最後まで穏やかな表情は変わらなかった。

56-3-600x400

 

来年の7月ごろに出版予定だと聞いているが、私にとって二度とこんな名誉なことは無いだろう。末代までの誇りだしそろそろ仕事人生も終着駅が見えてきた老館長に最高のエールになりそうだ。

 

 

天高くアクリルガラスは翻った

ついこの間クラゲ大水槽のアクリルガラスが運び込まれたが予想外の大きさだった。厚さが27cm幅が3m高さが6mが二つ、自分が提案したものだったし紙の上では穴が開くほども見慣れた数字だったが、実物を見るとその大きさに圧倒されてしまった。

沖縄の美ら海水族館のジンベイザメ水槽は厚さが60cmもあったし、隣の男鹿水族館でも大水槽には49cmのアクリルが使われている。今時27cmは特にいうほどのことが無いのかも知れないが、直径が5mのクラゲ水槽にこんな厚い物が必要だとは思わなかった。

1c378563409a98e2b004500bab1ac345-600x400

 

アクリルガラスを積んだトレーラーは栃木県から夜中に到着して、朝早く巨大なクレーンで工事中の建物に運び込まれた。縁起を担いだのだろうが吊り上げる合図を館長に頼むと言われ、赤い棒を右手に持って「上げてくれー」と合図をした。

984231f459b15a19201f5c9825c32a85-266x400

 

アクリルガラスを積んだトレーラーは栃木県から夜中に到着して、朝早く巨大なクレーンで工事中の建物に運び込まれた。縁起を担いだのだろうが吊り上げる合図を館長に頼むと言われ、赤い棒を右手に持って「上げてくれー」と合図をした。

fa721e13f1b3bbad15dbe10ab42ed36c-600x400

 

あの水槽にはおびただしい数のミズクラゲが群泳することになる。繁殖させて成長させる飼育係も苦しい日々が予想されるし、定期的に行われるメンテナンスも万に近い数を思うと其のたびに難しい作業が待っている事だろう。

クラゲの展示に特化すると言えば格好いいが、その実苦しい事ばかりが想像される、何でこんな生き物に全てを託したのかと悔やむこともあるが、苦しい仕事の向こうに明るい未来が見えるから頑張れたのだ。

吊り上げられたガラスを見ながら思ったのは、矢張り17年前の苦しい時代だった。民間の会社が倒産を覚悟するという事はただ終わりが来たという事ではない。経営者には結果責任が伴うのである。

まさに追いつめられて真っ暗闇の状態だった。へたり込みどこにも進むことが出来なかった。その時はるか向こうにかすかな光がさしたのである。この光を目指して再び立ち上がることが出来た。

早いものであれから17年が経過しようとしている。陽が当たったアクリルガラスはあの時の光だったのかも知れない。

 

 

足が震えた

新水族館の建設が2か月遅れながらもその後順調に進んでいる。日に日に高くなりそして型枠が外され全体像が見えてくると図面で見慣れた規模よりもかなり大きく感じる。

現水族館屋上から見た新水族館。

現水族館屋上から見た新水族館。

 

定期的に写真を撮るために灯台に上がり見下ろすと「大きいなー」と声が出る。この頃何度か工事の現場に入ってみた。天井を支えるポールが林立していて身をかがめ頭を低くして、右に左にと体をかわしてポールを避けて入って行った。図面は見慣れていたが今いる位置を見失ってしまった。

足場のポールで奥が見えない。

足場のポールで奥が見えない。

 

あまりに多いポールが邪魔で見通しが全く効かない上に、暗いせいでそんな感覚になるのだろう。水たまりや穴を避けながら行く手にアザラシとアシカのプールが見えてきた。

思ったより小さかったが造りは立派だった。これまでの見慣れた古巣のプールとは比べようも無い。バックの擬岩はこれから工事に入るが、ちゃんと実物以上に本物に見える岩が取り付けられる事になっている。

これまで擬岩が無かったのだから、いよいよここも本物の水族館の仲間入りができるという事だ。貧乏暮らしが長かっただけにただ擬岩が出来ると思うだけでも喜びが込み上げてくる。ちょっと情けない話だがアザラシとアシカのプールを見てその最初にそのように思ったのだ。

さらに案内されて進むとアシカショウの所に来た。ここは特に力が入った造りをされている。舞台にあるプールとその向かい側にはコンクリート作りの雛壇が有ってゆったりとした観客席になっている。

足場の向こうに青いショープールが見える。左手には観覧席がある。

足場の向こうに青いショープールが見える。左手には観覧席がある。

 

同じショウでもここでやれば見る方だって楽しさが倍増するだろう。やる方の我が飼育係だって気持ちよく舞台に立てるはずだ。これは思った以上の施設になりそうだ。

更にぐるぐると足場を上りまた下りて、暗い通路を行くと「この辺りからクラゲの水槽になります」と云われた。「んだば5mのクラゲ水槽を見せてくれ」と頼んだら、さらに幅40cm程の狭い階段を上り切った向こうに「クラゲ大水槽」が口をあけていた。

上から覗いてみた。高さ5mの水槽がこれほど大きいとは思わなかった。挑戦することが必要だとは口々に言ってきたことだが、見下ろす高さに足がすくんでしまった。

高さだけではない奥行き1.5mも、幅の5mも思い描いていたものより実物ははるかに大きかった。「こんなに大きい水槽にミズクラゲをいっぱいに泳がせようとしていたのか。」

この水槽に傘の径がたった20cm~30cmのミズクラゲを一体何匹入れたら満足できる眺めになるのだろう。

5000匹か1万匹か・・・もっとか。声も出ないで見下していたらいつの間にか足が震えていた。「挑戦するにもほどがある。これは無謀といえるのではないか。とんでもない事に挑んでいたなー。」

ここを維持するために毎日何百、何千のクラゲを生産すればいいのだろう。季節が外れればもう捕まえてくるわけにも行かず、買って来るにも売っていない。どこかから分けてもらう訳にも行かない、失敗は許されないのだ。

今更後戻りも出来ないし、しゃにむにやり通すしかない。世界中の誰も実現したことが無い「クラゲ水族館」も、実は信じて付いて来てくれた若い者を「いばらの道に引きずり込んだ」のではないか。

恐らくこの建物は今後50年は使われ続けるだろう。恨まれる事も有るだろうが恐らくその頃は私も位牌になって仏壇に鎮座しているだろう。もしも「位牌ががたがた動いたら」あの世で詫びていると思ってもらう他無いな。

 

 

夏向きの話を一つ

水族館と言う仕事を運営とか経営とか固く考えてはいけない。私は客商売だと考えているので多くの人の支えが有って成り立つ仕事だ。小さな出来事一つ一つの積み重ねがここの信用を支えている。手紙を書くのも面倒がっては居られない。

さっき知らぬ方からの長い手紙に感動しながら返事を書いて終わり、飼育係から昨日採集したと知らされた「カツオノカンムリ」を見に階段を下りて行った。

8月に入って最初の日曜日のせいだろう。まだ10時過ぎと言うのに人ごみが出来ていて思うように歩けない。階段を下りるだけでずいぶん待たされてしまった。

外ではもう車が渋滞しているので夕方には3000人近い入館者が訪れているだろう。ミズクラゲの繁殖を見ることが出来るカウンターの向かいにカツオノカンムリは居た。

展示されている「カツオノカンムリ」青く見えるものがそうである。

展示されている「カツオノカンムリ」青く見えるものがそうである。

 

小さな丸い水槽に7~8匹浮かんでいた。知らなければとてもクラゲには見えない。青いビニールが千切れて浮いているとしか見えないだろう。しかしここでは10年に1度の本当に珍しいお客様である。精々4~5日の展示に終わるのだから、見た人は幸運な方だ。

面に浮かぶカツオノカンムリ。青いビニール片ではない。  手前の白いものは本当のプラスチック片である。

面に浮かぶカツオノカンムリ。青いビニール片ではない。
手前の白いものは本当のプラスチック片である。

 

ここも当然ながら人が込み合い先が詰まって渋滞を起こしていた。しばらく立ち止まって奥の方を見ていたらこの辺りが事務室で、奥の方が宿直室だったころを思い出した。

この辺りがクラゲ展示に変わったのは震災の年の春だったからもう3年目に入っている。改装前はここにあった事務室を上に移動させて熱帯魚室に改装し「2mもあるアマゾン川のピラルク」の水槽が有った所だ。

どこもかしこも50年の間に何度も何度も手を加え、改装に次ぐ改装をした。開館当時の面影をそのまま伝える所は階段ぐらいしかなくなってしまった。

奥にあった宿直室に特別な思い出がある。

今から40年ほど昔の昭和46年の12月31日に、ここを買収した本社が不振で事実上の倒産をして全職員の解雇が言い渡されたことが有った。

今日の話はそこから始まる、本社は当然電気や、水道を止めて閉鎖になったがこちらには生き物が居た。

私の他3名が面倒を見ることになって交代で寝泊まりしながら、先の見えない不安な毎日を過ごした。

初めのうちは何事も起きなかった。1か月ぐらい過ぎてからだった。泊りの男がぼそりと呟いた。「館長、寝ていても何でもねえか。」「いや特に変わったことは何もない、どうしたんだ。」「夢みたいな気もするが夜中に冷たい手で足首をつかまれた。」「あとはぞっとして眠れなかった」。

「え!んだば幽霊が出たってか。」「まずそげな感じだ。」これが始まりだった。次々に夜寝ている所を襲われた。「布団の上に乗って来た。」「枕元に座っていた。」「居るのは分かったが恐ろしくて目を開けられなかった。」「良く館長寝られるなー」。

鈍感なのか、どこか嫌われたのか遂に一度も私には出なかった。ここの飼育課長だった男は特に好かれたようだった。今丁度クラゲの解説をする前あたりに熱帯魚用のストーブが置かれていた。温かいのでそこでアジをぶつ切りにし、また開いて叩きにしたり魚に合わせて餌を作って行く。

ここを奥に行くと今はクラゲ水槽があるが、昔は宿直室があった。 手前右側、白い服の女性が立っているあたりにストーブがあり、その隣に・・・

ここを奥に行くと今はクラゲ水槽があるが、昔は宿直室があった。
手前右側、白い服の女性が立っているあたりにストーブがあり、その隣に・・・

 

夜ではない。いくら冬のさなかと言えど真昼間である。餌作りの最中に幽霊は出るようになってきた。「夢中になって餌作りをしていたらいつの間にか横に立たれてぞっ!とした」と青ざめて語った。

先の見えない越冬隊は春・3月10日まで2か月と10日宿直を続けた。その間幽霊は出たり出なかったり断続的に現れつづけた。そして3月11日に兎に角開館してくれと云われて、無事開館することが出来て幽霊の体験も終わった。

これで解放されたはずだった。しかし私以外の3人には不幸が襲ってきた。大腸がんが一人、二人は原因不明の突然死だった。

元気だったはずが病に侵され次々にあの世へと旅立って行った。40代の若者がわずか4~5年の間に3人みなこの世の者ではなくなってしまった。

何だかおかしいではないか。あの宿直で何者かに憑りつかれなかったのはこの私一人だった。得体のしれないものに襲われた3人だけが次々に命を落とすとは。

私にはあのころからすでに「クラゲと言う守り神」がついていたのかも知れない。これも今となってはここの歴史の一コマだ。

 

ミイラになる修行をしているんだ

今年は7月の末になったと言うのにまだ梅雨が明けない。雨ばかり続くと矢張り青い空が恋しくなる。

しかしこの時期だから晴れて青い空が見えれば、一気に暑さがやってくるだろう。其れも痛しかゆしで梅雨空もまた有り難いと言うべきだかも知れない。

73歳にもなったが年を取ると夏の暑さがえらく身に応えるのだ。若いときには炎天下に帽子もかぶらず自転車に乗って3km先の川に行ってはサクラマスや、ナマズを捕まえていたが暑さは平気だった。

思い出して少し語ってみることにする。月山から流れてくる今野川と笹川が合流するその場所は、田んぼに水を取り入れるために水門が作られて、上流は1kmほど長く続いた瀞場になっていた。

深さは2m~1.5mぐらいだったと思う。ここはまるで生簀かと思うぐらい多くの魚がいた。

海から遡上してくる60cmもあるサクラマスが最高の獲物で、10月になれば1mもあるようなサケが群れで泳いでいた。深く潜ると土手のゴロ穴には大きなナマズが隠れていて、手を肩まで突っ込むとナマズの頭をつかむことが出来た。

穴に入るのが好きな「ナマズ」

穴に入るのが好きな「ナマズ」

 

他にも捕まえにくかったが立派な鯉がいっぱいいたし、食べる所が無いので相手にしなかったが鯉を細くしたようなニゴイも居た。ハイと呼んだウグイの大物も多かった。

鯉に似た「ニゴイ」=「似鯉」

鯉に似た「ニゴイ」=「似鯉」

 

潜りながら上流に向かい捕まえた獲物はヤナギの枝にさし通し、半日も魚取りをしても疲れはあまり感じないものだった。鰓から刺し通したナマズを10匹も、別の枝にはサクラマスや鯉をぶら下げて帰ってくるのが日課だった。

70歳も過ぎた今になってはもう駄目だ。暑いなーと思うだけで体は動かなくなる。冬の寒さも嫌だし本当に年は取りたくないものだ。

もう20年も前になるが50になったばかりのころだった。髪も黒くふさふさして体力もあったあの時期だったが、今よりももっと体の調子が悪く、いやに肩が凝り熟睡も出来ず何かちょっと多く食べれば腹を壊し、夏の暑さが妙に苦しく耐えられなくなって胃の中の物を皆吐きだしたりした。

この分では60歳まで生きられないなー、と本当に思っていた頃が有る。

今振り返ればここの経営が最も苦しかった時期と重なる。いつ倒産してもおかしくない経営が続いたせいで、ストレスがたまったのが原因だったのだろう。

あまりの具合悪さに医者に行ってみても原因が分からず、其れを食べ物のせいにして、好き嫌いではなく体に合わないと思うものを次々に食べぬようにしていった。

その結果行きついたのは、肉も食べずに揚げ物にも一切手を出さない、油いためも駄目、脂の浮いたお汁は唇を突っ込んで下の方だけ吸い込むようにする、更に加えて乳製品も食べないので、大好きだったヨーグルトやチーズさえ食べなくなった。

私が特に弱かったかも知れないが、強いストレスに襲われればどんな人でもどこかおかしくなると思う。出来ればそんな思いはしたくないから程ほどの生き方をしたいものだ。

食べ物を注意していると、体に合っていると感じたのは納豆や漬物、豆やかぼちゃの煮物に野菜や果物はみなOKだった。それに加えて海藻と少しの魚を食べていたのでまるでイナゴかキリギリスになったような気分だった。

これが今私の食べている動物食を除いた料理である。

これが今私の食べている動物食を除いた料理である。

 

こんな食事をするようになったらいつの間にか笑顔が増えて気持ちが穏やかになったような気がする。周りの人ともみな気心が通じるようになって仕事がスムースに運ぶようになった。

今でも食に関する欲は一切ない。今度の休みにどこか旨いものを食べに行こうかなどと思う事はまずない。納豆ごはんに民田茄子の「醤油(しょうゆ)実漬(みづけ)」が有れば何より食が進む。私には粗食こそもっとも望むところだ。

酒やたばこもやらず賭け事もせず栄養のあるものはみな駄目だったから、これではまるで「ミイラになる修行」をしている様なものだと自嘲している。あれからもう20年以上もたったが今なお体型は変わらず修行を続けている。

 

 

悪い魚捕り-ダイナマイトに点火したら皆逃げた

何年生の時の事なのか、時期はいつ頃なのか思い出せないのだが、親父さんの家で夕食の後、二人で囲炉裏を囲んでバチバチ炎える焚き火にあたりながら、鉄砲のタマ作りをしていた時の事だった。

使った真鍮の「空やっきょう」から、つぶれた雷管を抜いて新しいのを詰め、黒色火薬を計って空薬きょうに入れて仕切りボール紙を入れる。そんな作業をしならが思い出すままに、一緒に山に入ったときの事を話し合うのが楽しかった。

同じ話を何度でもするのだが、その度に興奮して話がはずむ。それを聞いている奥さんに「同じ話をよくあきないもんだ」といつも笑われていた。

親父さんは世事にうとい私を驚かす為に、火薬を火に投げ入れたりしていた。火薬は雷管の小さな爆発がないと絶対に爆発しないのだそうで、本当に火の中で、ブスブス燃えるだけだった。

そのうち親父さんが奥の方から、ダイナマイトを2本持って来た。油紙に包まれた20cm程の長さのものだった。

手で触れてみると、土に脂を滲み込ませたように、表面はベタベタし意外に軟らかい。口に含むとちょっとびりびりするが食べられそうな味がした。

親父さんは端の方を1cm程むしり取って火に入れ「やはり爆発はしないんだ。映画のシーンなんかは皆うそなんだ」と言っていた。

やはりダイナマイトも焚き火の中で火薬と同じようにブスブスと燃えているだけだった。私はダイナマイトに火が付けば爆発するものと思っていたので、本当に意外だった。後に、この中の一本を爆発させる時がやって来た。

農繁期になると頼まれなくても、親父さんの家によく手伝いに行ったものだ。

秋の刈り入れの頃だったと思う。友達数人と刈り取った稲を運ぶのを手伝いに行った。稲の干し方は、地方によって色々な方法がある。

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

 

あの地方では、刈り取った稲をすぐに家に運び、木を組んで造った「ハセ」に三段か四段にスダレ状に干していた。刈ったばかりの稲は水分を含んでいて重く、随分遠くからも運ぶので、なかなか骨の折れるものだった。

不思議に思うのだが、稲を運ぶのは全て人の背中で、荷車とかリヤカーを使う事は全くない。

何処の家でも人手が欲しいので、勝手に押し掛けても大歓迎で喜んでくれた。

その日、私達が行った時、すでに親父さんの家の取り入れは終わっていた。

他の家の稲が所々に残っていたが、最後の収穫の最中だった。

親父さんの家に上がり、何かごちそうになっている間に魚捕りに行こうという話になった。

親父さんは奥の方からダイナマイトを一本持ち出した。それと一緒に導火線と雷管も持ってきた。そして自分の家の田圃の下に大きくて深い淵があって、「ハヨ」がいっぱいいるから、あそこで「発破かけしよう」と言いだした。

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

 

正直なところここまでの記憶は誠にあいまいで朦朧とし、夢か幻のように頼りない。本当だったかそれとも長い年月の間に妄想が現実になったのか、もっと別のストーリが有ったような気もするが、まあそれはそれで良しとしよう。

今、上叶水から、親父さんの家がある新股に行く途中、横川に立派なコンクリート橋が架かっているが、あの頃の橋はもう少し上流にあって、魚のいる淵もさらに200m程上流にあった。

田圃から川に下る時、鉄砲を空に向けて二~三発撃った。ダイナマイトの音を鉄砲と紛らわす為だった。淵に行って見たら近所の子供二人が先の折れた3m程の釣り竿で何かを釣っていた。

何でも親父さんの説明に依るとダイナマイトの威力というのは、周囲全体に及ぶのではなく、水の厚い方に放射状に広がっていくので、川底の方に沈めてしまうと、水面の方に広く効果が出るので底を泳いでいる魚は死なない、と言って居た。

魚をいっぱい捕るためにはダイナマイトを深く沈めずに、水面下二尺程の所に止めて爆発させると川底に広く及ぶのだと言っていた。子供の釣竿を借りて先に紐を縛りつけ、二尺ほどの所にダイナマイトと重りの代わりに石を二~三ヶ結び付けた。

ダイナマイトに雷管を押し込み、10cm程の導火線を雷管に差した。10cmの導火線が一体何分保つのか何秒後に爆発するのか親父さんさえも、他のだれも分からなかった。

日頃強がりを言っている友達も皆、竿を持つのを嫌がって後ずさりし、親父さんさえ尻込みした。

「それでは俺がやる」と自分から言い、私が爆発役を引き受けた。一度練習した後、親父さんがマッチで導火線に火をつけた。それまで近くで見ていた友人も子供もみな遠くまで逃げてしまった。

火をつけた親父さんさえも導火線から火花が出始めたら逃げてしまった。だれもがダイナマイトの爆発を恐れていたのだ。

私が竿を持つ手を伸ばして水面下二尺程の所にダイナマイトを沈めた、その間にも爆発するのではないかと言う恐怖心が有った。この時の決断はこれまでの73年に及ぶ人生の中でも特別大きなものだったと思う。体をがちがちになり竿を持つ手が他人のように感じられて、頭がしびれそのまま倒れてしまうほどの緊張だった。
ダイナマイトと一緒に縛った小石が飛んできたら死ぬだろうとも思った。

思ったよりも待つ時間が長いと思ったのだが、どの位だったろう。20秒か30秒位だったと思う。あれっ爆発しないのかなと思っていたら、じきに下腹に響く「ズシン!!」という音と共に水柱が上がった。爆発音は鉄砲とは全く違う振動のような音だった。

しかし水柱は意外と小さく、やはり川底の方に向かって力が広がっていったようだった。

皆が寄ってきて深い淵の底をじっと見ていたが、なかなか魚は浮いて来ない。

しばらくの後、一匹のハヨが白い腹を時々見せながら流れてきた。

それを淵の下手で拾うと、後は次々と白い腹を見せて流れてきた。中には生き返るのか、力なく泳ぐハヨもいた。流れてくる魚はどんどん多くなっていった。

それと同時に元気が出て捕まえるのに苦労するハヨも現れた。

皆はしばらくの間、夢中になって魚を拾ったが、やはり「御禁制」のダイナマイトを使ったという引け目があり、魚はまだまだ流れてくる中を引き上げて来た。

イワナが二~三匹とあとはハヨと呼ばれるウグイのみで、全部で何匹ぐらい拾ったろう。20~25cm前後のが三十匹だったか五十匹だったか、その位と思う。誰かが長靴を脱いで、魚をその中に入れ、人目に付かないように帰ってきた。

しかし悪い事は出来ないもので、途中の田圃で仕事をしていた鉄砲撃ちの仲間に「鉄砲と違う音がしたぞ」「ハッパ掛けたろう」と言われ、悪い事はすぐにバレるもんだなと変な事で感心した覚えがある。

今の高校生がそんな事をしたなら、結果は退学か良くても停学だろう。お巡りさんに知れたら刑務所行きになりかねない事態だ。それに比べ何事もなく過ぎたあの頃はおおらかな良き時代と言えると思う。

逃げ出したいほどの緊張の中でとにかく乗り越えたこの事が、私の後の人生に大きく影響したと思う。社会に出て多くの難しい局面に出会ったが、運がいいのかたまたまだったのか解らないが、何とか度胸ひとつで乗り切ることが出来た。

男って奴は意地の塊だから、大事なところで「引いたら価値が地に落ちる」・・・しかし目をつぶってでも突っ込めばそこで道が開けるものだ。

16歳で身に着けたあの「命がけの決断」は、良くも悪くも私の生き方を決めた。

 

 

「くらげになりたい(仮)」に出演して

「庄内キネマ制作委員会」から、5月13日の夜6時までに撮影現場に来いと言う連絡が有った。私が映画「くらげになりたい(仮)」の主役のお兄ちゃんの父親役で、ほんのチョイの間無言で孫を抱いてあやしている場面に出るためである。

このところテレビには出ることが多いが、さすがに映画となると出た記憶がない。さてはてどんな事になるのか気になりながら指定された稲生町の民家に行って見た。

撮影の一場面。赤ちゃんを抱っこしたのはいつぶりだろうか。

撮影の一場面。赤ちゃんを抱っこしたのはいつぶりだろうか。

 

この庄内でも映画が作れる時代になったのである。月山のふもとには「庄内映画村」が有るし、市内には古い製糸工場を改造した「鶴岡まちなかキネマ」が有る。それにもう一つ次世代の映画人を発掘育成する「(株)映画24区」が加わって、世界にこの庄内の魅力を発信して行こうと言う面白い企画が実現した。

委員会では3社が金を出しあって毎年2つの映画を作るとのこと、その3作目にここが舞台として選ばれたと言う事になる。資金を出すと言っても大金持ちが居るわけではない。聞いた時にこれで本当に映画が出来るものだろうかとびっくりした記憶があるがまあ信じられない低額である。

子供のころから映画が好きだった。他に大した娯楽が有るでなし「ターザン」が街に来たと聞けば、羽黒の我が家から8km、歩いて市内の映画館まで来て夢中になって見たし、初めて見た総天然色の映画「小鹿物語」の奇麗な事には感動した記憶がある。

映画と云うものは実に面白いもので夢が有った。子供心に自分とは無縁のどこかの誰かが大掛かりに作っているものだと漠然と思っていた。

あれから65年もたったが身近なところで映画が作れるようになったのだから本当に世の中が大きく変わったのである。

この度の話は去年の今頃に打診が有って、加茂水族館を舞台にした映画を作りたいと、まちなかキネマの小林社長から連絡が有った。嬉しかったがいきなり飛びつくには難しい事情が有った。

その事情とは今、目の前で進んでいる新水族館の建設である。50年に一度の大仕事が去年の10月には着工される運びになっていた。幾ら映画の舞台になるのが嬉しいとは言っても新しい水族館が成功しない事には話にならない。

仕事は山積しているのに人手は不足している。他の用事に職員をまわすのは不可能だった。しかし監督やスタッフに何度か会って話を聞いているうちに、まずは場所を貸すのが仕事と言えば仕事で、職員が役者になる訳でもないあとは殆ど負担はなかった。

分かってみればお断りするような悩みは無くなった。喜んで引き受けさせて頂いた。

5月10日にはまちなかキネマで「くらげになりたい(仮)」の制作発表会が有った。

多くの記者が取材に来てくれた。そしてニュースとして流れて大きな話題になった。人気商売的な面が大きい水族館としては大変ありがたい事だ。

5月の17日からはいよいよ水族館を舞台にして撮影が始まった。私が行った鶴岡市の民家でも、スタッフが一丸となって取り組んでいたしここでも同じだった。あの姿はちょっと他では見ることのできない特別な雰囲気がある。

館長役のあがた森魚さんと、水族館の屋上で。(5月17日撮影)

館長役のあがた森魚さんと、水族館の屋上で。(5月17日撮影)

 

何に例えたらいいのか難しい所だが、私の眼には一番近いのは「フィールドに展開したサッカー選手」たちのように見えた。一人一人が自分の役目を果たしながらボールを追い、一丸となってゴールに向かう「戦う集団」と言う表現が一番近いと思うのだが。

撮影現場でそんな緊張した姿に出会ったように思う。

 

 

みのもんた、朝ズバに出たぞ

5月の8日「8時マタギ」だった。みのもんたさんがこの小さな水族館を取り上げてくれたのだ。「20分で3億円を集めた水族館」というタイトルにあちこち紙が貼ってあって字が隠してあった。

「クラゲドリーム債」と名前が付いた市債が4月18日に売り出されてあっという間に売り切れたことは、「館長人情ばなし」にも書いたがあまりに早い売り切れと、資金調達の対象が老朽化した小さな水族館建設だったと言う面白さが受けて全国的な話題になっていた。

その辺がみのもんたさんの番組でも注目したのであろう。みのさんが貼り紙をはがしながら読み上げてくれた。これまで何度も見慣れた光景だったがまさか自分の所があそこに登場するとは思わなかった。

あれは正にこの小さな水族館の50年の歴史の中でも、とっておきの晴れ姿と言って良いと思う。十数分の放送を見ていた主役の私でさえ何だかジンと来たのだから、日本中の多くの人に強い印象と共に加茂水族館の存在を知らしめることが出来たと思う。

何でもお金に換算するのはどうかと言う気もするが、あの時間をコマーシャルで使ったら、恐らくクラゲドリーム債の3億円どころではない宣伝費がかかるのではないか。

これで又今年の入館者は、そう大きな落ち込みもなく結構順調に来てくれそうな見通しになった。館長にとってはこれが一番有り難い。

放送に戻るが、前置きに説明が有って最初に登場したのは沖縄の美ら海水族館や、鴨川シーワールドだった。いずれも日本を代表するような巨大な水槽を持つとんでもない立派な水族館だ。そのあとに登場したのはクラゲの展示で世界一だとは言っても、みすぼらしさは隠しようのない我が加茂水族館と、少々くたびれが見える73歳になった老館長だった。

一番からビリへ・・・この大きな落差が良い。普通ではありようが無い事が起こったから、みのもんたさんが取り上げてくれたのだろう。ナレーターが語る小さな水族館がたどった苦労の歴史に合わせて映像が流れて行った。

倒産を覚悟した平成9年にクラゲに出会って奇跡的な復活を果たしたのだが、その頃にここを訪れた水族館のプロが加茂水族館にきて「なくても良い水族館だ」と評したことが有った。

これも前に「人情ばなし」に書いたがその本人が登場して感想を述べていた。テレビの中の彼は「館長が立ち直ったから加茂水族館が救われたのだ・・・」と、これには参った。そのものずばりだったからだ。このように加茂水族館を見たのは恐らく彼一人ではないか。私だってそれは感じていたんだ。しかし口に出して云えないでいた。

どん底を迎えたのもすべては私の器量が足りないところから起きた事だった。

いつもながら彼の視線の鋭さには脱帽だ。事業と云うものはそこのトップ以上にはなれないと云う事だ。私があのままクラゲに出会うことなく、世を恨んで暗いままで仕事をしていたらここは立ち直ることは出来なかったであろう。クラゲの展示に一筋の光を見て希望を持ったから次に繋がったのだ。

長く続いた低迷に気持ちを暗く落ち込ませ、理不尽なこの世を恨んで言い訳ばかりしていたあの地獄からまず救われたのは館長の私だった。

 

館長だって市債が買えなかったんだ

18日の朝9時半頃だったろうか。「市債を買いに行ったが長く並ばせられて待っていたが途中で打ち切られてしまった。どこに文句を言えばいいんだ」と云う電話ばかりがつづいた。

「いやーそれはここではなく鶴岡市の財政が担当です」と答えると「それなら電話番号を教えろ!」とどなたもかなりの剣幕だった。

そういえばこの日、鶴岡市で「クラゲドリーム債」を売り出したことをうっかりしていた。私が年のせいでぼけたのではない、朝から続く来客にまぎれて忘れていたのだ。その後市の担当から電話が有って知らされたが、たった20分で売り切れたとか。

電話対応に追われる館長

電話対応に追われる館長

 

20分でと言うのは市の公式発表で、本当は15分もかからずに売り切れたらしい。荘内銀行東京支店の窓口に取材に行った東京のテレビ局が教えてくれた。「お陰で取材が出来ないでしまった。とにかくすごい事になったものだ」とびっくりしていた。

ネットのヤフーニュースでも19日、20日とトップを飾っていた。この宣伝力は大きいものが有る。日本中の誰もがネットを開けばまず目に飛び込んでくるのがこのちっぽけな水族館の話題なのだから、お金に換算したら一体いくらになるのか。大きなプレゼントを戴いたことになる。

 

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

 

微かな記憶をたどると、この話が持ち上がったのはほぼ1年も前の今頃ではなかったろうか。どこからともなく誰の発想ともしれず「市債を発行して新水族館の建設資金に充てるらしい」と伝わってきた。

この話を聞いた時には特別の感情は湧かなかった、建設費用については「合併特例債」を当てると聞いていたから、現場の水族館職員にとっては別次元の話だった。

その後次第に具体的になってきて議会に提案されて本決まりになり、記者発表を市長と並んで行うにつれて、これは思い違いをしていたことに気が付いた。「こう言った形の市債」は山形県内でどこの自治体も経験したことが無く、全国的に見ても随分珍しい企画らしい。

そうなると売れるか残るかはすべてが現場のこれまでの仕事ぶりが問われることになる。若し売れ残れば46年も館長であった私の経営が悪かったからで、まさに腹切りものである。早々と売れてくれれば逆に現場の仕事ぶりが高い評価を受けることになる。

思い出しては気になっていたが、こんなに早く売れ切れるとは館長である私さえ予想の外だった。20分で売り切れたと知らせてくれた財政の担当の声も上ずっていた。どなたの発想かしれないが、15分で売り切れたこの話題は日本中多くの人の関心をクラゲの水族館に集めるに十分だった。

また市民に明るさと活気を与えてくれたし、新水族館を盛り上げる手段として「市債を発行すると言う手段」は、アイデア館長を自認している私も考えが及ばない素晴らしいものだった。

多くの知人に何とか特別に100万円分を分けてくれと頼まれたが、館長である私にさえも特別の枠は無かったし、買った方の何倍何十倍の方があぶれたわけである。

今しばらくは並んだが買えないでしまったとか、地元に配慮して枠を増やせとか話題は続くと思う。これも嬉しい悲鳴の一つだろう。

その最中の昨日の午後、「みのもんたさんの番組スタッフ」と名乗る電話が有って、「市債が15分で売り切れたニュースを見た。取材に応じてくれるか?」と聞かれた。こんな有り難い申しではない、いかようにも応じますからぜひお出でください、とお願いした。

「検討してあした電話します」と言って居たが、お昼の12時になってもまだ連絡が無い。もしかしてあの電話は昨日見た夢だったのではないか・・・いやまさか。