月別: 10月 2015

ノーベル賞受賞者の「下村先生と対談」をして来ました

9月12日~13日新潟市の日本歯科大学主催の学会で、下村修先生がアメリカから20時間かけて来てくださり講演をされました、その晴れの舞台で私が「下村先生と対談をする」という嬉しいできごとがあった。

壇上の右端の二人が、下村先生と私

壇上の右端の二人が、下村先生と私

これは自分の胸一つにしまっておくにはもったいない、私だってこんな晴れがましいことを広く知ってもらいたいという人並みのひそかな思いを持っている、まあお読みいただいて彼奴もやっているなーと思っていただけたら隠居の身にも励みになる。

先生はオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質(GFP)を多くの困難をいかにして乗り越えて純粋な形で抽出できたか、なぜオワンクラゲの研究をしたのか、それがどんな利用のされ方をするのか、を約40分語った。

日本でウミホタルの発光体を純粋な形で抽出に成功したことで、アメリカのボストンに有るウッズホール研究所に招かれ、そこでオワンクラゲを研究テーマとして与えられたこと。

多くの画像やデータを使いながらゆっくりゆっくり説明をされた、GFPを抽出に成功して50年たってノーベル賞を受賞されたこと、授賞式の様子も多くの映像を使って紹介された。

下村先生の話は聞く人の胸に大きな感銘を与えて終わった。

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

 

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

先生は86歳になられてかなり体力的に衰えが見えて壇上に上がるもの支えが要るほどで、特に足腰が弱られたようだった。

そういえば昨年の10月14日に新しくなった加茂水族館にお出で頂いたが、あの時も「かなりお年を取られたなー」と思わずには居れなかった。

「もう日本には来れないかも知れない、今回が最後になるだろう」そのようにご自分でも話されていた位だから、この度の日本歯科大学の招待は実現しないのではないかと危ぶんでいた。

自宅から新潟空港まで20時間かかったとおっしゃっていたが、本当によく決心してきてくれたものと思う、やはり先生は夏の暑さで体調を崩されて日本に来るのは無理な状態になられたらしい。

その際に学会の方から「村上前館長も来る」と連絡したところ、先生は「それでは行く」と次第に元気になられ、体調に不安が残る中お出でになられた、、、そんないきさつを学会の関係者が何人も話してくれた。

頬をつねりたくなるような話だが別々に何人かが同じことを話してくれたから嘘ではないのだろう、そう言えばこんなことも有った、先生がアメリカから到着された夜に歓迎会が開かれた際、皆が席についている会場に案内されて入ってきて何やら探している風だった、真向かいに座る私の姿を見てご自分のネクタイを持って上下させ、にこにこして「頂いたネクタイをしてきたよ!」と無言で伝えてきた。

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

 

あれを見たときは嬉しかった、何がどうしたのか、何故なのかは分からないが、やはり私に会うことが楽しみでアメリカから来たのは確かなことだったようだ。

ノーベル賞と言えば庶民にとっては、光輝く太陽かはたまたエベレストの山頂か、近寄りがたく眩しい存在なのだ、その方が私ごときに何故こんなにやさしいのだろうと思う。

そして翌日先生の講演の後私と対談となった。

先生と私は同じテーブルに隣り合わせで座り、司会者の質問に答える形で対談となった、「加茂水族館とのご縁はどんないきさつから始まったのか?」その質問には「私が出した1通の手紙からだ、先生の受賞に感動してその思いを伝えるべく手紙を出したのだ」。

「その後平成22年4月には加茂水族館に奥様とご一緒にお出で下さった、そのことが大きく報道されて年間6万人の増客につながったのだ」

年間の増客が「6万人は6000万円の売り上げになり、その資金で新水族館建設に向けた準備をすべて整えることが出来た」

「クラゲ展示の拡大と充実をし、飼育員のレベルアップのために海外までも何度も派遣し研修や教育を行い、新水族館を想定して飼育員の採用、、などなど本来ならすべて市が資金を出すべきところだったが、市の金は使わずに現場の収入で賄うことが出来た、すべては下村先生の恩恵によるものだ」

先生が受賞されたとき、加茂のクラゲ展示は新水族館を作るにはまだまだ未熟だった、胸突き八丁に差し掛かっておりここからが一番大事な所だった、何とか先生をお呼びして「誇りと力、そして軍資金」を得て日本いち小さな加茂がクラゲ水族館に生まれ変わりたかった。

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

 

そのために私は「死なないくらげとして知られているベニクラゲをデザインしたネクタイを作り敬老の日に合わせて先生に送ったのだ」そして先生が来てくださり6万人の増客が5年間続き私の思いは実現した。

「何事も小さな1歩が大事だ、その後ご一緒に東京の有楽町にある国際フォーラムで話したり、2013年には先生のご厚意で対談をしそれが本になったり、去年の10月には再度訪問してくださったり。」

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「先生は子供の教育に対して、子供は構うな自然の中で自由に遊ばせておけ、そうすることで色々なことに興味をもつ人間になる、その方が何でも出来る優等生よりも将来性がある、、、、それが自分だ」、、、このように語っておられた。

社会に出て力を発揮するのは頭がいいとかいい大学を出たとかじゃないぞ、能力というものは積み重ねて計るものじゃない、掛け算で計算するものだ、「失敗を恐れて余計なことはするな、、黙っていろ、言われたことばかり取り組む」こう言った考えはマイナスかゼロだ。

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

そんな人はろくな仕事が出来ないだろう、、、、場所もわきまえずにそんなことを語った、先生は耳が遠くなられ会場からの質問や、司会者の言葉をほとんど聞き取ることが出来なかった、そのたびに隣に座る私が補聴器の役目を果たし質問に答えて頂いた。

無事に対談を終えたときには会場から結構大きな拍手や感動の声が上がっていた、ノーベル賞学者と東北の片田舎の小さな水族館の館長、、、という異色の対談は、「歯医者さんの学会」という場でもそれなりの評価を頂けたと思う。

そして19日新潟から帰って初めて水族館に出勤をしてメールを開いたら、学会の主催者から「来年下村先生を訪問することを」了解を得ているので、村上館長もぜひ参加して頂きたいという言葉が届いていた。

この世もまんざらではないな、こんな勉強嫌いな田舎者が世界的に偉大な学者と交流が出来るのだから、、、、。

雨後のイワナ釣り

今年の天気はどうもおかしい、お盆までは雨が降らずその後はとどまることを知らぬかのようによく降る、米作りだけではない、何事も同じだがこう極端に偏らず平均的に経過してくれれば助かるのだが。

昨夜の天気予報は20パーセントの確率だったが、実際に今日になったらとんでもない大雨になった、庄内地方に「大雨洪水注意報、雷注意報」が出ていますと言っていた、今年の天気予報は気象庁も振り回されている。

DSCN0084

※ 釣れた見事な姿形をした20センチのヤマメ。

「今日の午後ならいい水具合になって、イワナやヤマメが総出で餌を追っているだろう、しかしこの雨を狙っている釣り師が私だけとは限らないから、なるべくなら今日のうちに釣りに行くのが一番いい」、、、雨後の増水が意外に早く平水に収まることも有る、、、、とは思ったが、他の予定があってゆくことは出来なかった。

仕方がない明日にするかと思った、若いときにこんな決断は出来なかった、一度イワナ釣りに行くか、、、、と思えばもうどんな用事があろうが、「大雨洪水警報が出ているときに釣りに行く人がありますか」と家内が足にしがみ付いても、「降りすがる女房を蹴飛ばしても」行かずばならなかった、年を取るということは有り難い心にゆとりが出来て波風が立たなくなった。

4km甲斐犬との散歩を終えて朝食にした、「玄米パンに納豆を一パック乗せて、さらにゴマをすりながら納豆が見えなくなる程に掛けて、ウコンの粉末を入れた大豆タンパクを牛乳代わりに飲んで」おわる。

今日は11時半には歯医者に予約もある、食事が終わってもまだ朝の6時半だった、今から山に向かうのに30分かかる、2~3時間釣って11時に納竿して戻れば予約をすっぽかさずに済む。

こうしてまで釣りに行った昨日を振り返ってみると、75歳にもなったが20代の若い頃と大した進歩をしていないことが分かる、今でもイワナ釣りに行こうと決めるとやたらに気がはやるのだ。

本流をさけて小沢に入りエサの川虫を獲った、モンカゲロウは世代交代してすっかり小ぶりになっているが何とか使えそうだ、山奥に入るわけではない車がどんどん行き来する舗装道路から草生した空き地に車を入れた。

思ったよりも水は出ていなかった、濁りも少ないこれでは勝負するというよりもずるがしこい相手をいかにだますかの釣りになる、ちょっと弱気になってハリスを0,6号にした。

合わせ切れしない様に気を付けないと、あら嬉しや食いついたか、、、と思う間もなくハリス切れになる、人家の裏から竿を出してみた、誰も釣っていなければいいのが釣れるところだった。

DSCN0082

土手の上から6mのハエ竿を伸ばしてみたがいくら技術の粋をふるってみても反応がない、居れば食いつくはずだった、やはり誰かが昨日あたり釣りに来たのか。

下流に下がりながらいいポイントを釣ってみたがどこを探ろうが出なかった。やはり一足遅れたのだろう何処の何方かわからないが先を越されたのだ、せっかく楽しみにして来たが付いていなかったようだ。

あきらめて上流に向かった、右から1本の流れが合流する、、これは沢ではない、山かげの五十川からトンネルで庄内平野の稲作のために水を引く貴重な水路だった。

ここから上の本流に望みをかけた、しかし出なかったいくら丁寧に時間をかけて探ってもダメだった、右に孟宗の竹林があるそこを過ぎたところにいいポイントが出来ている。

この間来た時にここで33cmの良いやつが釣れた、「細いハエ竿が引き回されて面白かった」果たして今日は?下の本流から遡ってきたやつが居ればここを棲家にしたくなるはずだ、今日だってこの水具合ならいても可笑しくない。

しかし駄目だった下手の広がりをゆっくり攻めてみたがあたりは来なかった、この間はもっと強い濁りの中で最初の流しで食いついてきたのだが、中ほども、流れ込みもあたりは来なかった。

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ここで大雨が降ってきたしばし大木に身を寄せて休憩にした、「これで付きが変わるといいのだが」、これが良かったのかその直後に当たりが来た。

渕の上の変哲もないポイントだった、振り込んだ仕掛けが逆流に乗って流れ込みの石に近ずいたところで当たりが来た、期待もしないで合わせたらずっしりとした感触が来た、これは大きい尺ものがいたようだ、浅い流れの中で姿を見せずに引き回された。

流芯を横切って向こうに回ったり、流れに乗って下手に走ろうとしたり、、これは大きい尺どころではない、「0,6号のハリスが持つか?、」細い仕掛けを引きちぎって走る力は有りそうだ。
相手に合わせて動き回るのはもう不可能だ、何とかこの狭いポイントから出さずに弱らせるほかない、ハエ竿を大きく曲げて引き回された。

やりとりする時間だけは有った、見えてきたのはざっと尺2寸は有る、もう何年も釣っていない大物だ、背中の手網を下ろして掬った。

白い泡となって流れる流芯の右、変哲もないポイントで当たりが来た、すぐ下に有る良いポイントから出張してここで餌を食っていた様だ

白い泡となって流れる流芯の右、変哲もないポイントで当たりが来た、すぐ下に有る良いポイントから出張してここで餌を食っていた様だ

こいつは下手の住処から出張してここで餌を食っていたのだろう、こんな所にいる奴ではない、一冬かけて作った栢(かや)木(のき)の自慢の手網が初めて役立った、結構手間暇がかかったが丸でこの日のために作ったようだ、その後28cmのイワナ、20cmのヤマメが2匹釣れて納竿した。

このイワナとヤマメはまた焼き立てに醤油をかけて、大根おろしで食べてみよう、旨い筈だこの川で育った魚はどこよりも格段に味が良い

このイワナとヤマメはまた焼き立てに醤油をかけて、大根おろしで食べてみよう、旨い筈だこの川で育った魚はどこよりも格段に味が良い

大根おろしで食べる

大根おろしで食べる

引退して新たな生活に入ってみると、釣りを趣味にしたのはクラゲに出合ったことよりも幸運だった気がする、1週間は殴られても笑って過ごせるだろう。