月別: 4月 2012

平成9年に有った幻の水族館建設計画

平成9年というとまず私の頭に浮かぶのは「どん底でクラゲに出会った年」だ。しかしその大きな出来事に隠れたもう一つの書き残しておかなければならないことが有る。

あのころ、ここの長い歴史の中でも最も入館者が少ない時期で、館長である私も倒産という無言の圧力にいつも押しつぶされそうになっていた。築30年を超えていたので入館者の減少はそのせいであり、この難局を乗り切るのは新水族館の建設以外にはないと思っていた。

人口が少なく交通の便もよくはないし、観光客とて少ない庄内地方では何十億掛かるか分からない水族館の建設は、民間の仕事としてはとても採算が取れるとは思えず、鶴岡市にお願いする他無く折に触れては出かけて行き何度となくお願いしていた。

暖簾に腕押しのようなやり取りばかり何年続いたことか、しかしそのような中で実現すると思えた一時期が有り、それが平成8年に検討会が始まり9年にまとめた「水族館改築基本計画」であった。

市の音頭取りで関係する観光課と企画調整課、県、コンサルタントの大建設計、そして民間の施設だった庄内浜加茂水族館からは館長の私と飼育係の奥泉が参加した。

前もって市が1500万円の予算で古くなった加茂水族館を、酒田市の日本メンテによる耐震診断をし、現在の基準には到底及ばず地震の際には危険な状態であると言う結論を出してあった。

その結論に基づいて3つの案が出されそれぞれ真剣な話し合いが続けられた。

1つは今使っている建物を現在の耐震基準に合った強度に補強して使い続ける
2つ目は補強した建物に増築をし魅力アップして使う
3つ目は移転新築する

この時初めて真剣に新しい水族館を建てる検討をした。あの時それまで考えていた様々な提案をした。メインは「鱈場と呼ばれる水深200mの深さの漁場に生息する魚の展示」鱈場の名前を使って庄内浜に水揚げされる魚類を展示することを提案した。

鱈や、イシナギ、ホッケを群泳させたいと考えたのだが、提案しながら思ったのは北の海に生息する魚はいずれも地味な色彩のものばかりであった、思い描くすべての魚が見た目の魅力に欠けている「これではたしてお客様は来てくれるだろうか?」「たぶん大した効果はないだろう」という思いに至る。

ならば飛島には暖流が直接流れていて、時々色とりどりの熱帯性の魚まで現れるそれを入れたら多少は見栄えがするだろうと、苦し紛れに「飛島の大水槽」の案まで出された。もうこうなったら庄内浜の魚類を展示すると言う理念はどこにもなくなる。「どうしようも無いなー」と思ったが3つ目の案に盛り込まれた。

この時は自分が情けなかった。これまで長い間市に働きかけて「水族館を建ててくれ」とお願いしてきたが、いざとなった時にこれと言った自信を持てる提案が出来なかった自分の力のなさに愕然とさせられた。

たとえば何か「これという目玉」を中心に据えた水族館を建てれば、遠くからも多くの方が足を運んでくれるだろうと言う思いが有ったが、その目玉が出てこなかった。そして自信の持てないままに纏められたのが平成9年の「水族館改築基本計画」であった。

このみじめな思いが大きな教訓になった。長く続いた不況の中でも積極的に前に出て、多くの経験を積むべきだと悟った。丁度その年にクラゲと出会うと言う偶然が重なり、毎年拡大に次ぐ拡大をし展示種類数を増やしていった。

自信が持てない提案をしたと言う経験が無かったら、果たして貧乏の極みの中であれほど積極的な考えを持つことが出来ただろうか。そう思うとあの時の経験はタイミングと言いショックの大きさと言い、クラゲで立ち直る前奏曲のように思える。

46年は夢の如し -車いすの道-

この頃どこに行っても障害者に対する配慮は行き渡って不自由な思いをさせることは殆ど無いが、ここ加茂水族館はそうはなっていない。昭和39年の建物がいまだに使われている関係上、とても配慮がされているとはいいがたい。

入り口の階段にスロープをつけたり、トイレを障害者用に改造したりしてみたがその辺が限界であった。

何とかどこか改造して、小さくてもいいからエレベーターでも取り付ける余地はないか、専門の業者さんに来てもらい散々調べてみての結論は、どこにもそんな余地はないし構造的にも不可能ということだった。

以 前と違って障害者のかたも施設だけではなく、家庭からも一般の人と同じように普通に入館されることが多くなった。車椅子の方もクラゲが目当てでやってくる ので、せっかく世界一にまでになったクラゲを何とか見ていただきたい。3人がかりで車椅子ごと持ち上げて、階段を下りてゆく姿を見るのは忍びなかった。

何 とか車椅子のまま下の階に行けるように出来ないものか、仕方なしに思いついたのは「外に出れば建物を回るようにして下の階に降りてゆく作業用の車道が有 る、これを整備して車椅子の方でもクラゲやアシカショウを見ることが出来るようにしたら、喜ばれそうだ。」そう思ってすぐさま多少の手を加えて使えるよう にした。

大いに喜ばれ利用されていたが、あるとき障害者の団体を案内してきた女性が「こんな危険な所を通らせるんですか、市の施設なのになんですか、全く配慮がされていない」とこっぴどく怒られた。

確かに云われないまでも分かっていたが、坂が急で不安になる所があった「しかしそげに怒らなくても…」と口に出そうになった。

車椅子が下りてゆく道の、灯台側にそびえる岩山は元々切り立っていて建物との隙間は僅かしかなかった。

私が働き始めた昭和41年には、もっと幅が狭く車が通れる余地は無く、リヤカーが通れるだけの実に狭いものだった。

あの頃水族館に車は無かったのである。毎日アシカやアザラシ、魚類に与える餌は約1km離れた所にあった漁協の冷凍庫まで、職員がリヤカーを引いて運びに行っていたのである。

翌年に初めての車が配属された。日産のセドリックバンであった。

あれから切り立った岩山は年を重ねるごとに、風雨に晒され少しずつ崩れて何時の間にかリヤカー道は、車が通れる幅に広がった。

やはり46年という年月は、短くなかったということだ。 そしてこの裏道を整備して、曲がりなりにも車椅子の方が1階に降りて行けるようになった。障害有る方もアシカショウやクラゲの展示を見ることが出来るようになった。

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