年別: 2013

命がけのウサギ撃ち その2

独立学園は山奥の狭い谷間に建っていたものだから、遠くまで見通せていい眺めなのはサルッパナと呼んだ山の方角だけだった。

右も左も皆山に囲まれて人家も見えず、人の手が入ったことのない原生林が山並になって綺麗だったが、本当に狭い所にへばりつくようにして学園村は存在していた。

朝に夕に眺めたあのサルッパナの後ろ側はどんな山なのか、学園生だけではなく地元のひとさえ知っているのは、わずかしか居ないのではないかと思う。

私は真冬の厳寒期に三度、尾根を越し、陰のブナの原生林で兎追いをした事がある。今回はその時の事を書いてみようと思う。

 

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

サルッパナの向こうの原生林を、親父さんは「ナベコ」と呼んでいた。行ってみると分かるのだが、広い原生林で、果てしなく続き一歩踏み込むとどこも同じに見えて、方角さえ判らなくなる程の見事なブナ林だった。

親父さんはその大きさを、「ナベコ一千町歩」と表現していた。紙切れの手紙が届いて誘われて、初めて行ったのは二年生の時の事だと思う。

行く度に疲れ果てて、死ぬ思いをして帰って来るのでもう絶対に山には行きたくないと思うのだが、一週間も過ぎると又山に行きたくなるから不思議だ。

行くと決めた丁度その日は、「満月の月回り」で夜になればバンドリ撃ちができる条件だった。親父さんは「ナベコにはだれもバンドリ撃ちに入っていない。ものすごい数のバンドリが居る。せっかく行くのだから夜まで粘ってバンドリも撃とう」と言った。

何が幸いするか分からないもので、バンドリ撃ちが出来る月回りが、全員の命を助けたと言えると思う。なぜ助かったのかこの辺は後で述べるので次第に分かってくると思う。

参加したのは私の他に地元の三年生一人と寮生が二人居た。鉄砲は親父さんのが一丁と、近所の人から借りた「24番の村田銃」が一丁で、三人が追い役をする段取りだった。

 

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

朝の5時ごろだったろうか真暗いうちに起き出し囲炉裏の側に来ると、いち早く親父さんの奥さんが起きて働いていて、子供の頭程もある大きな握り飯をこしらえてくれた。

私と二人の学園生は、親父さんの家に泊まっていたので、奥さんは四人分のおにぎりを作ってくれた。皆張り切っていて、親父さんもナベコに行くという事で、いつもとは全然違い特別力が入っていた。

「明日は夜まで山に居て、暗くなったらバンドリ撃ちをするぞ!!」と、前の日から全員に号令を掛けていた。従って、お握りは二食分を持参することになった。

風呂敷に握り飯を二つ包み、腰に巻いてしばり付け暗い中を出発した。小倉林道の入口を過ぎ、「アカハゲ」と呼んだ次の沢の辺りから右の崖の上に上がって進む。雪崩で川沿いの車道は歩けないからだ。

サルッパナの頂上から尾根を半分ぐらい下がった辺りの中腹に、「クルミ平」と呼ばれる一寸広い台地が見える。その下に取り付いて登ってゆく、台地を越して尾根に近づいたあたりからブナの大木が繁り原生林となっていた。

 

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

そのまま真っ直ぐ尾根に登って裏側に越してゆく。ブナの林に入ると太い木の下は雪の上に、ムササビが食い散らかした10cm程の小枝が無数に散乱していて、誰も行かない山奥にはムササビが多いことが良く分かった。矢張り親父さんの言うとおりだった。

サルッパナというのは遠目に見たように、尾根は右にゆるく下がりながら向こうとこちらに馬の背状に急な勾配になっていた。

そして、裏側には尾根に平行して沢が一本流れていた。雪は沢を埋めていたが、所々で口を開けていて黒い岩肌が出ていて、切り立った両岸がいかにも危なそうに見えていた。

かなり大きな滝も有り、以前親父さんの近所の人が落ちて亡くなった事があると、滝を見下ろしながらその時のことをリアルに語ってくれた。「滝に落ちた人を引き上げて、あそこの木の根元に座らせて、助けを呼びに戻ったんだ。」「しかし間に会わず戻った時には亡くなっていた・・・」と、今でも雪に口を開けた滝が、妙に気味悪く目に残っている。

親父さんが段取りし、撃ち手が先回りし沢沿いの斜面を追い始めた。声を出して追っていると今逃げたばかりの兎の足跡があちらこちらにあり、山奥には随分兎が多く、感心させられた。

しかしさっぱり鉄砲の音がしない。どうも撃ち手と撃ち手の間を抜けられている様だった。苦労して追った結果は一匹のみだった。

親父さんが「ここに来る」と思った所には来ないで、撃ち手から見えない所を兎は抜けていた。前にも書いたが弱い兎はバカな生き物ではない、何かを察知して安全なところを走り抜けたのだ。

慣れた打ち手がもう二人も居たらこんな事にはならなかっただろう。同じ所を4~5匹も抜けたと、皆残念がった覚えがある。

鉄砲撃ちも大概こんなもので、生き物を相手にしているので、一ヶ所で大猟したという事はそうめったに無いものだった。

次の巻きに移動中、先を歩いていた親父さんが「ワスだ、ワスだ!!」と言っているので、「鳥のワシ」を訛って呼んだのかと思って見回したが何も飛んでいない。

さて何だろうと思ってよく見ると、少し向こうの急斜面が雪煙を立てて音もなく流れて木々を押し倒して、更にはるか下の方に流れて行った。

山の尾根には風で張り出した雪庇が出来る。高さ2mも3mもあって何かの拍子に崩れると、斜面のやわらかな雪を押し流すきっかけになる。

「表層ナダレ」を初めて見た。雪が水の様に滑らかに早く流れ下っていった。「ワス」は表層ナダレの事だった。音もしないしスピードも力もある。あれに襲われたら逃げられないと思った物だ。

それと怖いと思ったのは雪のスキ間で、急斜面に積もった4~5メートルの雪が、大きなナイフで切った様に50~60センチ、口を開けている。

降った雪が開いた口を覆うので落ちる迄気付かない。落ちてしまうと狭く身動きもままならず、手掛かりもなくなかなか上手に上がる事が出来なかった。

親父さんに「雪の割れ目に落ちて死んだ人も居る」と言われ、本当に怖かったものだ。

気を付けて歩いたが、2~3度落ちてしまった。広い原生林に追い手が間隔を開けて散ると遠くに声がかすかに聞こえるだけで、助けを呼ぶ声は届かない。カンジキをはいた足でやたらと雪を蹴って必死になってはい上がったものだ。

何回か追ったが兎は思いほか捕れなかった。その日は4匹で終わった様に思う。朝の意気込みはもう10匹も多く捕れて当然なほどだったが、親父さんの外は皆あの地を知らず、素人ばかりでは仕方無いかもしれない。

新雪をラッセルしながらウサギを追うのは疲れるし何よりも腹が減る。お昼に食べるはずのお握りは、十時頃に早々と食べてしまった。

昼前から猛吹雪になって、寒さで引き金を引けない程になっていた。そして腹が減って昼過ぎに二つ目のお握りを食べてしまった。

何時頃だったか定かでないが3時ごろだったろうか、皆疲れていたのでバンドリ撃ちはやめて帰る事になった。その頃はまだサルッパナの向こうの沢の近くだった。

こちら側と同じ様な長い急斜面を尾根まで登らなければ帰る事が出来ない。親父さんの指図に従って、ひどい吹雪の中を登り始めた。

足を大きく上げて目の前の雪を踏むと、ズブーと抜かりわずかしか登ることが出来ない。替わるがわる先頭になって登ったが、とっくに越せるはずの尾根にはなかなか出なかった。

私は完全にグロッキーになって先に立ってラッセルする力は失せていた。寒さと疲れ、それに何より空腹だった。このままここに座り込んで眠ったら、どんなに楽で気持ち良いだろうなと思った。

こんなに苦労するくらいなら、背負っている鉄砲で自殺した方がましだとも思った。そんな中で何とか頑張っていたのは、地元の生徒と親父さんだった。

夕方になり始め、薄暗さと、吹雪で見通しが悪く、どの辺に居るのかさっぱり分からない。

そのうち先頭にいた親父さんが「行く所がないぞ!」と言っている声が聞こえてきた。驚いたことにそこはサルッパナの頂上だった。周りは全て下りでもう登る所がない。

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

 

頂上には国土地理院が測量のために建てた、木の枝を組み合わせた高さ3~4mの三角点が有った。下の方に「河原角(かわらつの)の集落」の灯りが見えていた「アー助かった」と思った。

吹雪で地形が分からず慣れた親父さんもコースを間違えたのだった。頂上からは下るだけなので、急に元気が出て薄暗くなり始めた山を下った。

あれから50年以上も過ぎた2~3年前、親父さんの家を訪ねたときにあの時の話になり話が弾んだが、ふと漏らしたのは「生きて帰れないかと思った」と言う言葉だった。

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

 

吹雪と疲れの中で腹のすいた事はたとえようも無い。前を歩く背中の兎を見ては手を伸ばしてむしりとり、生で食べようと思った程なのでお分かり頂けるだろう。

下る途中ずっと河原角の人家の灯が見えた。人の灯りの有難さが身に浸みるようだった。その灯を目指して下り、やっと道に出た時の安心感はまるで「極楽浄土」に辿りついたかの様だった。

河原角の集落で川向こうに渡り、冬の間だけ人が通る山道を歩いて帰って来た。河原角で軒下にぶら下がった「固餅」を無断で頂いて食べようとも思ったが、やっとの思いで留まった。

わずかなデコボコに足を取られ、転び転びしながら、やっと親父さんの家に辿り着いたのは夜の9時頃だったと思う。

もしもバンドリを撃つつもりで二食分のお握りを持ってゆかなかったらどうなっていたか。恐らく空腹でみんなが動けず山を越すことは出来なかっただろう。

しかし、行く度に無事に帰った覚えはない。大体こんな思いをしていた。

 

命がけのウサギ撃ち

冬になり、雪が積もると、土曜日に親父さんから便りが届く。新股の集落から通っている生徒が紙切れに1行か2行、簡単に書かれたメッセージを持って来るのである。

それにはただ、「明日兎とりに行くからこい」とか、「今晩から泊まれ」とか書かれてある。

日曜日に山に入るとなると、土曜の夜から親父さんの家に泊まって翌朝早くから兎撃ちに行く事になる。

まだ、暗いうちに起き、奥さんのつくってくれる大きな握り飯を風呂敷に包み腰にしばりつける。あのころは長靴に代わるムレなくて履きやすい靴などなく、ゴムの長ぐつの上を縄で2回くらい巻いてしばり雪が入らないようにし、カンジキをはくだけだった。

いつの間にか長靴に融けた雪が浸みこんで必ず中はぐちゃぐちゃし、足はふやけて白くなっていた。

出始めたばかりの防水の効かないアノラックが有ればいい方で、だいたいは雨合羽を上に着て身じたくは終わる。

おやじさんは長ぐつではなく木綿のタビに、稲ワラで作った「ジンベ」という、スリッパ状のものをはいていた。

ズボンを足首の所でしばっていたが、後ろを行く私の眼には歩く度にカカトの所が丸見えとなり、いかにも寒そうだった。しかしあとで私も同じスタイルで山に入った事があるがタビの上にワラの「ジンベ」はむしろ、ゴム長よりずっと暖かく軽くしかも濡れた感じがしなく、快適なものであった。

兎うちは私と親父さんの他に、同じ集落の友達を誘って1人か2人位同行するのが普通であった。

山に入る日は天気の良い日だった記憶は殆どなく、吹雪の事が多かったし、時々ゴウゴウという風鳴りの音と大木が大揺れに揺れ狂う中を行く事もあった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

 

それでも、皆兎撃ちというと楽しみで、出発するときには、声がはずみ興奮気味であった。

今アスファルトの小倉林道が親父さんの集落から小国町に通じているが、あの頃は細々とした山道が曲がりくねって途切れ途切れに続いているだけで、雪がなくとも小倉迄行く人は殆どいなかった。

その林道の入り口の沢伝いに山に入って行くのである。沢伝いに入って間もなく、植林して20年程のそれ程まだ育っていない広い杉林に出る。ここは昔熊が出た事があるとかで、「熊林(くまばやし)」と呼んでいた。

兎の「巻狩り」はまず、最初はこの林で行うのである。

杉は枝が大きく横に張り出して繁って、枝の上の雪が地面に積もった雪に垂れてつながり、すこぶる見通しが悪かった。兎は外敵から身を守る為に、そんな場所で日中を寝て過ごすのである。

杉林の手前で親父さんが皆を集め、雪の上に枝で熊林の図を描きそれぞれの配置を割り振りをする。

そして、撃ち手が林の向こう側に先回りする。

撃ち手が持ち場についた合図は空の「薬きょう」を強く吹くピーッと言う音であった。

現在、ハンターが使用している薬きょうは紙で作られた使い捨てのだが、当時は真鍮製で、同じものを何回も繰り返し使ったものだった。

明日、猟に出るという前の晩に、囲炉裏を囲んで、空の「薬きょう」にまず新しい雷管を付け、火薬を目盛りのついたシャク状のもので、測って入れ、ボール紙を丸く打ち抜いた仕切りを入れ、次に、鉛の小さいタマを測って入れ、又、ボール紙の仕切りを入れ、さらに、雪が入っても火薬が濡れない様に、ロウソクを溶かして目張りをして出来上がりであった。

この一連の作業もいつものことなのでお互いがする手順が分かっていて、明日の猟の期待と気持ちの高ぶりとが交じる過去の自慢話を賑やかにしながら、私がタマ作りをしたり、親父さんが猟の支度したりしながら20発程を作るのである。

弾帯の一番端に空の薬きょうが一本さしてあり、それが合図の笛となる。兎や野生のケモノは人の声や物音には敏感だが、笛の音には警戒心が無く何の反応も示さない様であった。

耳を澄ませて待っていると、吹雪の日であっても、少々遠くからでもピーという音は聞こえてきた。その音で追い手の者が声を挙げて追い始める。

「ホーイ」とか、「ホラ、ホラ、ホラ!」とか「ホーホー」とか、大体、そんな声であった。

カンジキをはいていても、太モモ迄雪にぬかり歩くのは骨が折れる。一人でも歩いた後なら、大変楽なのだが、新雪のラッセルはこたえる。

数十メートル歩いては立ち止まり、又、声を出して追う。林の3分の1か半分位入った所で、運が良ければ鉄砲の音が聞こえるが、しかし熊林といえど必ず兎が入っている訳ではなく、入っているのは三度に一度位であった。

林の間から親父さんの姿が見えれば、もう兎は飛び出す事はない、そこの「巻き狩り」は終わりとなる。

一年生の頃は、私が鉄砲を持つ撃ち手(ブッパと呼んだ)になる事は殆ど無かったが、二年生になると、撃つのも少し上手になっていたので時々撃つ方に回る事があった。

この熊林で一度だけ、私の前に兎が飛び出した事がある。親父さんの指示通りの所に待っていればよかったのだが、間違えて少し離れた所に立っていたものだから、追われた兎は私の方に向って走ってきたのではなく、前を横切るように数十メートル先を左に走り、雑木林の急斜面を駆け上ったのである。

ぬかる雪の中を走って追い、急斜面を見上げた時、兎は登り切って見えなくなる寸前であった。

よく狙って撃ったが、兎はそのまま登って見えなくなってしまった。

逃がした、残念!!と思っていると、その兎が斜面を転がり落ちてきた。野性の獣は良くそんなことが有る。心臓が止まるまで走り続けるのである。

逃がしたと思った兎が捕れたので、嬉しくなり、兎を手に持って声を出して人を呼んだ。すると思いがけなくさらに追われた兎が一匹飛び出して来たが、私の声に驚きあわてて又杉林に戻って行ってしまった。

それで、親父さんに褒められると思ったら、「逃げたもう一匹の方が残念だ」と私の失態をしかられた。

兎は臆病な生き物だが、ただ追われて一目散に奥え走るのではない。この辺は猟を知らない人は間違える所だが、少し逃げては立ち止まって耳を澄まし周りの様子をうかがう。少し逃げてはまた耳を澄ましてどの方角が安全か探っている。

逃げる事しか身を守るすべのない兎にとって、どの方角に逃げるかを判断するのは命に係わる一大事である。高等なアンテナと判断力で見事に勢子と勢子の間をすり抜けるのである。弱いことは確かだが決してバカな生き物ではない。

私が親父さんの家に泊まる事も、学園の日曜日に礼拝にも出ず鉄砲撃ちする事も、学園の先生には何の連絡もしなかったし、それが特に問題になる事もなかった。

あの頃の学園に規則らしいものは、いくら思い出そうとしても出て来ない。全てが自由だった。

猟から帰ると、捕れた兎が皮をはがれてナタでぶつ切りにされて大鍋で煮られる。肉は大ざっぱにしか取らない。骨付き肉はあとで「骨かじり」と称して、歯で肉をむしりとって食べるので、わざと残しておくのである。

それに必ず入れるのは、大豆を一粒、一粒「金槌」でつぶしたものと、大根、人参、ゴボウである。

味噌で味を付けるだけの兎汁は、何にも替えがたいうまさであった、山から帰った疲れでぼんやり囲炉裏側に座っていると、奥さんが自在鉤に掛けた「鍋」でご飯を炊き、お汁を作り、私の前で次から次に夕飯をこしらえた。

しかし鍋でたくご飯は、ここでしか見たことが無くいつも奇妙な感じをさせられるものだった。

私は親父さんの家に行くのが楽しみで、呼ばれなくとも良く行ったし、奥さんやおばあさんの温かい人柄に甘えた。

 

 

提灯行列の思い出

独立学園は、今は「才の神橋」から入ったずーと奥の方に建っているのだが、あの頃の校舎は横川に架かる橋のたもとに建てられていて、大雨で増水すると、濁流が校舎の土台石を洗うこともある程、河の側に建っていた。

才の神橋

才の神橋

 

昔そこに学園が建っていたことを御存知の方々もいると思うが、とても学校とは思えないほど粗末な校舎だった。

そこで私は三年間を過ごした。だから、私の胸の中にある独立学園の思い出は、全て古い校舎の時のものである。

国鉄の伊佐領駅から8kmの道は歩く他に交通手段は無く、道は下叶水を通って独立学園までは一本道、ここで道が二つに分かれて橋を渡って奥の方に行けば、上叶水、大石沢に行くことが出来る。橋を渡らずに山添いに奥に行けば新股、川原角、滝と言う集落が有ってそして飯豊山の登山口とつながっている。丁度2本の道の合わさる所に学園が建っていた訳である。

下叶水の集落

下叶水の集落

 

あの校舎は、元鈴木校長御夫妻の自宅として建てられたもので、学校として使うにはかなりの無理があったのだが、それは又それで、独立学園の目指す教育をする場としては、本当に神により与えられた、これ以上を望むことが出来ないくらいの舞台となっていた。

その粗末な校舎の二階に、三年生の教室として使われていた学園で最も大きな教室があった。

四十人近い全校生徒と、十名程の教職員が集まる事が出来るので、朝礼とか一年生から三年生までの合同の授業の時間や、寮生が就寝前九時に夕拝をする時など、人が多く集まる時には、その教室が使われていた。

三方向が窓になっていたので、その教室からは、外の景色が本当に良く見えたのであった。

校舎の下を流れる横川の中を泳ぐハヤが、一匹一匹良く見えて、すぐにでも裸になって河に潜って捕りに行きたくなるものだった。遠くに見えるサルッパナとかシゲ松の山は、季節によって色が変わり、いつも美しく見えていた。校舎が道よりかなり低い所に建っていたので、二階の教室と道路の高さがほぼ同じ位で、橋を渡って学園の前を通る人の姿が、手が届くほどの近さで実に良く見えていた。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

 

いつも伊佐領から、塩ホッケとか、練り製品とか、調味料とか、その他いろいろなものを背中に背負って売りにくる行商の叔父さんとか、ブナ材を積んだトラックがゆっくり通って行った。上叶水の顔見知りの人だったりもした。ある時は熊を撃ったが逆襲され、返り討ちに合った人が全身包帯巻きでリヤカーに乗せられて行ったときもあった。

冬になると、雪の中を川原角の方から俵詰めにされた木炭を背負い出す集団が通る。男性四~五人に女性が同じ位混じって、皆が二俵づつ背負っていたが、中には一人だけ大柄な男の人が三俵背負っている姿も見えた。何かお互いに声高に笑いながら楽しげに話し合い、いつも決まった時間に通っていった。

いつだったか、伊佐領に出る道が崖崩れで、トラックが何日も止まった時、7kmほど奥の「滝の集落」から鉄道に使う大量の枕木を川に流して運び出していたこともあった。水量はそれほど多くはなかったので枕木はあっちの石、こっちの岩かげにと引っ掛かり、止まったり、道草を食いながら流れてゆく。それを何人もの男達が川の中を石から石へと跳び移りながら、「トビロ」で押したり引いたりしながら流して行った。

私は勉強が苦手だったので、授業中、良くそんな光景を眺めていたものだった。雪のない季節ならトラックが走る道路も、冬になると雪が三メートルも積もるので、雪の道は人一人が通れるだけの細い巾しかない。誰かとすれ違う時は、どっちかが道の脇によけて、もう一方が通り過ぎるのを待っていた。

学園で初めて迎えた冬のことだ。雪が深く積もっていたが、あの日も一日中降り続いていた。

雪に埋まった学園の正面玄関

雪に埋まった学園の正面玄関

 

夕食が終わってしばらくしてからのことだった。二階の教室に居る時、上叶水の方から橋を渡って近づいてくる提灯を持った10人ほどの集団が見えた。

その一団が学園の前に来た時、先生だったか、あるいは上級生だったか、良く覚えていないが、誰かが出て行って、提灯行列の人達と何か話していた。やがて学園の中が急に殺気立ち、あわただしくなってきた。寮生が思い思いに、防寒着に着替え始め、外出の準備をし始めたのだ。

一年生の私には何が始まったのか分からなかったので聞いてみると、外の提灯行列は急病人を伊佐領駅まで「ソリ」に乗せて運び、汽車に乗せ小国町の病院へと連れていく為のものだった。

雪の深い冬に、病人を川添いに八キロメートルもソリに乗せて運ぶのは実に大変なことだ。ソリの巾に踏み固める人数がないと進めない。そして五~六人のソリを引く人と、押す人又、それらを時々交替する要員と、人手はあればある程良い。多い程早く伊佐領に行き着けることになる。

私は初めてだったので、その日がどんなにつらい重労働になるのか良く分からず、人助けに出るのだという一種の使命感というのか、寮生が多く参加するという安心感もあって、お祭りが始まるような興奮した気持ちになっていた。

三列になって並んで、十人くらいがカンジキで雪を踏み固めて道を作ってゆく。その後ろをソリが引かれてゆく。

下叶水から下って田圃が終わったあたりからが難所である。川の右側の斜面が切り立っていて、わずかに歩く所だけが平らになっている。川の巾も狭くなって急斜面が山の方から川迄続いている。ここはナダレの名所だった。雪は固くなり踏みつけるだけでは道が出来なかった。シャベルで掘って道を作っていった。

今となっては、あの難所の一帯はダムの下に沈み見ることがかなわないが、ダムをまたぐ新しい橋が出来ているので車を止めて見下ろすことが有り、眼下に広がる山並みとダムの水面に遠い昔が甦ってくる。危なかった道が水面下に続いていたのは記憶の中にしか甦ることが無くなってしまった。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

 

あの頃は、3km下流の市野々の集落近く迄急斜面が続いて苦労したものだった。

学園を出て初めのうちは皆元気が良く足を高くあげ、勢い良く雪を踏んでいたが市野々に着く頃は声を出す者は一人も居なくなってしまった。

村の大人の人達も、学園生も疲れてしまったのだった。それともうひとつ空腹だった。雪の中を何時間も歩くことを深く考える人が居なかったのだろう。又、そんな余裕もなく飛び出してきたので、食べ物を持ってくるのを忘れたのだ。大人達も、誰も食料を持っていなかった。市野々を過ぎると、又、大曲の所迄、川添いの急斜面を行く難所だ。更に5km先の伊佐領めざして物言わぬ提灯の集団が進んでいった。

そんな時に学園生の中の誰かが歌い始めた。すると不思議なことに、何と不思議なことに体に力が入り元気が出るのだった。

歌というものは本当に不思議だ。聞いているだけで、別に何か食べた訳でもなく、何の変化もないのに元気が出るのだ。

歌い終わると誰かが歌い継いでいった。

歌声が続いている間はあまり空腹も感じなかった。

歌が途切れると、村の大人から「歌ってくれ」と声が掛かった。大人達は何も言わずに聞いていたが、皆同じように疲れていて、歌声を聞いて元気を出したかったのだと思う。そうして学園生が賛美歌を歌いつないで、伊佐領の駅に着いた。

雪の伊佐領駅

雪の伊佐領駅

 

夜の十時は過ぎていたと思う。駅のストーブにあたって暖かくなり、そしてみんなで駅前の食堂が作ってくれたラーメンを御馳走になった。

伊佐領までの重労働のお礼がいっぱいのラーメンだった。しかし誰もそれ以上のものを求める人も居なく、不平を言う者も居ない。ごく当たり前の様に戻り始めた。

帰り道も又疲れて、疲れて、早く学園に着いて眠りたい、それだけが頭の中を占領していた。

頭も体もボーと思考力を失い、夢遊病者のように歩いていた。帰りは道が広々と出来ていて、歩き易かったのが救いで、力強くは歌えなかったが、誰かが歌い終わると次の人が歌い、いつの間にか順番が出来て、次から次へと歌がつながっていった。

私も歌ったが、何の曲だったかは思い出すことが出来ない。

こうして一年の間に三回位は、提灯行列に加わって伊佐領駅迄行って、病人を汽車に乗せて小国へと送り出していた。

いつも、ふいに提灯行列がどっちかの道から現れて学園の前に来ると、思い思いに仕度をして、参加したものだった。

学園生も全員が参加するのではなく、行かない人もあれば、毎回必ず行く人もあり、それは全く自由だった。

村の人から頼まれた記憶はない。何時の間にか出来上がった学園の伝統だったのだと思う。

スキーで足を折った学園生を運んだ事もある。

先生方は、私達が参加することを別に止める事もなく、自由にさせてくれた。

今思うと、他人の為に何かをする時、代償を求めずに一生懸命頑張るという、学園の教育だった様にも思うのであった。

 

 

50年前は大人が50円だった

ついこの間沖縄の「美ら海水族館」に行ってきた。こちらを出たのは2月の25日だったが、気温はマイナスでものすごい吹雪と冷え込みの中だった。

3時間の飛行の末に沖縄に降り立ってみたら、夏のような強い日差しが照っていて気温は23度、暖かいを越して厚着した体は燃えるような暑さに参ってしまった。

気温の差を覚悟はしていたがこれほど大きいとは、やはり経験して見ないと到底分からない。

翌日は予定通りに美ら海水族館に行った。職員に温かく迎えられて楽屋裏から案内された。これは同じ水族館屋同士としては表よりも裏が気になるもので、其れを配慮しての案内であった。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

 

いきなり覗いた巨大なプールでジンベエザメに出会う事になったが、実は行くまでに想像していたのはもう少し規模も、感動も小さいものと思っていた。

7500トンの水槽を、新加茂水族館の径5mたった30トンのクラゲ水槽で負かしてやりたいものだと思っていた。しかし実物を見て唯々あきれて立ち尽くす他無かった。さすがに美ら海水族館のジンベエザメ水槽はすごかった。

 

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

 

あれを負かすことは到底できっこないと悟った。が、しかしこっちは同じ土俵で比べてはいけない異質な水族館ではないか。別の角度から見たら違う評価が出来るのではないか。

向こうは国策で作った巨大な施設だ。こっちは地方の小さな市が背一杯の努力でやろうとしている小さな施設だ。しかしこれまでにない全く新しいスタイルを持った水族館をこの世に誕生させようとしているのだ。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

 

この辺の心意気はまあ評価されても良いのではないかと思う。美ら海水族館の内田前館長は古い友達でもあるし気のいい魅力ある男である。向こうは誰しも認めるトップを走る超一流どころ。こっちは1周遅れのビリランナーだがゴールするときは一緒だ。どうだ参ったかわはははははー。

沖縄から帰って5日ぶりに出勤してみた。外では急ピッチで新水族館建設工事が進んでいる。まだコンクリートは打っていない。基礎の鉄筋が林立してちょっとした竹林のような眺めになっている。これが年末には水族館として殆ど出来上がっているのだから、早いものである。

現在の新水族館建設現場の様子

現在の新水族館建設現場の様子

 

そしてこの4月18日が、昭和39年にオープンしてから数えて「50回目の開館記念日」に当たる。1年後の50周年は閉館中だし兎に角今年は50年だから、大きな節目に当たるので何か面白いイベントでもやろうと思いついた。

9名いる飼育担当に「何か考えろ」と丸投げしたら結構面白いアイデアが出てきた。こんな時には固いものはまずやめた方が良い、聞いた時に思わずクスリと笑えるようならそれは誠に「賞賛に値する良いアイデア」だ。

いろいろ出された中で私が笑えたのは「開館当時の入館料金で入館させたら?」というしろものだった。

記憶の薄れた頭で考えているうちに、開館した当時大人の入館料金が50円だったことを思い出した。中華そば1パイが50円だったからこの小さな水族館の評価はその辺が相場だったことになる。

50年近い月日が流れたのに思い出せたのは、それだけ印象に残る思い出が有ったからだ。今は無いがあのころ入るとすぐ左の壁に沿って、ちょっとしたコンクリートの池が有った。

床から70cm程縁が立ち上がっていたから、見る人は少し前かがみになって覗くような姿勢になる。この覗く姿勢が思い出させてくれたきっかけだった。

この水槽は底面ろ過になっていて底砂の上に錦鯉や90cm程もある雷魚が泳いでいた。これを見るために覗き込むと何が起こるか・・・ポケットから小銭が滑り落ちるのである。そして底砂の中に消えてしまう。

この水槽の掃除の度に砂の中から出てくる10円玉が楽しみであった。50円拾えば中華そばが食えたし、30円なら半中華が食えた。

これを思い出したので当時の入館料金が分かったと言う次第である。ちなみに学齢以下の子供は今は150円だが当時は無料であった。

4月18日を記念して、49年前の入館料金で入って頂こう・・・という計画が進んでいる。

 

不思議な高校生活を書き始めた訳

58年前の「不思議な高校生活」の事を書くきっかけは思いがけない所からだった。業界紙を出していた友人の田井さんから依頼されて「どうぶつえんとすいぞくかん」の古賀賞特集に原稿を書いたことだった。

高根の花だった古賀賞を戴いたのは本当だから、賞にまつわる思いを書いた後半に、破天荒な高校時代の生活が業界で最高の賞につながったのではないかと続けたら、のぞいた人から面白いと言う声が結構多く寄せられた。

それではもう少し思い出してみるかと、今度は「館長人情ばなし」に高校生がやっちゃいけない鉄砲うちの話を書いたらそれがまた多くの興味をひいたらしい。「館長面白い」と言われしばらく続けてみる気になった。

そんな訳で、そもそもの始まりをこの辺で紹介するべきと思い「どうぶつえんとすいぞくかん」から話を持ってきたので見て頂きたい。年を取ると誰しも昔の思い出話をしたくなるものだ。私の思い出が尽きるまでもうしばしお付き合いいただきたい。

 

古賀賞は破れかぶれの末だった

古賀賞は業界で最高の賞だが、受けるものの喜びにそれぞれ違いが有ると思います。通ってきた過程、すなわち敵の弾の下をどれだけくぐって来たかの差が、そのまま喜びの差になるのではと思います。

加茂には何もなくしかも小さく古い施設でした。協会の中で最も賞に遠い存在だったと言えます。オキクラゲの繁殖で申請はしてみたものの自信は持つことが出来ないでいました。

2月末に小宮会長から内示の電話があり、「今年の古賀賞は貴方の所に決まりました」と聞いた時、勝手に体が震えて止まりませんでした。考えるよりも先に体が反応していました。

どんな選考の話が有ったのか分かりませんが、見捨てられたような存在だった加茂を選んでくれた小宮さんはじめ、選考委員の皆様にはいつも感謝しています。

受賞後時間が経過して漏れ伝わってきた話では、選考会で希少な生物の繁殖に寄与したこととは別に、ここで取り組んだ「クラゲを食べること」と経営を組み合わせて、何とかどん底から立て直しに成功したことが大きな話題になったとか。

確かに宣伝のために秋口になると泳いでくる「クラゲを捕まえて食べる会」を開いたことが有りました。スナイロクラゲとエチゼンクラゲを使ってシャブシャブとか、姿作りクラゲ寒天とか、ナタデココ風クラゲココとか馬鹿馬鹿しい事を考えて実行しました。

これが大きな効果を生んで日本中に流れて、加茂のクラゲ展示も広く知られるようになりました。その後クラゲ入り饅頭と羊羹、エチゼンクラゲ定食、クラゲウインナーコーヒーなど次々に売り出しては大きな話題になりました。

クラゲ入り饅頭と羊羹はみのもんたさんが「めくり切り」してくれたり、別の番組ではテリー伊藤さんがクラゲアイスを食べながら旨いとか言ってくれたりで、これが何億もの宣伝効果を生み、お陰様で入館者がどんどん増加していったと言っても良いでしょう。日本中でエチゼンクラゲの出現に大騒ぎをしていたときに加茂では捕まえてきて食べていたのです。

誰も力を貸してくれなかったが知恵を出して入館者を増やし、増えた収入をクラゲの展示拡大にすべてつぎ込みました。そして地べたを這うようにして少しずつ評価を高めていきました。おかげで何とか必要な資金を全て自力でまかなって来れたことを誇りに思っています。

何で私ばかりがこんな馬鹿馬鹿しい事を平気でやれたのだろうと不思議な気がして考えたことが有りました。思い当たる節が無いこともなく、高校時代に不思議な学校生活をすることが出来たことを思い出しました。山形県の山奥に全校生徒が40人足らずの小さい高校が有り、雨がぼたぼた漏るぼろぼろの校舎でした。

入学式の日に校長は不思議な事を云いました。「勉強するな」と言ったのです。此れには前置きが有りました。「大学を受験するための」と。そして高校生に「酒を飲むな、たばこを吸うな、嘘をつくな」と約束をさせました。それ以外に制約らしいものは何もありませんでした。

しかし勉強をしなくていい事には変わりなく、勉強嫌いの私は3年間授業以外に1度も勉強しませんでした。実にのびのびと過ごすことが出来ました。生徒から県立並みの授業料しかとらなかったので、赤貧洗う如しの貧乏学校でした。「明日食べるものが無いどうする。」「その辺から山菜をとってこよう。」「かぼちゃの葉も食えるそうだ。」「サツマイモの葉も旨い」となんでも食べました。魚捕りは名人級の腕だったので、校舎の脇を流れている大きな川から魚をいっぱい捕まえてきて、皆のおかずにしました。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

 雪の季節になると3mを超す積雪が有って皆スキーをしたが、私は近くの農家のおやじさんから鉄砲と弾を借りてきて、日曜日になるとウサギやヤマドリ、タヌキやムササビなどを撃って捕まえ食べていました。いつも腹を空かしていたのです。

夏のある日、鉄砲を貸してくれる親父さんからダイナマイトをもらい、深い淵で爆発させて魚捕りをしたことも有りました。夢幻のようなあの3年間がこの小さなどうしようもない水族館に古賀賞をもたらしてくれたのかも知れません。

 

 

日本で一番の貧乏高校

昭和30年3月30日の日暮れ近くだった。地元の高校受験に失敗した私はある高校に入学を頼みにゆくことになって、その学校に案内してくれた山大の先生と母と私の3人が、米沢と新潟県の坂町を結ぶ米坂線の伊佐領という駅に降り立った。

駅の周辺は春の固い雪がまだ30cmも残っていた。この辺一帯は山形県一の豪雪地帯として知られている。3人はその雪の上を歩いて8km先にあるキリスト教独立学園に向って歩き始めた。

人一人が歩くだけの細い雪道は、片側は山でもう一方は2,105mの飯豊山から流れてくる大きな川が流れていた。雪融け水を集めて轟音と共にはるか下を流れていた。

どこまでも続く細い雪道

どこまでも続く細い雪道

 

途中で人とも出会わずただひたすら歩き、1時間半が過ぎてようやく人家が見えてきた。今はダムの底に沈んでしまった市野々という集落で、村役場が有ったほどだから村で一番戸数が多かったのだろう。

「ああーやっとたどり着いたかやれやれ」と思ったら、案内してくれた前野先生はまだ奥だと言った。駅に降り立ったのが4時ごろだったから人家にはもう明かりが灯もっていた。

更に40分ほども歩いて山の裾を回ったら暗い山路にまた灯りが見えてきた。川に架かる橋のたもとに寂しいと言うよりも暗い感じの建物が1つだけ建っていた。「ここです」と云われてみたが、私の想像するような高校の校舎は見えない。

杉の木の皮で葺いた屋根、古びた板で囲われた建物は酷いくたびれようで、どう見ても10年も20年も使われずに放置された納屋にしか見えなかった。

そのあたりは固い雪が増して1mもあり、雪よけに入口に作るトンネルをくぐって建物の中に入っていった。

左にヤギが飼われて居て異様な匂いがしている。そして右側には汲み取り式の便所が有った。両方とも恐ろしく臭い代物である。

ここが学校の正面玄関であった。「ものすごい所に来たものだ」と思ったが、何だか得体のしれないものが体の中で騒ぐのが感じられた。歩くたびに床板がガタビシと音を立てた。低い天井から裸電球が一つぶら下がってその下に木の丸いテーブルが有って、先生方が5人囲んで座っていた。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

 

先生方は私たちが来るのを待っていてくれたようだった。5人は山の奥に来たのとは反対に、ある種の近寄りがたい品に満ちた雰囲気を漂わせていた。それにしても中も外もどこを見まわしても貧乏と老朽のそのままだった。

度を越した貧乏さがたまらなく嬉しかった。直感でここは俺の来るところだと感じた。「体中が喜んでいた。」貧乏さも、がたびしも障子の破れも外の雪も皆嬉しかった。

ここでコーヒーが出され飲んでみたが、味が薄くコーヒーの様でもありまた違うようでもあった。何だろうと思ったら校長の奥様が「大豆を焼いて引いたコーヒーです。甘みはサッカリンを入れました」と説明された。

サッカリンと言えば、今は発がん物質に指定され口に入れることは出来ないが、当時は普通に売られて誰の手にも入った安価な甘み料だった。砂糖と違う初めての苦い甘みになじめず二口目は飲むことが出来なかった。

一緒に行った母はあまりのぼろぼろさに不安になって、しきりに「大丈夫か、大丈夫か?」と私に尋ねた。こんな所に一人息子を預けられないとでも思ったようだった。しかし私は「何でもねー、何でもねー」と答えた。

校長はもう定員になったが屋根裏に5人部屋が有る。無理すればもう一人分布団が敷かれるだろう。仕方がない入れてあげましょうと言ってくれた。

その夜母と布団を並べて寝たがえらく寒かった。朝起きてみたらガラス窓が破れていて雪が吹き込み。私の枕元に雪が3cmも積もっていた。

いくら昭和の30年とは言え、日本中を探しても、あれ程の老朽化した貧乏高校は他にない。私はここで世にも不思議な高校生活を3年間過ごした。

これまで語ってきた狸捕りやら、バンドリ撃ちやらはこの時の体験談である。

 

モモンガを喰う

今思えばあの可愛いモモンガを喰っていたのだから我ながら情けないものだ。しかし今の時代感覚で57年前を批判しても、それはかなり的外れになるだろう。

身の回りの自然はまだ生き生きとして山や川が元気だったし、そこで生きるものが自然の摂理のままに営みを繰り返していた。人さまの方だってあの時代はまだまだ貧しく食う物さえ満足に無く、何でもいいとにかく腹が満たされればそれで幸せな時代だった。

育ちざかりの年頃だった。山の中の小さな高校で3度の飯だけでは足りなくて、いつも腹を空かしていた。3時まで授業が有ってその後は2時間の作業が待っていた。畑や田んぼの他に家畜もいたし、炊事の手伝いもあった。

独立学園の正面玄関。となりでヤギを飼っていた。

独立学園の正面玄関。となりでヤギを飼っていた。

その作業の最中に配られる手づくりのパンが嬉しかった。此れだって今思えばとても口に入れるようなものでは無かったと思う。「小麦粉に重曹を入れて甘みには砂糖の代わりにサッカリン」を加えて焼いたもので、二口目にはもうサッカリンと重曹の苦みがきつくなり、腹が減っていなければ咽が通らなかっただろう。
山の木を切り出して燃料にする仕事もあったし便所のくみ取りもした。学校は勉強には力を入れず全校が協力し合って自給自足を目指すような耐乏生活をしていた。

食事もおかずは納豆だけとか、山菜だけとか大変お粗末なものだった。いっぱい醤油をかけて塩っぱくしてご飯を食べていた。しかし誰の口からも不平不満の言葉は出なかった。その粗末な食事を生徒だけではなく校長以下の先生方も一堂に会して頂いていたからだと思う。

食前と食後には校長と奥様が感謝の祈りをささげて、みんなが「頂きます」と声を出してから食べた。

そのような生活の中でモモンガを喰ったのだからご勘弁いただきたい。

2km離れた集落のおやじさんと鉄砲うちに行ったとき、ブナの原生林を歩いていたら、向こうに見えるブナの木の横に張った枝の上にちょこんと何かが乗っていた。

深い山中には木にもやもやとした苔が垂れているものだ。山の人たちはそれを「キブノリ」と言って食用にしていて、わたしもクルミ和えにしたものを食べたことが有るがもそもそとして固く旨いものではない。

キブノリが枝の上に固まっているのかと思ったが、よく見ればそれはリスだった。

向こうは警戒心も無くじっと動かない、すぐに1発ぶっ放した。私は捕まえて食べる気は無かったのだが、とにかく何かに向って撃つその緊張感が面白かったのだ。

手にしてみると小さいし思ったよりも細かった。親父さんは「これも旨い」と言った。これがリスを捕まえた最初であった。すぐに腹を裂いて内臓を捨てた。どんな生き物でもそうしないと後で食べる時にがっかりする。

家に帰るとリスを取出し、頭も手足も付いたままくるりと皮をはいだ。山ウサギやムササビは皮が薄くてすぐに破れて使い物にならないが、リスは皮が厚く丈夫な毛皮をしている。

身は剥がすほどについてはいない。白っぽい肉で脂肪の全くない綺麗な体だった。こんなもの何処を喰うのかと思ったら、親父さんは囲炉裏のオキを寄せて、五徳(ごとく)と金網を置きその上にリスを丸ごと載せて焼いた。

「リスの骨は固くない、塩を振って焼けば骨ごと食べられる」と云った。焼けたところで私にもむしり取って食べさせてくれた。なるほど骨は足も背骨もさして邪魔にはならず「塩振りのリス」は結構な味がした。

その後親父さんは面白いリスの捕まえ方を伝授してくれた。「リスは杉の木立の高い所に、杉の皮で巣を作って住んでいる。それを捕まえるには朝10時までが勝負だ。」

「リスは朝の10時までは巣に入って寝ているので、巣ごと鉄砲で撃ち落としてなかを調べろ。」「住んでいる巣は杉皮が新しいから分かる。」

このことを聞いて何度かリス撃ちに行った。巣は探せばあちこちにあったが、新しい巣はめったに無く、一朝頑張っても1匹か2匹しかつかまえることが出来なかった。

そして1度だけ本当は木の穴に生息しているはずのモモンガが2匹、撃ち落とした巣の中から出てきた。初めて見る姿にびっくりして学校に持ち帰り、皆に見せた。

これもリスとほとんど同じ味だった。

 

バンドリは冬の月夜に撃つ その1

57年前の高校時代にやった鉄砲うちの話を始めたら、書いている自分が面白くなって止まらなくなった感が有る。

今日はバンドリことムササビを撃つ話をしてみたいと思う。こんな事をしたことが有るのはごく限られた人だし、もともと夜に鉄砲を撃つのは禁じられているので表立ってやるわけには行かない。

いまどきムササビなんか捕まえたって使いようも無いから、関心を持つのは動物の研究者ぐらいなものだろう。今となってはすっかり貴重になったムササビの捕まえ方を書き残すのもいいのじゃないか。

今身近なところにどれほどのブナ林が残っているものだろうか。よほど奥か限られたところだけになってしまった。その主たる原因は戦後に国が貧乏して国有林の木を切って売り、国家財政を潤していた時代が有ってせっせとブナが切られてしまったからだ。

ムササビはブナの原生林が生息地であった。私が高校時代だった昭和30年から3年間は、学校を取り囲む景色はみな人の手が付かない原生林でみごとなものだった。

そこに道路を作りブナや楢を切り倒して、トラックで運び出していたがまだそれは初期の段階で、山が丸裸にされるのはもう少し後の時代になってからだ。

現在の独立学園

現在の独立学園

 

高校2年の11月末のある土曜日のことだった。地元から通ってくる同級生が紙切れを手渡した。それは親父さんからの手紙で「明日バンドリ撃ちに良いようだから、今日から来て泊まれ」と書いてあった。

この様なメモの連絡は時々あった。「鉄砲うちの誘い」であったり「マミ(アナグマ)を捕まえたから食べに来い」だったり「稲背負いに来い」だったりその時々で様々だった。

翌日はいい天気だった。日中は何をしたか記憶にないが夜になって腹を満たし、腹に弾帯を巻いて手には鉄砲を持って真っ暗になった外に踏み出した。いつものように親父さんは私に鉄砲を持たせてくれた。

今日は「オギュウタから狐屋敷にゆく」と云った。ブナの原生林には名前が付けられていた。ムササビは完全な夜行性で、日中は木の穴に隠れている。夜になると出てきてブナや楢の大木に上り、細い枝の先の表皮をかじって食べている。

本当はもっと居そうな場所もあるのだが、夜に山中を自由に歩くことは出来ないので、山道を歩きながら両側に生えているブナの木を見ながら探す他なかったのである。

その日は丸い月が出て雲が無く煌々と月の光が地面を明るくしていた。歩くには良かったがムササビを探すには条件が悪かった。月の下にはスクリーン代わりの白い薄雲が無ければ、下から見上げる目に20m上の木の枝の先は良く見えないのだ。

かさかさと歩くたびに枯れ落ちた木の葉が鳴った。時々立ち止まって耳を澄ましたが周囲は静かで何の音もしなかった。耳鳴りの音しか聞こえなかったから矢張り音はなかったのだろう。

二人で探したが狐屋敷まで行ってもムササビの姿はなかった。あきらめて帰ってきたがオギュウタの林を抜けようとしたところに、太い楢の木が有って枝の先ではなく途中の幹のあたりに2匹の獣が動いていた。

いたぞ!と親父さんの声が有って、すぐに鉄砲を構えて1発撃ったが当たらない。弾を詰め替えて2発目を撃ったら当たったらしくどさっと音を立ててヤブの中に落ちてきた。

それを見たとき嬉しさのあまり、藪に走り込んで落ちたムササビをつかんだ。その時後ろから親父さんの声がした。「何でもう1匹いたのに撃たなかったのだ。」
いや全くその通りだった。

山に入ったら1匹でも多くの獲物を捕るのが鉄砲を持つ者の仕事だった。拾ったムササビをぶら下げながら返す言葉が無かった。(続く)

 

25万人入ったぞ~!

この1月3日に今年の入館者が25万人に達した。その節目に訪れたのは子供を連れた若い夫婦と、そのご両親と云う新春にふさわしい温かい雰囲気の家族だった。

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例年以上の寒さと雪が災いしているが、このまま3月末まで順調に経過すれば27万人に達しようとする程の勢いが続いている。

取材に来ていた新聞社やテレビ局に、「今の感想は?」と聞かれたがこれもとても一言では気持ちを語ることは出来ない。長い苦しい時代が有ってクラゲに出会って何とか立て直すことが出来て今が有るのは間違いない。

一番入館者が少ない年は9万人まで落ち込んだから、25万人という数字は目標にすらできなかった雲の上のと言えばいいのか、幻のまた幻のと言えばいいのかとにかく不可能な数字であった。

とうとうその天井を突き破ったことになる。

今年そこまで伸ばせたその源は、ギネスにクラゲの展示種類数が世界一であると認定されたことだったが、ギネスに申請できたのも11年前に鶴岡市に買い戻されてからの躍進が有ったればこそだったと思う。

普通ならこうだろう。市が民間から買収した施設が有ったとしたら、市の制度に精通した者を送り込んでトップに据えて、法令と条例と、先例などにきちんと従った経営をさせようとする。

市の制度はお金を稼ぐという経営を前提としていない。家計簿のように入ってくる金が決まっていて、それをいかに使うかという事から成り立っている。そのまま現場に当てはめたら仕事はうまく回らなくなり、時間が掛かり活力は失われてしまう。この辺の事は今更云う必要もなくどなたも知っていることだ。

しかし11年前買い取られてみたら誰も送り込まれず、館長はじめそれまでの職員をそのまま同じように仕事をさせてくれた。中で働く者は長い民間時代の感覚そのままに「結果を最大の目標に」して頑張ることが出来た。

市長は私に「村上はん(さん)、誰の言う事も聞かなくてもいい。水族館の利益は誰にも使うなと言ってある。自分の思うようにやっても良いぞ」と言ってくれた。

この言葉は重い。トップがお前の考えで自由に仕事をしろ!と言ってくれるなんて民間だってそうは無い事だ、何が嬉しいたって心底信用されること程男を震え立たせる言葉はない。

市長は平成4年に秋篠宮さまが来館されると決まった時も、「あちこち直すのに金が要るだろう」と、改築資金の一部を援助してくれたり、クラゲに特化する際も貧乏で職員を増やすことが出来なかった私に、人件費を補助してくれたりといつも心からの配慮をしてくれた。

そして平成14年とうとう老朽、弱小、貧乏水族館を市に買い戻してくれた。この決断だって財政難の中当然反対の声が有ったであろう。ご本人も多くの逡巡が有っての末だったろう。こんな経過が有ってその上での有り難い言葉だった。「市長を困らせるわけには行かない、皆で頑張って実績を上げよう」と声を掛け合って努力してきた。

人の動かし方も多くの方法が有る。今テレビをにぎわしている大阪の何とかという高校では体罰で指導して問題を起こしたが、本当は信用されること程大きな効果を生むことは無いと思う。引退してもう3年以上になるがときには電話をくれることが有る。

「村上はん、又新聞さ出っだけぞ。」ここの職員を今なお心にとめていてくれる様だ。報道陣の質問を受けてこんな事を思い出した、あの市長だけではない多くの人の支えが有っての25万人達成だった。

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バンドリは冬の月夜に撃つ その2

表題は冬の話になっているが、書き出しはまだ雪の降る前の月夜から始まってしまった。前にも書いたが夜行性の獣を追って山を走り回るのは人間には不可能な事で、ムササビにしても山道を歩いている間に偶然に出会う事を願う他ない。

そこで本格的に猟をするのは、自由に歩き回ることが出来る雪が深く積もった冬のさなかになる。あれも確か高校二年の冬だったと思う。あの日も天気は素晴らしくいい日でかんじきを履いて、親父さんと一日中ウサギを追って歩き回った。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

 

雪もあまり深くなく歩きやすかった。ちょっとした杉の林や、斜面に生えた雑木の林を交代で追い役と撃ち手になりながら、ウサギを撃って過ごした。

山のいたるところに足跡がついていても、思うほど多くはいないのかいつもそんなには捕れなくてせいぜい2~3匹だった。

捕れればすぐに腹を裂いて内臓を捨てる。こうしないと匂いがきつくなって肉の味が落ちるのである。

快晴の空が次第に白い薄雲が張ってきて「これはバンドリ撃ちにちょうどいい、夜また山に入ろう」と親父さんが言った。私も少し山を甘く見ていた。いくら若いと言ってもウサギを追って一日中歩き回って、さらにまた夜もでは疲れ果ててうごけなくなる。

しかしバンドリ撃ちの誘惑には勝てなかった。一度戻って腹いっぱい食べて暗くなってまた山に入っていった。ゆっくりゆっくり親父さんの踏み跡をたどってオギュウタのブナ原生林に差し掛かった時、頭上からぞっ!と背筋が寒くなるような声が聞こえてきた。

「女がすすり泣く」と言えばいいのか、「か細い笛のような」と言えばいいのか、この世に幽霊が居たらこんな声を出すのではないかと思える、ヒュルルルルルーと身を震えさす声だった。

ぞっ!として立ちすくむと親父さんが私の名を呼んで「バンドリがいた」と云った。「この声はバンドリで人が近づいたりすると警戒してなく声だ」と云った。

見上げるとそこいらにはまだブナの大木は生えていなく、10mぐらいの背の低い木が枝を広げて二人の頭上まで伸びていた。

その木の上に何かが黒い塊となって見えた。「良く見れよ、月に透かし見ればふわふわとした毛が見えるものだ。」「毛が無いのは雪の塊だ。」細い枝の先にしがみついてバンドリがいた。

まず親父さんが撃った。「いつもこんな入口には居ないんだが、今日はいいかもしれない」と親父さんが言った。

更に奥に入って行くと見事なブナの林になる。みな高さが20m以上も有ってなん百年たったのか太い立派な木であった。人が植えた木ならば整然と同じような間隔でブナの木が立っているはずだが、原生林の木はそんなに間隔が近くないし距離もバラバラだった。

大木となると隣の木まで50m~100m、200mも離れていることも珍しくない。今は雪の下に隠れて見えないが間にはびっしりと背の低い色々な木が生えて森を作っている。探しながら行くと、1本のブナに4~5匹もバンドリが取り付いていた。

雪の上に尻をおろして上を見上げて狙いを付けて1発撃った。しかしそのままだった。また1発撃ってみた。これも当たらなかったようだ。何発目か撃ったときやっと1匹落ちてきた。

やれ嬉しや、やっと当たったか良かったと思ったら、落ちると思ったバンドリが、雪の上すれすれを飛んで行ってしまった。矢張り夜に鉄砲を撃つと言うのは難しい。狙いを定めたつもりでも筒先が見えないのだから、どこか違う方角を狙ってしまうのだろう。

親父さんが私に代わって撃って1匹捕まえた。そして飛んで逃げた奴を追いかけた。150mもかんじきを履いたまま走った。逃げた先にもブナの大木が有って根元にバンドリが着地した足跡が付いていた。見上げる20m上に塊が見える。さっきの奴だろう。

ここでやっと私が1匹撃ち落とした。さらに行くとブナがみな若く木も混んでいて高さが15mほどと低くなっていた。先に行った親父さんが1匹落として拾いに行ったところ、死んだと思ったバンドリが木に這い上がった。

それを見た親父さんが筒先でたたいて落そうとした時に、誤って引き金を引いてしまった。ドカンと音がして離れてみていた私の眼に筒先の赤い火が見えた。弾は私めがけて飛んできて横に生えていたブナの幹にあたった。

親父さんの切羽詰まった声がした。「おい大丈夫か!」鉄砲だろうが大砲だろうが当たらなければどおって言うことは無い。「何でもねえー」と云ったがまた親父さんの声がした。「本当だか、当たらなかったか。」親父さんはこの時本当に私を撃ってしまったと思ったと後で話してくれた。

いつもならこんな失敗はしない人なのだが、矢張り疲れがそうさせたのだろう。皆で5匹か6匹のバンドリを捕まえたところで、弾が無くなった。私が下手なものだから当たらないままにやたらと撃ち過ぎたせいだった。上手に撃っていればあと4~5匹は多く捕れたと思う。

二人で分けて背負って帰ってきたが、どっと疲れが出て疲労困ぱいだった。いつの間にか腹が減っていた。力が抜けてボーっとして、ただ惰性で足を進めた。

私にはいまどこに居るのかさえわからなかった。わずか雪にかんじきが引っかかっては倒れ、又倒れ夢遊病者のように歩いていた。疲れてはいたが体は暖かく眠く、このまま座り込んで眠ったらさぞかし気持ちが良いだろうと思った。

そのまま眠れば実に「安らかに天国に行ける」、あの気持ちよさは「どんな宗教や悟り」も敵わないだろう。死にたくなければ空腹と眠さを我慢して歩く他なかった。

親父さんの家を見下ろす裏山まで来て、親父さんは灯りを見ながら「あそこまで駕篭に載せて連れて行ってくれれば1万円やる」と云った。今だったらさしずめ20万~30万円という所だろう。

疲れを知らない人だったがさすがに、昼も夜も鉄砲うちでは参ってしまったようだった。私は黙って聞いていた。声すら出ないほど疲れ切っていたからだ。

バンドリには少しだが脂がのっていて、木の匂いがするが結構うまいものだった。

毛皮は紙のように薄く使い物にならない。身も骨から剥がすほど多くはないので骨ごと鉈でたたき切って鍋に入れ、野菜と味噌で煮るだけだった。骨付きの身は両手で持って「骨かじり」と言って歯でむしり取って食べる。これがまた楽しみであった。

山の肉鍋に必ず入れるものが有った。それは潰した大豆で、木の切り株の上で金槌で1粒1粒たたいてつぶす。左手に大豆を握って1粒乗せてはたたいてつぶした。

それは面倒な作業で、幾ら潰しても大した量にはならなかった。

73歳になった今でも月夜に白い雲がかかっていれば、バンドリ撃ちを思い出す。