月別: 11月 2014

停電てーものも昔は辛いものだった

電気と言うものは有難いものだ、これが有るから加茂水族館も快適にスピーデイな仕事が出来る。

この建物に移って来てから9月末まで半年間停電は1度も無かった。初めて経験するオール電化は冷房も暖房も快適で、夏は暖房、冬は冷房の古い建物が懐かしくなるほど違ってしまった。

事務室に居ながらにして監視カメラの映像を見ながら、細かく区分けされた館内の通路や、施設ごとに温度管理が出来るようになっている。私の様なコンピューターに弱い年寄りはどこをどういじれば調整が出来るのか幾ら見てもさっぱり分からない。何かあるたびになれた若い職員を呼んでやってもらう他ない。

これ1台で館内の温度管理が出来てしまう。便利な世の中になったものだ。

これ1台で館内の温度管理が出来てしまう。便利な世の中になったものだ。

 

夏休みの混雑はすごかった。特にお盆休みに入ったら出勤するのが怖くなる程に多くのお客様が来てくれた。連日1万人を超える入館者が有ったのだから、もうどうにもこうにも捌ききれるものでは無かった。

入館を一時止めて館内が少し落ち着いてから再び入ってもらったことも何度も有った。こんな日は館内の温度設定が難しい。身動きが取れないほども入った人の熱気で室温が上昇して、うっかりしていると酸欠になりかねない状態になる。

毎日冷や冷やものだったが館内を時々回っては身をもって体感し調整を繰り返すのが日課になっていた。8月は3000人以下の日がたったの2日間しかなく18万人に近い入館者が有ったのだからご想像頂けるかと思う。

しかしオール電化だったので、もしも停電が有っても発電機が自動的に稼働して、クラゲや魚などに必要な電気を賄うようにコンピューターに全てがインプットされているはずだった。

新水族館の発電機。非常時の心臓部である。

新水族館の発電機。非常時の心臓部である。

 

それを確かめる事故が10月14日に起きた。

下村脩先生がアメリカからこの加茂の地まで来てくださった日だった。あの日は台風が通過していて、羽田からの飛行機が飛ぶか皆が心配したくらいに大荒れの日だった。館内を私が案内してクラゲの新しい展示を見て頂き湯野浜温泉の宿までお送りした直後に停電が起きた。

台風は予定よりも早めに通過してもう風も雨も収まっていた。何で今頃にと思ったが館内は真っ暗闇になってしまった。たが昔とは違いオール電化だったから驚かなかった。

自動で発電機に切り替わり生き物には十分な配慮がされているはずだ。皆が落ち着いて事務室でお茶を飲みながら回復するのを待っていた。

やっと復旧したのが1時間後で明かりがついてみたら、何と自慢の「クラゲ大水槽」の水流が止まって見事にクラゲが底に淀んで折り重なっていた。クラゲは自力で泳ぐ力が弱いので海流に乗っている。

水槽では無限の流れの代わりになるのが、ゆったりとした回転だった。

これが止まればクラゲは水槽の底に沈んでしまう。そして時間がたてば全滅してしまう事になる。この度は1時間で復旧したからダメージは少なかったが結局3分の1ほどは傘に痛みが出て取り上げざるを得なかった。

本来動かすべきところに電気が行かずに、要らないところのポンプを動かしていた。設計者が勘違いして設定を間違えたことから起きた事故だった。クラゲの展示は常に危険をはらんでいると言える。

発電機と言えばまた頭に浮かんだ遠い昔の出来事が有った。おぼろげな記憶をたどってみると昭和50年頃ではなかったろうか。旧水族館には発電機らしきものが無かったのである。

館内の水槽がすべて底面ろ過方式で循環のポンプが無いのだから、発電機はいらないと判断したのだろう。可動式の小さな発電機が有って停電時には圧力送風機のポンプだけが動けば魚を殺す事が無いと見たのだろう。

その小さな発電機が故障していたところに停電が起きた。雪の舞う荒れた寒い日だったから12月か1月だったと思う。夜中の2時ごろ依頼していた警備保障会社から電話が有った。

停電の際には私にまず連絡が入る仕組みになっていた。吹っ飛んでいって回復を待ったがなかなか電気は来ない。何もせずに持たせるのは1時間が限度だった。

仕方なしに海水魚の水槽の裏に回った。バケツで水を掬い上げては水面めがけてザザーっとぶちまけて少しでも酸素の補給をしようとした。13ある水槽をただ黙々と水を掬ってはぶちまけて回った。

今は魚もいない旧館で再現してみた。夜通しこんなことはもうとても出来ないだろう。

今は魚もいない旧館で再現してみた。夜通しこんなことはもうとても出来ないだろう。

 

こうするほか魚を生かす方法が無かったのだ。なかなか電気は来なかった。ついに夜が明けてきた。思えば私も若かった。今の私にはそんな力はもうない。体力が良く持ったなーと思う。

その事故が有ってから中古の発電機を買った。しかし全館を賄うだけの容量を持つ高性能の発電機は買えず、3つに区分けをして30分ずつ切り替えることでとにかく魚を殺さずに生かす事が出来るようになった。

とにかく停電だけは勘弁してほしかった。

とにかく停電だけは勘弁してほしかった。

 

あのどん底が有ったからオール電化の今が有るのは本当だが、思えばあそこはひどい作りだった。あの小さな水族館には泣かされたものだった。

 

世の中ってのは~面白いじゃないか

この間アクアマリンふくしまからマイクロバスを仕立てて、外国の水族館館長の一行がやってきた。みなその国を代表するような巨大施設で歴史があって世界的な高い評価を受けているところである。

無脊椎動物の飼育展示では憧れのモナコ水族館の女性館長、大金持ちの父親が娘のために世界一の水族館を作ったと伝説があるアメリカを代表するモントレー水族館の女性館長、カナダやスペインの水族館館長、北京水族館館長もいた。

みな世界を代表するような水族館の館長たちである。

みな世界を代表するような水族館の館長たちである。

 

いずれもどんな巨大な水族館を目の当たりにしても動じないこの業界を知り尽くした方々ばかりだった。なぜそんな方々が出来たばかりとは言え小さな田舎の水族館に来てくれたのか、なかなか理解に苦しむところである。

それはアクアマリンふくしまの安部館長の粋な計らいによるものだった。氏と加茂水族館とは少なからぬ結びつきがある。最初はもう25年も前に二人で渓流釣りを楽しんだのが始まりだった。

どれほど釣れたのか記憶に乏しいがそれほどのことはなかったように思う。2度目は思い切ってちょっとした尾根を越えて人が入らない隠れ沢に行ってみた。やはり人が手を付けていないとなればポイントごとに良いやつが陣取っていた。

イワナ釣りにも最近はあまり行けていない。

イワナ釣りにも最近はあまり行けていない。

 

安部さんは少々腹が出ていてあれでは沢を歩くにも、身をかがめてポイントに仕掛けを振り込むにも旨くないんじゃないかと思ったのだが、以外にも沢に入ると素早い動きを見せてイワナを釣っていた。

かなりの数になったから50以上60ほどの良い型を釣ったと思う。再び尾根に這い上がり車に戻った時には二人ともかなりの満足感と疲労が気持ちよかった。

昔はいくらでも釣ったものだ。

昔はいくらでも釣ったものだ。

あれから10年近い時間がたったがあの沢に入っていない。その後まもなく下手に結構大きなダムが出来て水が溜まりさらに入り難くなった。山に慣れた目で見ればダムで育った大きいやつがあの沢に遡上しておそらくイワナの天国が出来ているであろう。

また二人で行こうかと話すことはあるが、もういい年になってしまった。口はまだ達者だが足も目もいうことを聞いてくれない。

釣りの場面ばかり思い出すが本当に紹介したい「クラゲの縁」を忘れていた。安倍さんが48年前に上野動物園水族館でミズクラゲの繁殖展示を始めたのが、今に伝わる世界中でクラゲを展示する始まりになった。

いつも感謝しているのだが加茂のクラゲ展示の流れを遡ってゆけば、安部さんが源にいるのである。このたびモントレーをはじめ世界各地から来てくれた水族館でもクラゲの展示をしているが、40年以上も前に皆さんが安部さんのところに学びに来て展示や繁殖の仕方を教わったまあ云わば加茂とは兄弟弟子ともいうべき仲間にあたる。

安部さんは4年に一度開かれる世界水族館会議の次の開催館として手を挙げていた。その中間会議が行われたのを機会にわざわざ自前のマイクロバスで加茂まで案内してきてくれたのである。持つべきは友であると感謝している。

世界の水族館館長御一行を迎えての夕食会にて。ふくしまの安部館長と。

世界の水族館館長御一行を迎えての夕食会にて。ふくしまの安部館長と。

迎える我が方の緊張をよそに皆さんがクラゲの展示を見て喜んでくれた。それは想像を超えた姿で歓声を上げて心からの笑顔を見せてくれた。100m続くクラゲ展示の水槽は曲がりくねっていて先が見通せない作りになっている。行く先々の水槽で50種を超すクラゲを熱心に見入っていた。まるで子供に還ったようだった。

見たことのないクラゲが15種いたと数えていた人もいた。11日間のミズクラゲの成長過程を並べたカウンターでも意表を突かれたような驚きようだった。傘の径が60cmにも育ったサムクラゲにも肝をつぶしていた。

2万匹は入っていたであろう「ミズクラゲの赤ちゃん水槽」は、高い繁殖技術を理解してくれた。

きらきらと光を反射して輝く「櫛クラゲ」は飼育が難しいことで知られている。開館以来8種も展示を続けていた。

最後にたどり着いた「5mのミズクラゲ大水槽」では、皆がうわっという声にならない声を発していた。

中東にあるという水族館の1万トンの水槽を見てもこれほど喜んだものか。大きさで競ったとしてもだれも感心はしなかったであろう。目の前のたった40トンのミズクラゲ水槽を見て心を奪われたのである。

ミズクラゲ大水槽を上から覗き込む一行。

ミズクラゲ大水槽を上から覗き込む一行。

 

色々な展示で世界をリードして来た方々の心を捉えたこの小さな水族館の価値は、人の真似でも延長線上でもない新しい価値をこの世に生み出したところにあると思っていたが、この業界を知り尽くした方々だから分かってくれたのだろう。

平成14年に今副館長をしている奥泉を、アメリカのモントレー水族館に視察に行かせたことが有った。向こうのクラゲ展示の素晴らしさに打ちのめされてからもう13年になる。あのショックが目を覚ましてくれた。向こうが「帝国ホテル」だとすれば加茂は「我が家の犬小屋」にすぎないみすぼらしさだと思った。

モントレー水族館のクラゲ水槽。幅7m高さ4mで、日本で作り船で運んだものである。

モントレー水族館のクラゲ水槽。幅7m高さ4mで、日本で作り船で運んだものである。

モントレー水族館のクラゲ水槽。はるか数10mまでも続く!?

モントレー水族館のクラゲ水槽。はるか数10mまでも続く!?

 

その巨大な相手からいつの日か「村上館長、よくここまでやったな」と言われたかった。奥泉と同じ話を何度したことか。その憧れの館長が私に近かずいてきた。「素晴らしいものを見た。また二年後に今度は職員を連れてきます。それまで良い展示を続けてください」と言ってくれた。

モントレー水族館館長、ジュリー・パッカードさんと。

モントレー水族館館長、ジュリー・パッカードさんと。

 

「あの日から奥泉と二人で、貴女のところを目標にこれまで努力をしてきました」と伝えた。

いつかはやってやると努力してきた2人である。

いつかはやってやると努力してきた2人である。

 

努力と多いなる挑戦は願いを叶えてくれたようだ。