月別: 1月 2014

もうこの年になると昔の事だけがバラ色に見える

12月からの閉館もいつの間にか2か月になろうとしている。どんどん時間が過ぎて開館の日がその分近くなってゆく。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

 

11月いっぱい営業して12月1日から開館準備のための閉館に入っている。それまでの忙しさは並のものではなかった。定期的に行われる設計や運営の会議など毎日予定が入って午前も午後もいつも塞がっていたが、それに加えてアポなしの来客が多く加わってきた。

50年前の開館以来この小さな水族館には応接間が無かった。初めから事務室にお客様をお迎えするソフアーもテーブルも備えていなかったのだ。

閉館してからはもっぱらこれ幸いと押しかける来客の応接間として、レストランのテーブルと椅子を使用することにした。席数が40といささか狭かったところに入館者が増えだしたために、いつも昼時になると順番待ちの列がつながっていた。

しかし閉館してしまえば座る人とていないわけだから、応接間の無いこの水族館にとってはうってつけの打ち合わせ場所になった。話している途中で目を上げれば、向こうのテーブルに次のお客様が待っていた。

次々に替わる相手に違う話を聞きながら、74にもなった白髪頭の中は混乱して整理がつかなくなる。

新水族館のレストランと売店については市の建設責任から外して、水族館が自分で設備投資をしろとの方針だから、売り込む相手にしたら魅力あるターゲットに見えたのであろう。

同じ時間にダブってOKしてしまい待たせたことも再三ある。やはり新しい水族館がオープンするという事はただ事では済まない。開館すれば多くの客が押し寄せる人気の施設になるのが見えている。それを目当てにいろいろな職業の方が商談にやってくるのも自然な成り行きだろう。

商談だけではなく報道関係も多く来たがテレビや新聞だけではない。観光案内の雑誌とか会社の社内報も有る。他県からもラジオ放送の電話での出演依頼も来る。それに加えて館長目当てに原稿や講演の依頼もあった。

74歳になった老館長には結構きつい日々だったが、入館者が来なくなると同時に電話も減れば、館長目当ての商談も同時にうんと少なくなったのはありがたいことだ。

あまりの忙しさにいつの話だったか相手の会社名も定かではないが、どこかの警備保障さんだったと思う。自社を売り込みに来て保障だけではなく「お金の管理もお手伝いします」という話が出た。

自社とつながった何とかという機械にその日の売り上げを入れれば、機械がお札と硬貨を仕分けして金額が記録されて、そこから先は警備会社の責任で保管されるとのこと。

銀行さんが集金に来なくても、居ながらにして預金までの仕事をしてくれる仕組みらしい。
「館長さん、5月の連休やお盆の休みは銀行さんも連続して休みでしょう。その間の売り上げはいったいどうしているものです?、、」と聞かれた。「今は特別に集金に来ていただいています」「昔と違って融通を効かせてくれますよ」

と答えたが長い歴史の中では考えられないようなお金の管理もされていたことを思い出した。20年かあるいは30年も昔のことになるが昭和55年ごろだったと思う。5月の連休になると連続4日も5日も銀行さんが集金に来てくれないものだった。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

 

あの頃まだ入館者も結構多く1日の売り上げが400万円ぐらいにになった。夕方閉館して数えてみると実に多くの種類のお金がある。10円玉から50円、100円の硬貨が多く売上金額の割にはかさ張るものだった。

2日目あたりから金庫に入らなくなって、鍵のかかるロッカーに入れたりしたがドロボーならすぐにでも破られそうで何だか不安だった。日々増えてゆくお金をどこに保管するかがいくら考えても方法が見つからない。

「んだば俺がリュックに入れて背負ってゆく。家さ預かって明日またもってくる」夜は枕元に置いて寝た。4日目あたりから大きく膨らんだリュックはずっしりと重かった。
膨らんだリュックには2,000万円以上は入っていただろう。枕元に置いたからと言って安心はできないものだった。民営時代だから出来たことで、市のものになった今では売上金を何千万円も自宅に持ち帰るなんてできるはずもない。いつも思うが私の思いつくことはバカバカしいことばかりだ。

あれで何の事故もなかったのだから思い出すたびにニヤリとなる。「爽やかな一陣の風」のような温かさを感じるのは気楽な性分がそうさせるのだろう。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

 

 

オットセイ騒動記

休み明けに出た朝だった。「昨日水族館のすぐそばの磯場にアシカがいると電話があった」と報告を受けた。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

 

水族館のが逃げられたのではないかと思ったらしいが、これがアシカではなくオットセイであった。なぜ水族館の下と言えばいいのか50mも離れていない磯の中まで入ってきたのか分からないが、これほど近くに現れたのは50年来初めての出来事だった。

オットセイがこのあたりにいること自体は珍しいことではなく、ただ目に触れる事がめったに無いだけである。毎年冬には日本海を南下して佐渡沖までは来ているのでたまには死んだものが打ち上げられたりして見ることがあった。

吹雪の舞う荒れた海をどこに避難しているわけでもなく、泳ぎながら餌を捕まえ移動しているわけだから丈夫なものである。若い飼育係から報告を受けたが、話を聞きながら遠い昔を思い出して「俺も若い頃ずいぶんバカなことをしたもの」と一人笑ってしまった。

30歳くらいの若かりし頃の館長

30歳くらいの若かりし頃の館長

 

さかのぼる事41年になる。昭和47年の3月ごろだったと思うがすぐに年代がよみがえったのはオットセイ事件とともに、ここが本社のとばっちりを受けて倒産して騒動の中にいた年だったからだ。

昭和47年と言えば日本が世界中の海に自由に出かけてマグロやカニだけではなく、サケ、マスにエビやカレイなど魚を捕りまくっていた頃だと思うが、この加茂地区からも毎年3月になると船体を青色に塗られた船が何艘か、北洋にサケマスを捕りに行くために出航していった。

出航してゆく船を加茂水産高校の生徒さんが全校あげて岸壁に並んで、ブラスバンドの演奏勇ましく送り出していた。ずいぶんと勇壮なものだった。
その中の船頭さんの一人と懇意にしていた。いつだったか定かではないが「北洋にはオットセイがいっぱいいて、網を巻き上げるときに中に入って来ていくらでも捕まえる事が出来る」と言った。

お互い冗談半分だったが「それならここで飼育したいので1匹頼む」と私が言ったことも記憶にある。あの頃はまだ「海(ら)獺(っこ)、オットセイ条約」という厳しい内容の国際条約が生きていた。とにかく「ラッコもオットセイも捕まえてはいけない、死んだものを拾ってもいけない、、、」という内容であったが、そのまままかり通っていた。

なぜこんな厳しい条約が、、、、、と思われるだろうが、聞いたところによれば日本が戦争に負けて、繁殖地を持つ戦勝国(ロシア、アメリカ、カナダ)に押し付けられたのだとか、、、、それだけ日本は戦中も戦前もラッコやオットセイを捕り過ぎがあったという事でもあるのだろう。

そんな中で雑談して捕まえて来てくれ、、、と言ったのだから私もとんでもないバカだった。

そして突然例の船頭さんからの電話で「館長オットセイ1匹もって来たぞ」と連絡があった「えっまさか本当にか」と思ったが後の祭りだった。

大きな籠に入れられたオットセイは大きさが15kgほどでかわいらしかった。よく見れば肩から首を回るように深い傷が体を半周するほども見えていた。ぱっくりと口を開けた傷口は白い脂肪層よりも深くまで達していた。「これでよく生きていられるなー」と思わせるほど重症に見えた。

怪我もしているしまず預かって飼ってみるかと引き取って、赤チンキを傷口に塗って当時フンボルトペンギンが入っていたプールに収容した。

当時のペンギンプール。

当時のペンギンプール。

 

これをだれも気が付かなければ何事もなかったのだが、地元のNHKさんににすっぱ抜かれた。出勤してみたらみんなが騒いでいた。「朝、ここのオットセイが国際条約に違反して飼育されている」とNHKの全国ニュースとして流れたと言っていた。

それでは大変なことになった、もう飼育はできない海に放流するほかないと思った。私が手つかみして捕まえてそのまま海中にほおり投げてやった。大荒れの日だったが「こんな波でも泳げるものだろうか」との心配をよそにあっという間に大波を乗り越えて姿を消してしまった。
そこに職員が走って来て「館長警察が来た」と知らせてくれた。その時「捕まりたくはない逃げるほかない」と思ったから、もうどうしようもないバカだった、裏口から外に出て車に飛び乗ってどこに行くとも当てもなく逃げ出した。

逃げても仕方がないと気が付いて2時間もして戻ると警察に連れて行かれた。証拠のオットセイが居ないままでは警察も困っていたが、時には厳しくまた時にはやさしく誘うように取り調べられて、ありのまましゃべらされた。

書類送検され後日検察にまた調べられて散々怒られて、交通違反などと同じ略式の違反で3万円の罰金が科せられた。持ってきた船頭さんは5万円の罰金だった。

館長がどこに顔を出してもオットセイの話しでもちきりになった。他の報道機関も取り上げて結構大きな話題になったが、オットセイが大けがをしていたという事が幸いして、条約に違反していたという事よりもそれを保護したのだと加茂水族館を擁護する声が多く寄せられた。
後に日本動物園水族館協会から「オットセイの飼育についての通達」で国際条約に違反しないようにとの注意が来た。

すべて私の「物事を軽く見て行動を起こす」という未熟さが招いた騒動だった。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

 

昨日ここに現れたオットセイは結構な年寄りに見えた。まさかあの時私が放り投げたあいつが、新しい水族館が出来るのを祝って挨拶に来たのではあるまいな。

 

 

薄氷を踏む心境だ

雪の少ない静かな正月を迎えた。慌ただしいことは何もないこれまでで最も穏やかな元旦だった。それもそのはず12月から閉館していたせいで何末年始の混雑はなく、アシカショウやクラゲの解説もない訳だから職員も皆長くまとまった正月休みを取る事が出来た。

私は特別にお年寄りサービスという事で暮れの31日から3日まで連続して4日の休みが割り当てられた。これもここに勤め始めて以来の長さである。

50年前に鶴岡市がここに水族館を立てて以来、お盆も正月の休みも無い経営をしてきた。それが当たり前で働いていたがこうしてゆっくりと人並みに休めるのも悪くはない。

民営時代のほとんどは週に一度の宿直があって、年末の31日か元旦のどちらかを宿直をしていた時代も長く続いた。市営時代からだったが管理人さんが居て夜の見回りもしてくれていたが、せめて休日ぐらいは自宅に帰してあげたいと思い、男3人が交代で宿直をしていたという次第だった。

静かなとはいっても今年はただの正月ではない。50年に一度の大仕事がいよいよ6月に審判を受ける時がやってきたのである。元旦の朝早く目が覚めてごそごそと起きだしたがやはりいつもの朝とは感覚が違っていた。

今建設中の水族館は平成19年に私が規模と内容をこれがいいだろうと提案して、市が受け入れてくれて始まった仕事だった。詰まるところが結果責任は私にあることになる。基本計画を作成する会議から始まって、ここまで4年もかけて多くの人が協力してくれて万全の体制を引いて進めては来たがどこまで行っても心配は尽きない。

工事が2か月遅れた分がクラゲの繁殖成長計画に影を落としているし、初めての本格的なレストランは思い描いた評価が得られるだろうか、押し寄せる入館者をどのように対応すればいいのか、駐車場の不足はどうする、各部署の職員は足りるのか、宣伝は、内覧会は、外国からの招待者は・・・、下村脩先生は約束通りに来てくれるだろうか・・・・・・。みんな胸を押し潰すような心配の種だった。

外は時折吹雪が舞っていた。気温の低さが身を引き締めるのか元旦の朝は緊張感が張りつめて、いつ割れるかもしれない薄氷を行くような心境になった。

静かに過ぎてゆく新たな日々も、70歳を過ぎた二人だけの家はいたって平凡で何の予定もない。どこと言ってゆく当てもない暇を持て余して手をかけたのが、ぶどう蔓での籠編みだった。初日は半日かけて底を編んで、翌日は側面を半日で編み、3日目は縁を編んで最後の日には手を取り付けた。これで完成だった。

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まあ何とか様になりそうな手づくり感のある「ぶどうの籠」が出来た。もうずいぶん前から民芸品を売っている店で目にするたびに編んでみたかったのだが、材料が簡単に手に入るようなものではなかった。売っているなら買いたかったがそんな店もない。欲しければ自分で山に入って採ってくるほかに道はないのだ。

太く成長した蔓からきれいに皮が剥がれるのはたったの2週間ほどしかない。時期が外れれば手に入らない材料だった。それを乾燥してまた水に戻して柔らかくして、1cm~2cmと幅を決めて編む材料を作ってゆく一連のこの作業だって面倒だが面白い。

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この思いがかなったのは今年から来てくれた山手の職員が、私の思いを知って採ってきてくれたからである。元旦の薄氷を踏むような緊張感と曲がりくねった蔓を相手に悪戦苦闘している館長の姿が妙に様になる。春までにあと2つ~3つは編めそうだ。