月別: 2月 2013

日本で一番の貧乏高校

昭和30年3月30日の日暮れ近くだった。地元の高校受験に失敗した私はある高校に入学を頼みにゆくことになって、その学校に案内してくれた山大の先生と母と私の3人が、米沢と新潟県の坂町を結ぶ米坂線の伊佐領という駅に降り立った。

駅の周辺は春の固い雪がまだ30cmも残っていた。この辺一帯は山形県一の豪雪地帯として知られている。3人はその雪の上を歩いて8km先にあるキリスト教独立学園に向って歩き始めた。

人一人が歩くだけの細い雪道は、片側は山でもう一方は2,105mの飯豊山から流れてくる大きな川が流れていた。雪融け水を集めて轟音と共にはるか下を流れていた。

どこまでも続く細い雪道

どこまでも続く細い雪道

 

途中で人とも出会わずただひたすら歩き、1時間半が過ぎてようやく人家が見えてきた。今はダムの底に沈んでしまった市野々という集落で、村役場が有ったほどだから村で一番戸数が多かったのだろう。

「ああーやっとたどり着いたかやれやれ」と思ったら、案内してくれた前野先生はまだ奥だと言った。駅に降り立ったのが4時ごろだったから人家にはもう明かりが灯もっていた。

更に40分ほども歩いて山の裾を回ったら暗い山路にまた灯りが見えてきた。川に架かる橋のたもとに寂しいと言うよりも暗い感じの建物が1つだけ建っていた。「ここです」と云われてみたが、私の想像するような高校の校舎は見えない。

杉の木の皮で葺いた屋根、古びた板で囲われた建物は酷いくたびれようで、どう見ても10年も20年も使われずに放置された納屋にしか見えなかった。

そのあたりは固い雪が増して1mもあり、雪よけに入口に作るトンネルをくぐって建物の中に入っていった。

左にヤギが飼われて居て異様な匂いがしている。そして右側には汲み取り式の便所が有った。両方とも恐ろしく臭い代物である。

ここが学校の正面玄関であった。「ものすごい所に来たものだ」と思ったが、何だか得体のしれないものが体の中で騒ぐのが感じられた。歩くたびに床板がガタビシと音を立てた。低い天井から裸電球が一つぶら下がってその下に木の丸いテーブルが有って、先生方が5人囲んで座っていた。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

 

先生方は私たちが来るのを待っていてくれたようだった。5人は山の奥に来たのとは反対に、ある種の近寄りがたい品に満ちた雰囲気を漂わせていた。それにしても中も外もどこを見まわしても貧乏と老朽のそのままだった。

度を越した貧乏さがたまらなく嬉しかった。直感でここは俺の来るところだと感じた。「体中が喜んでいた。」貧乏さも、がたびしも障子の破れも外の雪も皆嬉しかった。

ここでコーヒーが出され飲んでみたが、味が薄くコーヒーの様でもありまた違うようでもあった。何だろうと思ったら校長の奥様が「大豆を焼いて引いたコーヒーです。甘みはサッカリンを入れました」と説明された。

サッカリンと言えば、今は発がん物質に指定され口に入れることは出来ないが、当時は普通に売られて誰の手にも入った安価な甘み料だった。砂糖と違う初めての苦い甘みになじめず二口目は飲むことが出来なかった。

一緒に行った母はあまりのぼろぼろさに不安になって、しきりに「大丈夫か、大丈夫か?」と私に尋ねた。こんな所に一人息子を預けられないとでも思ったようだった。しかし私は「何でもねー、何でもねー」と答えた。

校長はもう定員になったが屋根裏に5人部屋が有る。無理すればもう一人分布団が敷かれるだろう。仕方がない入れてあげましょうと言ってくれた。

その夜母と布団を並べて寝たがえらく寒かった。朝起きてみたらガラス窓が破れていて雪が吹き込み。私の枕元に雪が3cmも積もっていた。

いくら昭和の30年とは言え、日本中を探しても、あれ程の老朽化した貧乏高校は他にない。私はここで世にも不思議な高校生活を3年間過ごした。

これまで語ってきた狸捕りやら、バンドリ撃ちやらはこの時の体験談である。

 

モモンガを喰う

今思えばあの可愛いモモンガを喰っていたのだから我ながら情けないものだ。しかし今の時代感覚で57年前を批判しても、それはかなり的外れになるだろう。

身の回りの自然はまだ生き生きとして山や川が元気だったし、そこで生きるものが自然の摂理のままに営みを繰り返していた。人さまの方だってあの時代はまだまだ貧しく食う物さえ満足に無く、何でもいいとにかく腹が満たされればそれで幸せな時代だった。

育ちざかりの年頃だった。山の中の小さな高校で3度の飯だけでは足りなくて、いつも腹を空かしていた。3時まで授業が有ってその後は2時間の作業が待っていた。畑や田んぼの他に家畜もいたし、炊事の手伝いもあった。

独立学園の正面玄関。となりでヤギを飼っていた。

独立学園の正面玄関。となりでヤギを飼っていた。

その作業の最中に配られる手づくりのパンが嬉しかった。此れだって今思えばとても口に入れるようなものでは無かったと思う。「小麦粉に重曹を入れて甘みには砂糖の代わりにサッカリン」を加えて焼いたもので、二口目にはもうサッカリンと重曹の苦みがきつくなり、腹が減っていなければ咽が通らなかっただろう。
山の木を切り出して燃料にする仕事もあったし便所のくみ取りもした。学校は勉強には力を入れず全校が協力し合って自給自足を目指すような耐乏生活をしていた。

食事もおかずは納豆だけとか、山菜だけとか大変お粗末なものだった。いっぱい醤油をかけて塩っぱくしてご飯を食べていた。しかし誰の口からも不平不満の言葉は出なかった。その粗末な食事を生徒だけではなく校長以下の先生方も一堂に会して頂いていたからだと思う。

食前と食後には校長と奥様が感謝の祈りをささげて、みんなが「頂きます」と声を出してから食べた。

そのような生活の中でモモンガを喰ったのだからご勘弁いただきたい。

2km離れた集落のおやじさんと鉄砲うちに行ったとき、ブナの原生林を歩いていたら、向こうに見えるブナの木の横に張った枝の上にちょこんと何かが乗っていた。

深い山中には木にもやもやとした苔が垂れているものだ。山の人たちはそれを「キブノリ」と言って食用にしていて、わたしもクルミ和えにしたものを食べたことが有るがもそもそとして固く旨いものではない。

キブノリが枝の上に固まっているのかと思ったが、よく見ればそれはリスだった。

向こうは警戒心も無くじっと動かない、すぐに1発ぶっ放した。私は捕まえて食べる気は無かったのだが、とにかく何かに向って撃つその緊張感が面白かったのだ。

手にしてみると小さいし思ったよりも細かった。親父さんは「これも旨い」と言った。これがリスを捕まえた最初であった。すぐに腹を裂いて内臓を捨てた。どんな生き物でもそうしないと後で食べる時にがっかりする。

家に帰るとリスを取出し、頭も手足も付いたままくるりと皮をはいだ。山ウサギやムササビは皮が薄くてすぐに破れて使い物にならないが、リスは皮が厚く丈夫な毛皮をしている。

身は剥がすほどについてはいない。白っぽい肉で脂肪の全くない綺麗な体だった。こんなもの何処を喰うのかと思ったら、親父さんは囲炉裏のオキを寄せて、五徳(ごとく)と金網を置きその上にリスを丸ごと載せて焼いた。

「リスの骨は固くない、塩を振って焼けば骨ごと食べられる」と云った。焼けたところで私にもむしり取って食べさせてくれた。なるほど骨は足も背骨もさして邪魔にはならず「塩振りのリス」は結構な味がした。

その後親父さんは面白いリスの捕まえ方を伝授してくれた。「リスは杉の木立の高い所に、杉の皮で巣を作って住んでいる。それを捕まえるには朝10時までが勝負だ。」

「リスは朝の10時までは巣に入って寝ているので、巣ごと鉄砲で撃ち落としてなかを調べろ。」「住んでいる巣は杉皮が新しいから分かる。」

このことを聞いて何度かリス撃ちに行った。巣は探せばあちこちにあったが、新しい巣はめったに無く、一朝頑張っても1匹か2匹しかつかまえることが出来なかった。

そして1度だけ本当は木の穴に生息しているはずのモモンガが2匹、撃ち落とした巣の中から出てきた。初めて見る姿にびっくりして学校に持ち帰り、皆に見せた。

これもリスとほとんど同じ味だった。