月別: 6月 2013

悪い魚捕り-ダイナマイトに点火したら皆逃げた

何年生の時の事なのか、時期はいつ頃なのか思い出せないのだが、親父さんの家で夕食の後、二人で囲炉裏を囲んでバチバチ炎える焚き火にあたりながら、鉄砲のタマ作りをしていた時の事だった。

使った真鍮の「空やっきょう」から、つぶれた雷管を抜いて新しいのを詰め、黒色火薬を計って空薬きょうに入れて仕切りボール紙を入れる。そんな作業をしならが思い出すままに、一緒に山に入ったときの事を話し合うのが楽しかった。

同じ話を何度でもするのだが、その度に興奮して話がはずむ。それを聞いている奥さんに「同じ話をよくあきないもんだ」といつも笑われていた。

親父さんは世事にうとい私を驚かす為に、火薬を火に投げ入れたりしていた。火薬は雷管の小さな爆発がないと絶対に爆発しないのだそうで、本当に火の中で、ブスブス燃えるだけだった。

そのうち親父さんが奥の方から、ダイナマイトを2本持って来た。油紙に包まれた20cm程の長さのものだった。

手で触れてみると、土に脂を滲み込ませたように、表面はベタベタし意外に軟らかい。口に含むとちょっとびりびりするが食べられそうな味がした。

親父さんは端の方を1cm程むしり取って火に入れ「やはり爆発はしないんだ。映画のシーンなんかは皆うそなんだ」と言っていた。

やはりダイナマイトも焚き火の中で火薬と同じようにブスブスと燃えているだけだった。私はダイナマイトに火が付けば爆発するものと思っていたので、本当に意外だった。後に、この中の一本を爆発させる時がやって来た。

農繁期になると頼まれなくても、親父さんの家によく手伝いに行ったものだ。

秋の刈り入れの頃だったと思う。友達数人と刈り取った稲を運ぶのを手伝いに行った。稲の干し方は、地方によって色々な方法がある。

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

 

あの地方では、刈り取った稲をすぐに家に運び、木を組んで造った「ハセ」に三段か四段にスダレ状に干していた。刈ったばかりの稲は水分を含んでいて重く、随分遠くからも運ぶので、なかなか骨の折れるものだった。

不思議に思うのだが、稲を運ぶのは全て人の背中で、荷車とかリヤカーを使う事は全くない。

何処の家でも人手が欲しいので、勝手に押し掛けても大歓迎で喜んでくれた。

その日、私達が行った時、すでに親父さんの家の取り入れは終わっていた。

他の家の稲が所々に残っていたが、最後の収穫の最中だった。

親父さんの家に上がり、何かごちそうになっている間に魚捕りに行こうという話になった。

親父さんは奥の方からダイナマイトを一本持ち出した。それと一緒に導火線と雷管も持ってきた。そして自分の家の田圃の下に大きくて深い淵があって、「ハヨ」がいっぱいいるから、あそこで「発破かけしよう」と言いだした。

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

 

正直なところここまでの記憶は誠にあいまいで朦朧とし、夢か幻のように頼りない。本当だったかそれとも長い年月の間に妄想が現実になったのか、もっと別のストーリが有ったような気もするが、まあそれはそれで良しとしよう。

今、上叶水から、親父さんの家がある新股に行く途中、横川に立派なコンクリート橋が架かっているが、あの頃の橋はもう少し上流にあって、魚のいる淵もさらに200m程上流にあった。

田圃から川に下る時、鉄砲を空に向けて二~三発撃った。ダイナマイトの音を鉄砲と紛らわす為だった。淵に行って見たら近所の子供二人が先の折れた3m程の釣り竿で何かを釣っていた。

何でも親父さんの説明に依るとダイナマイトの威力というのは、周囲全体に及ぶのではなく、水の厚い方に放射状に広がっていくので、川底の方に沈めてしまうと、水面の方に広く効果が出るので底を泳いでいる魚は死なない、と言って居た。

魚をいっぱい捕るためにはダイナマイトを深く沈めずに、水面下二尺程の所に止めて爆発させると川底に広く及ぶのだと言っていた。子供の釣竿を借りて先に紐を縛りつけ、二尺ほどの所にダイナマイトと重りの代わりに石を二~三ヶ結び付けた。

ダイナマイトに雷管を押し込み、10cm程の導火線を雷管に差した。10cmの導火線が一体何分保つのか何秒後に爆発するのか親父さんさえも、他のだれも分からなかった。

日頃強がりを言っている友達も皆、竿を持つのを嫌がって後ずさりし、親父さんさえ尻込みした。

「それでは俺がやる」と自分から言い、私が爆発役を引き受けた。一度練習した後、親父さんがマッチで導火線に火をつけた。それまで近くで見ていた友人も子供もみな遠くまで逃げてしまった。

火をつけた親父さんさえも導火線から火花が出始めたら逃げてしまった。だれもがダイナマイトの爆発を恐れていたのだ。

私が竿を持つ手を伸ばして水面下二尺程の所にダイナマイトを沈めた、その間にも爆発するのではないかと言う恐怖心が有った。この時の決断はこれまでの73年に及ぶ人生の中でも特別大きなものだったと思う。体をがちがちになり竿を持つ手が他人のように感じられて、頭がしびれそのまま倒れてしまうほどの緊張だった。
ダイナマイトと一緒に縛った小石が飛んできたら死ぬだろうとも思った。

思ったよりも待つ時間が長いと思ったのだが、どの位だったろう。20秒か30秒位だったと思う。あれっ爆発しないのかなと思っていたら、じきに下腹に響く「ズシン!!」という音と共に水柱が上がった。爆発音は鉄砲とは全く違う振動のような音だった。

しかし水柱は意外と小さく、やはり川底の方に向かって力が広がっていったようだった。

皆が寄ってきて深い淵の底をじっと見ていたが、なかなか魚は浮いて来ない。

しばらくの後、一匹のハヨが白い腹を時々見せながら流れてきた。

それを淵の下手で拾うと、後は次々と白い腹を見せて流れてきた。中には生き返るのか、力なく泳ぐハヨもいた。流れてくる魚はどんどん多くなっていった。

それと同時に元気が出て捕まえるのに苦労するハヨも現れた。

皆はしばらくの間、夢中になって魚を拾ったが、やはり「御禁制」のダイナマイトを使ったという引け目があり、魚はまだまだ流れてくる中を引き上げて来た。

イワナが二~三匹とあとはハヨと呼ばれるウグイのみで、全部で何匹ぐらい拾ったろう。20~25cm前後のが三十匹だったか五十匹だったか、その位と思う。誰かが長靴を脱いで、魚をその中に入れ、人目に付かないように帰ってきた。

しかし悪い事は出来ないもので、途中の田圃で仕事をしていた鉄砲撃ちの仲間に「鉄砲と違う音がしたぞ」「ハッパ掛けたろう」と言われ、悪い事はすぐにバレるもんだなと変な事で感心した覚えがある。

今の高校生がそんな事をしたなら、結果は退学か良くても停学だろう。お巡りさんに知れたら刑務所行きになりかねない事態だ。それに比べ何事もなく過ぎたあの頃はおおらかな良き時代と言えると思う。

逃げ出したいほどの緊張の中でとにかく乗り越えたこの事が、私の後の人生に大きく影響したと思う。社会に出て多くの難しい局面に出会ったが、運がいいのかたまたまだったのか解らないが、何とか度胸ひとつで乗り切ることが出来た。

男って奴は意地の塊だから、大事なところで「引いたら価値が地に落ちる」・・・しかし目をつぶってでも突っ込めばそこで道が開けるものだ。

16歳で身に着けたあの「命がけの決断」は、良くも悪くも私の生き方を決めた。