月別: 9月 2014

返す言葉がないとはこのことか

いやこの4か月実にあわただしい思いをした。水族館の開館がこんなに大きな反響を呼ぶとは思わなかった。新しい水族館に寄せる思いは地域の人々のみならず、日本中の人が加茂水族館の開館を待っていてくれたような繁盛ぶりが出現した。

予想をはるかに超えた客が来れば苦情も増える。駐車場も足りず、売店もレストランも対応しきれなかった。すべての面が後手後手に回り混雑して館内が渋滞し、入館のゲートまでも渋滞が続いた。

とにかく入口から大混雑していた。

とにかく入口から大混雑していた。

 

館長自らハンドマイクを片手に「今日は今年一番の込みようです。入館できない人が300mも繋がっています。止まらずにお進みください」と声をかけた。
おそらくはろくに魚もクラゲも見れずに帰られた方が相当数いたと思われる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

この異常な人気はオープンする前からすでに予想されていた様なもので、クラゲ水族館として何度も何度もテレビなどで報道がされたことによるものだったと思う。それも全国的な報道が多かったから効果があったのだろう。

どこの報道も必ず取り上げたのは目玉の5mクラゲ大水槽だった。これは確かに絵になるし取り上げたくなるような魅力がある。これまで世界中のどこにも無かった大きさと中に8,000匹のミズクラゲを泳がせたのが大きな感動になった。

朝開館と同時に魚の水槽の前を250m走って他のクラゲは一切見ずに通り過ぎて、クラゲ大水槽にたどり着いて見入っていた若い女性もいた。「どこから来たのですか?」「東京からです。この水槽を見たくて来ました」と言っていた。

やはり一番の人気がこのクラゲ大水槽なのだろう。

やはり一番の人気がこのクラゲ大水槽なのだろう。

 

この水槽は巨大だといっても水量的には大したことはない。40トンのむしろ小型の水槽にすぎない。お隣の秋田県と新潟県の水族館には最大700トンの水槽がある。福島県には1,500トンがあるし加茂の40トンは比較できないほどの小ささにすぎない。

しかしこの水槽の価値はちょっと違うところにあると思っている。これまでクラゲ、しかもミズクラゲをこれほど大きな水槽に群泳させるという発想は、どこのどなたからも出ていないものだった。

世界中を見回しても同じである。これまでと違う価値の展示を生み出したところが5mクラゲ水槽の値打ちなのである。大いなる挑戦だったがやって良かった。お客様も報道陣も同業者も皆が認めてくれ大きな反響につながった。

まだ目の前に残されている旧水族館にも大水槽があった。深さが3m水量が30トンだった。大きさだけだとクラゲ大水槽とさして変わらない。当時としては深さ3mは日本で最も深いもので、上野動物園の中にあった水族館にある水槽が大きさは比較できないが深さ3mで1番だったのでそれに倣ったものだった。

この水槽には理解できない不思議な作りがしてあった。なるべく大きなガラスをはめて見やすくして感動していただきたいとは、どなたも願うところだが丁度目の高さに「目隠しのコンクリートの帯」がつくられていた。

不思議なつくりの「大水槽」

不思議なつくりの「大水槽」

 

中を見るためには伸び上って上から覗くか、しゃがんで下から見上げるほかなかったのである。なんで目線を封じるような作りをしたのかいくら考えてもその理由は思いつかなかった。

・コンクリートの帯があり、覗く部分が極端に狭い。

・コンクリートの帯があり、覗く部分が極端に狭い。

 

昭和41年はまだ鶴岡市立加茂水族館だったので、館長は観光課長井上行雄さんだった。聞いてみたらこの返事もまた理解できない不思議なものだった。何処の出来事かは忘れてしまったが「ある女性が水槽を叩いたところ、指輪のダイヤモンドで硝子が割れてけがをした。ここは深さも水量も大きい。大事になっては困るので目の高さを隠したのだ。」真顔での返事だった。

「そんな馬鹿な、水族館を建てているのではないか。目線を封じるとは、見せることを封じたということではないか」と思ったが採用されたばかりの26歳の若僧では言葉にできずぐっと飲み込むほかなかった。

翌年水族館は民間の会社に売却されて27歳で館長をやらされる羽目になったが、その15年後に、「観覧俯瞰大水槽」を取り壊しガラスを大きな物に取り換える工事をした。

工事を地元の渡部工務店に依頼して、酒田市の三浦ガラスさんにあつさ11mmの強化ガラスを発注して行った。

深さを1m下げて2mとして冬の間の工事が何とか完成した。3月中ごろに庄内一円に「大水槽が完成しました」と書いた捨て看板を60本立てた。すべては客を呼ぶためだった。

何月ごろだったろう、どこかの親父さんが大水槽の前にいた。丁度通りかかった私に「大水槽が完成したと聞いたのだがどこに有るのですか」と聞いた。「いや目の前にある」とも言えず、「うーんまずまず・・・」とか言ってごまかす他なかった。

新しい大水槽。ガラスは大きくなったが、やはり他所の巨大水槽と比べれば・・・

新しい大水槽。ガラスは大きくなったが、やはり他所の巨大水槽と比べれば・・・

 

水量的にはそう変わらない40トンと、30トンだが価値は天と地の差がある。あのころが夢だったのか、今が夢なのか体験した自分としては落差がありすぎて夢の続きを見ているようなあやふやさが有る。

 

 

真夏は50度にもなった

新しい水族館はオール電化方式が採用されている。立派なレストランが有るが調理のために火は一切使っていない。大きなラーメンの釜も、煮物も焼き物も揚げ物もすべてが電気の力で料理が出来てゆく。

新水族館レストランの厨房。

新水族館レストランの厨房。

 

火の無い台所なんてまるで魔法のような感じだが、実際ボタンの操作一つで温度や調理の時間が変えられて料理が出来てゆく。これまでレストランの台所と言えばガスの火が燃え上がるコンロに鍋やスンドウが置かれて、白衣の男たちが忙しく動き回るイメージだった。

世の中がここまで変わるとは只々びっくりである。なぜ知りもしないオール電化に飛びついたのかこれを紹介するのも館長である私の務めと言うものだろう。

おととしの事だから平成24年の5月ごろだったと思うが定かではない。「館長、東北電力の方が来ました」と言われた。予定もないのに何の用かと思ったが、多分電気料金の事でも説明に来たものだろうと会ってみた。

何だか元気のない印象の薄い二人の男がいた。何事かと思っていると鞄からパンフレットを取り出して「オール電化の営業に来た」と言った。なんだか胡散臭い話だなと思った。

いいかげんに帰ってもらいたかったので、気のない返事をして説明を聞いてお帰り頂いた・・・これが始まりだった。

意外にもその二人の男は粘り強かった。何度か会っているうちに実際稼働している現場を見てくれと酒田市にあるホテルに案内された。ここで目にしたものが信じられないものだった。

整然とした大学の実験室の様なたたずまいで、調理器具らしからぬものが並んでいた。

引き出しがいくつも付いた箪笥のようなもの、ステンレスの本棚のようなものも有った。台所特有のむんむんするような熱気と湯気、コンロから上がる炎とは無縁の実に静かな場所だった。

「火を使わないから台所は暑くならない。」この言葉に感動した。振り返ってわがクラゲレストランの台所はと言えば夏の盛りには50度にもなる大変な職場だった。

旧館の厨房。左側のコンロでがんがん火を焚いていた。

旧館の厨房。左側のコンロでがんがん火を焚いていた。

 

色々工夫をしてみたが温度を下げる事が出来なかった。ここで働くお母さん方はみんな60歳を超すいい年になっている。「みじょけねなー」と思ったし、いい環境で仕事をさせてあげたかった。

「新しい水族館では夏でもセーターを着て料理を作らせるぞー」とこの時に決心した。オール電化と言えば聞こえはいいが調理の設備には結構なお金が必要になる。それも軽食コーナーの分と2か所の設備になる。

金はみんなで稼げば何とかなるだろう。もうそこから先は心配するのをやめにした。

今外に見える小さな古ぼけた建物のレストラン、あそこの思い出は山ほども有る。

平成7年頃だったと思う。売店を拡張する工事をしたことが有った。東京の本社の指示で売店は商売になるがレストランは難しい、レストランを狭くしてその分売店を広げろと言われた。

売り上げから念出する工事の資金は不足していた。工事をしたらレストランのイスとテーブルを買う金がほとんど残っていなかった。思いついたのはリサイクルの業者から買えばうんと安くできる。

ダイ・・・何とかと言う業者の倉庫が赤川の土手のそばにあった。事務の田沢さんとガラクタが山積にしてある倉庫に入り散乱した家具を乗り越え乗り越え探したら、どこかの蕎麦屋からでも引き取ったのかそれらしいテーブルが見つかった。それを6つと合いそうな椅子を24買った、皆で35,000円で買えた。

これを並べて商売したがとても話にならなかった年間の売り上げが600万円にしかならなかったから、誠に恥ずかしい次第だった。

貧乏が極まってくるともう何でもありだった。それから10年後の平成18年に、クラゲレストランに改造し倍に拡大したら売り上げが3,000万円を超えたのだからどん底の5倍になって大いに利益を上げた。

旧館のクラゲレストラン

旧館のクラゲレストラン

連日のにぎわいを見せたものだった

連日のにぎわいを見せたものだった

 

ここでクラゲを食べる会をし、クラゲラーメンを発明し、エチゼンクラゲ定食も売り出した。クラゲアイスは年間1,000万円を超す空前の大ヒットになった。

クラゲのジャムも作ったし、クラゲウインナーコーヒーも売り出した。皆バカバカしいアイデアだったが実行したらマスコミさんが飛びついて来た。

勢いがつくと何をやってもヒットするものと教えられた。アイデア料理を出せばテレビ局がきて全国放送してくれ日本中の客を呼び、売り上げを増やしてクラゲ展示の拡大資金にした。

 

「クラゲを食べる会」にフランスからの取材が来たことも。

「クラゲを食べる会」にフランスからの取材が来たことも。

 

夏には50度にもなったあの台所も新しい水族館建設に向けて力を発揮してくれたのだが、外の建物と共にあと数か月で取り壊される。