月別: 4月 2011

館長思い出語り 1

もう記憶のかなたに忘れ去られようとしているが、かつて加茂水族館が倒産の危機に面し職員全員が解雇されたことがあった。

入館者の減少で追い詰められた平成の10年ごろの事ではなく、まだ20万人近い入館者で賑わっていた昭和46年の暮れのことであった。

そもそもの成り行きは、武士の商法ではないが役人の商法が破綻した結果であったと言える。時の市長が発案した「湯の浜温泉一帯の観光開発」を目的とした会社は、加茂水族館を買収するなど、鳴り物入りで発足したが旨くいったのは最初の1年だけだった。

あの頃流行して歌まで作られた「船橋ヘルスセンター」を真似て、宴会場と風呂そしてプールを備えた日帰りの施設「満光園」を作ったのであるが、とりわけ魅力的なものが有る訳ではなかったので、一度来た客が満足していなければ次に繋がらない。たちまち翌年から経営の危機に直面することになる。

何とか客を増やそうとの努力はあったがオープンして四年目の昭和46年12月31日、全職員が大広間に集められた。暮れも押し迫った今、何事が起きたのかと思ったら、社長だった郷守重右衛門氏より「経営が行き詰まった、これ以上の経営は出来ないので全社員を解雇する」と言い渡された。事実上の倒産であった。

職員は皆、市長が発案して鳴り物入りで発足した会社がそう簡単に潰れるわけがないと思っていた。が、しかし職員20名がいとも簡単に4年を経ずにして職を失うという事態を迎えてしまった。(このときのことは庄内日報の昭和47年1月26日紙に詳しく記載されている。)

湯の浜の施設は閉鎖したが水族館には生き物が居る。簡単に首になったから放ったらかすと言う訳には行かない。誰かが面倒を見ないことには皆死んでしまう事になる。

魚だけではない。ゴマフアザラシにフンボルトペンギン、カリフォルニアアシカ3頭のほかにもオットセイも1頭、そして水族館にはそぐわないと言われたアカゲザル20頭、海水魚、淡水魚から熱帯魚などの魚まで餌を与え、温度管理をして、汚れた濾過槽の掃除や、不慮の停電などの事故に備えなければならない。

私のほかに飼育課長だった田中巳知雄、湯の浜温泉の施設からは営業課長の石川新一、バンドリーダーだった伊藤英三の3人が交代で寝泊りをし、閉鎖した水族館の面倒を見ることになった。

金庫は空でしかも先がどうなるとの目処はなし、収入の道を閉ざされて、お先真っ暗な中でどうにも気持ちのやり場が無かった。

解雇された誰もが奥さんの実家からお金を借りたり、生命保険を解約したりやり繰りに苦労していた。

あの頃は失業保険を申請しても、お金がもらえるまでには時間が掛かっていた。結局3月の12日まで2ヶ月と11日間失業保険はもらえず仕舞いだった。

暗い気持ちの中で思い付いて山形大学農学部の恩師阿部襄先生に相談に行った。

先生は水族館の閉鎖は知らず私の話に驚いていたが、庄内日報に投書して窮状を市民に訴えてくれた。八方塞がっていた中で恩師の温かい思いやりには嬉しかった。

この新聞を見た市民が一人また一人と水族館を訪れて、黙ってお金を置いていってくれた。自分の明日も知れない境遇の中でどこの誰とも聞かないでしまったが、今思い出すたびに返す返すも残念でならない。

生みの親の鶴岡市が、路頭に迷った職員に一切の救いの手を差しのべることも無かった中で、どこの誰とも知れない市民が、水族館の生き物を救うために寄付をしてくれたのである。今改めてあの時のお礼を述べさせていただきたい。

私達が暗い気持ちで動物の世話をしていたあの昭和47年の冬とは一帯どんな世相だったのか、結構強い印象となって残っているのでちょっと述べたい。

日本で初めて冬季オリンピックが札幌で行われた年である。わが越冬隊の4人は、することも無く宿直室のコタツでテレビに映る、笠谷、青地、金野の3選手が70m級のジャンプで表彰台を独占すると云う快挙を見ていた。

それともう一つ、浅間山荘事件である。山荘を取り巻く警官と中で抵抗する日本赤軍のメンバーの攻防を、やはりはらはらしながらテレビで見ていた。

そして春3月12日(日)、会社として経営難の問題が解決したわけではなかったが、市民の寄付に支えられてなんとか無事生き物も越冬し再び開館することができた。

そのときのメンバーは館長の私のほかに、飼育課長の田中巳知雄と飼育係の三船喜雄、岡田孝それに管理人の冨塚十吉、事務の佐藤美愛の6人が常勤の職員であった。

他には季節的に売店と食堂、受付に5人ほど臨時職員として採用していた。

色々な経緯があって6月頃、東京の株式会社佐藤商事が負債1億4000万円を含めて経営を引き継ぐ事になり、事実上再建された。

あのとき佐藤商事の秋元社長が経営を引き継がなかったら、結末は一体どうなっていたろう。寄せ集めの第3セクターの株主構成の中で、他に火中の栗を拾う奇特な方が居たとは思えない。恐らくは市の議会でも大きな問題として取り上げられて、すでに引退していたとは言っても、発案者である足達市長は責任を追及されただろうと思う。

その後満光園は経営安定のためにホテル化してゆくことになるが、経営が軌道に乗ることはなく、長く水族館の利益は流れ続けた。