月別: 4月 2013

館長だって市債が買えなかったんだ

18日の朝9時半頃だったろうか。「市債を買いに行ったが長く並ばせられて待っていたが途中で打ち切られてしまった。どこに文句を言えばいいんだ」と云う電話ばかりがつづいた。

「いやーそれはここではなく鶴岡市の財政が担当です」と答えると「それなら電話番号を教えろ!」とどなたもかなりの剣幕だった。

そういえばこの日、鶴岡市で「クラゲドリーム債」を売り出したことをうっかりしていた。私が年のせいでぼけたのではない、朝から続く来客にまぎれて忘れていたのだ。その後市の担当から電話が有って知らされたが、たった20分で売り切れたとか。

電話対応に追われる館長

電話対応に追われる館長

 

20分でと言うのは市の公式発表で、本当は15分もかからずに売り切れたらしい。荘内銀行東京支店の窓口に取材に行った東京のテレビ局が教えてくれた。「お陰で取材が出来ないでしまった。とにかくすごい事になったものだ」とびっくりしていた。

ネットのヤフーニュースでも19日、20日とトップを飾っていた。この宣伝力は大きいものが有る。日本中の誰もがネットを開けばまず目に飛び込んでくるのがこのちっぽけな水族館の話題なのだから、お金に換算したら一体いくらになるのか。大きなプレゼントを戴いたことになる。

 

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

 

微かな記憶をたどると、この話が持ち上がったのはほぼ1年も前の今頃ではなかったろうか。どこからともなく誰の発想ともしれず「市債を発行して新水族館の建設資金に充てるらしい」と伝わってきた。

この話を聞いた時には特別の感情は湧かなかった、建設費用については「合併特例債」を当てると聞いていたから、現場の水族館職員にとっては別次元の話だった。

その後次第に具体的になってきて議会に提案されて本決まりになり、記者発表を市長と並んで行うにつれて、これは思い違いをしていたことに気が付いた。「こう言った形の市債」は山形県内でどこの自治体も経験したことが無く、全国的に見ても随分珍しい企画らしい。

そうなると売れるか残るかはすべてが現場のこれまでの仕事ぶりが問われることになる。若し売れ残れば46年も館長であった私の経営が悪かったからで、まさに腹切りものである。早々と売れてくれれば逆に現場の仕事ぶりが高い評価を受けることになる。

思い出しては気になっていたが、こんなに早く売れ切れるとは館長である私さえ予想の外だった。20分で売り切れたと知らせてくれた財政の担当の声も上ずっていた。どなたの発想かしれないが、15分で売り切れたこの話題は日本中多くの人の関心をクラゲの水族館に集めるに十分だった。

また市民に明るさと活気を与えてくれたし、新水族館を盛り上げる手段として「市債を発行すると言う手段」は、アイデア館長を自認している私も考えが及ばない素晴らしいものだった。

多くの知人に何とか特別に100万円分を分けてくれと頼まれたが、館長である私にさえも特別の枠は無かったし、買った方の何倍何十倍の方があぶれたわけである。

今しばらくは並んだが買えないでしまったとか、地元に配慮して枠を増やせとか話題は続くと思う。これも嬉しい悲鳴の一つだろう。

その最中の昨日の午後、「みのもんたさんの番組スタッフ」と名乗る電話が有って、「市債が15分で売り切れたニュースを見た。取材に応じてくれるか?」と聞かれた。こんな有り難い申しではない、いかようにも応じますからぜひお出でください、とお願いした。

「検討してあした電話します」と言って居たが、お昼の12時になってもまだ連絡が無い。もしかしてあの電話は昨日見た夢だったのではないか・・・いやまさか。

 

 

命がけのウサギ撃ち その2

独立学園は山奥の狭い谷間に建っていたものだから、遠くまで見通せていい眺めなのはサルッパナと呼んだ山の方角だけだった。

右も左も皆山に囲まれて人家も見えず、人の手が入ったことのない原生林が山並になって綺麗だったが、本当に狭い所にへばりつくようにして学園村は存在していた。

朝に夕に眺めたあのサルッパナの後ろ側はどんな山なのか、学園生だけではなく地元のひとさえ知っているのは、わずかしか居ないのではないかと思う。

私は真冬の厳寒期に三度、尾根を越し、陰のブナの原生林で兎追いをした事がある。今回はその時の事を書いてみようと思う。

 

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

サルッパナの向こうの原生林を、親父さんは「ナベコ」と呼んでいた。行ってみると分かるのだが、広い原生林で、果てしなく続き一歩踏み込むとどこも同じに見えて、方角さえ判らなくなる程の見事なブナ林だった。

親父さんはその大きさを、「ナベコ一千町歩」と表現していた。紙切れの手紙が届いて誘われて、初めて行ったのは二年生の時の事だと思う。

行く度に疲れ果てて、死ぬ思いをして帰って来るのでもう絶対に山には行きたくないと思うのだが、一週間も過ぎると又山に行きたくなるから不思議だ。

行くと決めた丁度その日は、「満月の月回り」で夜になればバンドリ撃ちができる条件だった。親父さんは「ナベコにはだれもバンドリ撃ちに入っていない。ものすごい数のバンドリが居る。せっかく行くのだから夜まで粘ってバンドリも撃とう」と言った。

何が幸いするか分からないもので、バンドリ撃ちが出来る月回りが、全員の命を助けたと言えると思う。なぜ助かったのかこの辺は後で述べるので次第に分かってくると思う。

参加したのは私の他に地元の三年生一人と寮生が二人居た。鉄砲は親父さんのが一丁と、近所の人から借りた「24番の村田銃」が一丁で、三人が追い役をする段取りだった。

 

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

朝の5時ごろだったろうか真暗いうちに起き出し囲炉裏の側に来ると、いち早く親父さんの奥さんが起きて働いていて、子供の頭程もある大きな握り飯をこしらえてくれた。

私と二人の学園生は、親父さんの家に泊まっていたので、奥さんは四人分のおにぎりを作ってくれた。皆張り切っていて、親父さんもナベコに行くという事で、いつもとは全然違い特別力が入っていた。

「明日は夜まで山に居て、暗くなったらバンドリ撃ちをするぞ!!」と、前の日から全員に号令を掛けていた。従って、お握りは二食分を持参することになった。

風呂敷に握り飯を二つ包み、腰に巻いてしばり付け暗い中を出発した。小倉林道の入口を過ぎ、「アカハゲ」と呼んだ次の沢の辺りから右の崖の上に上がって進む。雪崩で川沿いの車道は歩けないからだ。

サルッパナの頂上から尾根を半分ぐらい下がった辺りの中腹に、「クルミ平」と呼ばれる一寸広い台地が見える。その下に取り付いて登ってゆく、台地を越して尾根に近づいたあたりからブナの大木が繁り原生林となっていた。

 

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

そのまま真っ直ぐ尾根に登って裏側に越してゆく。ブナの林に入ると太い木の下は雪の上に、ムササビが食い散らかした10cm程の小枝が無数に散乱していて、誰も行かない山奥にはムササビが多いことが良く分かった。矢張り親父さんの言うとおりだった。

サルッパナというのは遠目に見たように、尾根は右にゆるく下がりながら向こうとこちらに馬の背状に急な勾配になっていた。

そして、裏側には尾根に平行して沢が一本流れていた。雪は沢を埋めていたが、所々で口を開けていて黒い岩肌が出ていて、切り立った両岸がいかにも危なそうに見えていた。

かなり大きな滝も有り、以前親父さんの近所の人が落ちて亡くなった事があると、滝を見下ろしながらその時のことをリアルに語ってくれた。「滝に落ちた人を引き上げて、あそこの木の根元に座らせて、助けを呼びに戻ったんだ。」「しかし間に会わず戻った時には亡くなっていた・・・」と、今でも雪に口を開けた滝が、妙に気味悪く目に残っている。

親父さんが段取りし、撃ち手が先回りし沢沿いの斜面を追い始めた。声を出して追っていると今逃げたばかりの兎の足跡があちらこちらにあり、山奥には随分兎が多く、感心させられた。

しかしさっぱり鉄砲の音がしない。どうも撃ち手と撃ち手の間を抜けられている様だった。苦労して追った結果は一匹のみだった。

親父さんが「ここに来る」と思った所には来ないで、撃ち手から見えない所を兎は抜けていた。前にも書いたが弱い兎はバカな生き物ではない、何かを察知して安全なところを走り抜けたのだ。

慣れた打ち手がもう二人も居たらこんな事にはならなかっただろう。同じ所を4~5匹も抜けたと、皆残念がった覚えがある。

鉄砲撃ちも大概こんなもので、生き物を相手にしているので、一ヶ所で大猟したという事はそうめったに無いものだった。

次の巻きに移動中、先を歩いていた親父さんが「ワスだ、ワスだ!!」と言っているので、「鳥のワシ」を訛って呼んだのかと思って見回したが何も飛んでいない。

さて何だろうと思ってよく見ると、少し向こうの急斜面が雪煙を立てて音もなく流れて木々を押し倒して、更にはるか下の方に流れて行った。

山の尾根には風で張り出した雪庇が出来る。高さ2mも3mもあって何かの拍子に崩れると、斜面のやわらかな雪を押し流すきっかけになる。

「表層ナダレ」を初めて見た。雪が水の様に滑らかに早く流れ下っていった。「ワス」は表層ナダレの事だった。音もしないしスピードも力もある。あれに襲われたら逃げられないと思った物だ。

それと怖いと思ったのは雪のスキ間で、急斜面に積もった4~5メートルの雪が、大きなナイフで切った様に50~60センチ、口を開けている。

降った雪が開いた口を覆うので落ちる迄気付かない。落ちてしまうと狭く身動きもままならず、手掛かりもなくなかなか上手に上がる事が出来なかった。

親父さんに「雪の割れ目に落ちて死んだ人も居る」と言われ、本当に怖かったものだ。

気を付けて歩いたが、2~3度落ちてしまった。広い原生林に追い手が間隔を開けて散ると遠くに声がかすかに聞こえるだけで、助けを呼ぶ声は届かない。カンジキをはいた足でやたらと雪を蹴って必死になってはい上がったものだ。

何回か追ったが兎は思いほか捕れなかった。その日は4匹で終わった様に思う。朝の意気込みはもう10匹も多く捕れて当然なほどだったが、親父さんの外は皆あの地を知らず、素人ばかりでは仕方無いかもしれない。

新雪をラッセルしながらウサギを追うのは疲れるし何よりも腹が減る。お昼に食べるはずのお握りは、十時頃に早々と食べてしまった。

昼前から猛吹雪になって、寒さで引き金を引けない程になっていた。そして腹が減って昼過ぎに二つ目のお握りを食べてしまった。

何時頃だったか定かでないが3時ごろだったろうか、皆疲れていたのでバンドリ撃ちはやめて帰る事になった。その頃はまだサルッパナの向こうの沢の近くだった。

こちら側と同じ様な長い急斜面を尾根まで登らなければ帰る事が出来ない。親父さんの指図に従って、ひどい吹雪の中を登り始めた。

足を大きく上げて目の前の雪を踏むと、ズブーと抜かりわずかしか登ることが出来ない。替わるがわる先頭になって登ったが、とっくに越せるはずの尾根にはなかなか出なかった。

私は完全にグロッキーになって先に立ってラッセルする力は失せていた。寒さと疲れ、それに何より空腹だった。このままここに座り込んで眠ったら、どんなに楽で気持ち良いだろうなと思った。

こんなに苦労するくらいなら、背負っている鉄砲で自殺した方がましだとも思った。そんな中で何とか頑張っていたのは、地元の生徒と親父さんだった。

夕方になり始め、薄暗さと、吹雪で見通しが悪く、どの辺に居るのかさっぱり分からない。

そのうち先頭にいた親父さんが「行く所がないぞ!」と言っている声が聞こえてきた。驚いたことにそこはサルッパナの頂上だった。周りは全て下りでもう登る所がない。

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

 

頂上には国土地理院が測量のために建てた、木の枝を組み合わせた高さ3~4mの三角点が有った。下の方に「河原角(かわらつの)の集落」の灯りが見えていた「アー助かった」と思った。

吹雪で地形が分からず慣れた親父さんもコースを間違えたのだった。頂上からは下るだけなので、急に元気が出て薄暗くなり始めた山を下った。

あれから50年以上も過ぎた2~3年前、親父さんの家を訪ねたときにあの時の話になり話が弾んだが、ふと漏らしたのは「生きて帰れないかと思った」と言う言葉だった。

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

 

吹雪と疲れの中で腹のすいた事はたとえようも無い。前を歩く背中の兎を見ては手を伸ばしてむしりとり、生で食べようと思った程なのでお分かり頂けるだろう。

下る途中ずっと河原角の人家の灯が見えた。人の灯りの有難さが身に浸みるようだった。その灯を目指して下り、やっと道に出た時の安心感はまるで「極楽浄土」に辿りついたかの様だった。

河原角の集落で川向こうに渡り、冬の間だけ人が通る山道を歩いて帰って来た。河原角で軒下にぶら下がった「固餅」を無断で頂いて食べようとも思ったが、やっとの思いで留まった。

わずかなデコボコに足を取られ、転び転びしながら、やっと親父さんの家に辿り着いたのは夜の9時頃だったと思う。

もしもバンドリを撃つつもりで二食分のお握りを持ってゆかなかったらどうなっていたか。恐らく空腹でみんなが動けず山を越すことは出来なかっただろう。

しかし、行く度に無事に帰った覚えはない。大体こんな思いをしていた。

 

命がけのウサギ撃ち

冬になり、雪が積もると、土曜日に親父さんから便りが届く。新股の集落から通っている生徒が紙切れに1行か2行、簡単に書かれたメッセージを持って来るのである。

それにはただ、「明日兎とりに行くからこい」とか、「今晩から泊まれ」とか書かれてある。

日曜日に山に入るとなると、土曜の夜から親父さんの家に泊まって翌朝早くから兎撃ちに行く事になる。

まだ、暗いうちに起き、奥さんのつくってくれる大きな握り飯を風呂敷に包み腰にしばりつける。あのころは長靴に代わるムレなくて履きやすい靴などなく、ゴムの長ぐつの上を縄で2回くらい巻いてしばり雪が入らないようにし、カンジキをはくだけだった。

いつの間にか長靴に融けた雪が浸みこんで必ず中はぐちゃぐちゃし、足はふやけて白くなっていた。

出始めたばかりの防水の効かないアノラックが有ればいい方で、だいたいは雨合羽を上に着て身じたくは終わる。

おやじさんは長ぐつではなく木綿のタビに、稲ワラで作った「ジンベ」という、スリッパ状のものをはいていた。

ズボンを足首の所でしばっていたが、後ろを行く私の眼には歩く度にカカトの所が丸見えとなり、いかにも寒そうだった。しかしあとで私も同じスタイルで山に入った事があるがタビの上にワラの「ジンベ」はむしろ、ゴム長よりずっと暖かく軽くしかも濡れた感じがしなく、快適なものであった。

兎うちは私と親父さんの他に、同じ集落の友達を誘って1人か2人位同行するのが普通であった。

山に入る日は天気の良い日だった記憶は殆どなく、吹雪の事が多かったし、時々ゴウゴウという風鳴りの音と大木が大揺れに揺れ狂う中を行く事もあった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

 

それでも、皆兎撃ちというと楽しみで、出発するときには、声がはずみ興奮気味であった。

今アスファルトの小倉林道が親父さんの集落から小国町に通じているが、あの頃は細々とした山道が曲がりくねって途切れ途切れに続いているだけで、雪がなくとも小倉迄行く人は殆どいなかった。

その林道の入り口の沢伝いに山に入って行くのである。沢伝いに入って間もなく、植林して20年程のそれ程まだ育っていない広い杉林に出る。ここは昔熊が出た事があるとかで、「熊林(くまばやし)」と呼んでいた。

兎の「巻狩り」はまず、最初はこの林で行うのである。

杉は枝が大きく横に張り出して繁って、枝の上の雪が地面に積もった雪に垂れてつながり、すこぶる見通しが悪かった。兎は外敵から身を守る為に、そんな場所で日中を寝て過ごすのである。

杉林の手前で親父さんが皆を集め、雪の上に枝で熊林の図を描きそれぞれの配置を割り振りをする。

そして、撃ち手が林の向こう側に先回りする。

撃ち手が持ち場についた合図は空の「薬きょう」を強く吹くピーッと言う音であった。

現在、ハンターが使用している薬きょうは紙で作られた使い捨てのだが、当時は真鍮製で、同じものを何回も繰り返し使ったものだった。

明日、猟に出るという前の晩に、囲炉裏を囲んで、空の「薬きょう」にまず新しい雷管を付け、火薬を目盛りのついたシャク状のもので、測って入れ、ボール紙を丸く打ち抜いた仕切りを入れ、次に、鉛の小さいタマを測って入れ、又、ボール紙の仕切りを入れ、さらに、雪が入っても火薬が濡れない様に、ロウソクを溶かして目張りをして出来上がりであった。

この一連の作業もいつものことなのでお互いがする手順が分かっていて、明日の猟の期待と気持ちの高ぶりとが交じる過去の自慢話を賑やかにしながら、私がタマ作りをしたり、親父さんが猟の支度したりしながら20発程を作るのである。

弾帯の一番端に空の薬きょうが一本さしてあり、それが合図の笛となる。兎や野生のケモノは人の声や物音には敏感だが、笛の音には警戒心が無く何の反応も示さない様であった。

耳を澄ませて待っていると、吹雪の日であっても、少々遠くからでもピーという音は聞こえてきた。その音で追い手の者が声を挙げて追い始める。

「ホーイ」とか、「ホラ、ホラ、ホラ!」とか「ホーホー」とか、大体、そんな声であった。

カンジキをはいていても、太モモ迄雪にぬかり歩くのは骨が折れる。一人でも歩いた後なら、大変楽なのだが、新雪のラッセルはこたえる。

数十メートル歩いては立ち止まり、又、声を出して追う。林の3分の1か半分位入った所で、運が良ければ鉄砲の音が聞こえるが、しかし熊林といえど必ず兎が入っている訳ではなく、入っているのは三度に一度位であった。

林の間から親父さんの姿が見えれば、もう兎は飛び出す事はない、そこの「巻き狩り」は終わりとなる。

一年生の頃は、私が鉄砲を持つ撃ち手(ブッパと呼んだ)になる事は殆ど無かったが、二年生になると、撃つのも少し上手になっていたので時々撃つ方に回る事があった。

この熊林で一度だけ、私の前に兎が飛び出した事がある。親父さんの指示通りの所に待っていればよかったのだが、間違えて少し離れた所に立っていたものだから、追われた兎は私の方に向って走ってきたのではなく、前を横切るように数十メートル先を左に走り、雑木林の急斜面を駆け上ったのである。

ぬかる雪の中を走って追い、急斜面を見上げた時、兎は登り切って見えなくなる寸前であった。

よく狙って撃ったが、兎はそのまま登って見えなくなってしまった。

逃がした、残念!!と思っていると、その兎が斜面を転がり落ちてきた。野性の獣は良くそんなことが有る。心臓が止まるまで走り続けるのである。

逃がしたと思った兎が捕れたので、嬉しくなり、兎を手に持って声を出して人を呼んだ。すると思いがけなくさらに追われた兎が一匹飛び出して来たが、私の声に驚きあわてて又杉林に戻って行ってしまった。

それで、親父さんに褒められると思ったら、「逃げたもう一匹の方が残念だ」と私の失態をしかられた。

兎は臆病な生き物だが、ただ追われて一目散に奥え走るのではない。この辺は猟を知らない人は間違える所だが、少し逃げては立ち止まって耳を澄まし周りの様子をうかがう。少し逃げてはまた耳を澄ましてどの方角が安全か探っている。

逃げる事しか身を守るすべのない兎にとって、どの方角に逃げるかを判断するのは命に係わる一大事である。高等なアンテナと判断力で見事に勢子と勢子の間をすり抜けるのである。弱いことは確かだが決してバカな生き物ではない。

私が親父さんの家に泊まる事も、学園の日曜日に礼拝にも出ず鉄砲撃ちする事も、学園の先生には何の連絡もしなかったし、それが特に問題になる事もなかった。

あの頃の学園に規則らしいものは、いくら思い出そうとしても出て来ない。全てが自由だった。

猟から帰ると、捕れた兎が皮をはがれてナタでぶつ切りにされて大鍋で煮られる。肉は大ざっぱにしか取らない。骨付き肉はあとで「骨かじり」と称して、歯で肉をむしりとって食べるので、わざと残しておくのである。

それに必ず入れるのは、大豆を一粒、一粒「金槌」でつぶしたものと、大根、人参、ゴボウである。

味噌で味を付けるだけの兎汁は、何にも替えがたいうまさであった、山から帰った疲れでぼんやり囲炉裏側に座っていると、奥さんが自在鉤に掛けた「鍋」でご飯を炊き、お汁を作り、私の前で次から次に夕飯をこしらえた。

しかし鍋でたくご飯は、ここでしか見たことが無くいつも奇妙な感じをさせられるものだった。

私は親父さんの家に行くのが楽しみで、呼ばれなくとも良く行ったし、奥さんやおばあさんの温かい人柄に甘えた。