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警察官に悪いことしろとは

先日、テレビタックルでお馴染みの江口ともみさんが、TBSの別の番組の収録に来てくれた。あの番組は私も好きで良く見ている。いつもいい大人たちが興奮して怒鳴り合いになる、本当はそう見えるだけでおそらくは事前に打ち合わせをして、ゆるい約束が有ってのやり取りであろうが、口角泡を飛ばしながらの口論は思わず引き込まれて面白い。

わざわざ東京からやって来たTBSの関心は、この50年になろうとしている古い小さな水族館が、意外や意外、中に入れば世界一のものが有る。この意表を突いた組み合わせにあるらしい。

確かに入ったところは薄暗い雰囲気だし、昔懐かしい汽車窓式の水槽が並んでレトロな感じがしている。天井を見れば何やら雨漏りらしい跡も見える。

普通に見れば世界一どころか倒産の心配さえ浮かぶみすぼらしさだ。しかしここが生き残りのためにした世界一のクラゲ展示と、それを広く知らしめるための取組みを知ると皆さんが面白いと笑顔になる。

それはそうであろう。売店には堂々と「クラゲ入り饅頭、羊羹」が売られているし、その先にあるレストランには「クラゲレストラン」の看板がぶら下がっている。これをやるには並みではない度胸が居るのだ。

レストランにはクラゲの入った面白い料理が並んでクラゲ入りのコーヒーさえあるのだ。一つ一つの料理に思い入れが有って、出来たときにはマスコミさんが大勢来て報道してくれた。地元だけではない東京から来るテレビ局さんも必ず目を輝かして取材してくれた。

パンツまで脱いだ素っ裸であぐらをかいて、「どうでもしやがれ」と居直ったような加茂水族館の破天荒の取り組みは、マスコミさんだけではなくどなたが知っても興味がわくらしい。

去年の1月だったが、県内の警察署と名乗る電話が有った。悪い事をしている訳ではないが、矢張り警察と聞くと身構えてしまう。

何事だろうと心配したが「館長さんに講演をお願いしたい」という。そのぐらいの用だったら何とかなる。「私で良いなら行きましょう」と答えてしまった。

当日はそこの地区のお巡りさんがほとんど集合していたと見えて、その数ざっと100人という所か、きちんと制服を着た集団は迫力が有る。誰かの号令に合わせて靴音を響かせて一斉に礼をして席に着いた。

いつも私の話は決まっている。評論家でもないので相手に合わせた臨機応変の話など出来るわけがない。長い歴史の中に起こる波乱の運命とどん底を迎えた暗い日々、そしてクラゲに出会ってからの奇跡の回復。

見事な離れ業をやってのけたあっぱれいい男を目の前に再現する。「いいか頭がよくて、勉強ができるからと言って立派な人間にはなれないぞ。」「その人の能力はほとんど子供のころに決まってしまうものだ。」

「あなた方が子供に戻れるなら勉強は半分でいい、あとの半分は好きな事をとことんやれ。」そしてもう一つある「何だかわかるか・・・それはなー悪い事をしろ・・・」

悪い事も出来ない奴は立派な人にはなれないんだ・・・と言って顔を上げたら、目の前には制服の警官が席をうずめていた。そうだった今日はお巡りさんの前で話していたんだと気が付いた。途端に次の言葉が出てこなかった。

小さな声で「いや済みません、今の言葉は取り消します・・・」と言わざるを得なかった。

オキナグサとの出会い

帰ってきたばかりと云うのに、もうなんだかこの世の出来事ではなかったような、はるか遠い昔の出来事のような、はたまた夢の中の出来事だったようなあやふやさがある。

もともと私はオキナグサには興味が無かったし、どうしても見たいと思うほど力が入ることも無かったのに、思いが叶わなかったばかりに余計執着してしまったようだ。

子供の頃には山手の田んぼの土手や、草刈り場などに行くと結構咲いていたものだったが、何時の間にか見られなくなっていて、気がついたときには殆ど手遅れだった。

10年ほど前に写真好きの友達に尋ねられたのがきっかけだったが、だれに訊ねても自ら探せども出会うことは無かった。殆どの人は「あー有るよ、今でも咲いているはずだ」と答えたが。

いざその時期になって「行って見たが1本も無かった、ついこの間までは確かに有ったのだが」という返事がまるで判を押したように返ってきた。

オキナグサぐらいそう難しいことではあるまいと高をくくっていたが、さがしはじめて難しいことが分かってきた。

ほんの数年の間に取り巻く環境が大きく変わっていたことに気がつかなかった。

確かにメダカやアブラハヤ、各種のタナゴにオイカワまでも姿を消して展示のために採集するのに苦労していたが、うっかりしていたが水中だけの事ではなかったのだ。無いとなると自然が残っていると思われている此の庄内でもこうなのである。

そうなると余計見たくなるのが人の常、何とかどこかに少しぐらい残っていても良さそうな物だとおもい、折に触れては人に尋ね一寸した話を聞き込めば、刺さり込んで情報を集めたりした。

もう殆ど執念のようなものだった。「一度でいいから野生のオキナグサに出会って、写真を撮りたい。」別に掘り取ってきて鉢に植えようなんて姑息な考えはない。欲しけりゃ売っているじゃ無いか、俺はただ野生の本物に出会いたいのだ。

大昔にラジオのドラマに「君の名は」と云うのがあった。若い二人が出会いそうで出会えない、じれったいすれ違いの物語だった。放送の時間になると風呂屋に女客が居なくなるといわれ、一世を風靡したことが有ったが、あれに気持ちは通じるものがある。

其れが昨日念願かなって出会えたのである。突然の電話だった。かすかに聞き覚えのある声で、阿蘇生と名乗り「秋田県の鳥海山ろくに確かにある」という。「行ってみる気は今でもあるか?」というもので有った。

6年前に親戚のお葬式で出会った、見知らぬ方であった。7日法要の後の直おらいでたまたま出したオキナグサの話を覚えていてくれたようだ。

嬉しかったしありがたかった。今度こそ実現しそうだと直感した。二つ返事でお願いした。その方の酒田市のお宅から約40分、鳥海山の秋田県側の懐深いいい景色が広がる高原の田園地帯の中に突然ぽつんと小さな食堂があらわれた。

この小さな「マサ苑」という名の食堂のご夫婦が案内人であった。

食堂から数百メートル向こうに見える田んぼの外れの山すそが、オキナグサへの入り口だった。軽のワゴン車に4人が乗り木々の枝に囲まれた細い山道を登っていった。

ただただ木々の枝だけが視界を遮り見通しは全く利かない。天空に続くかと思えるほどの急な上り道だった。ガタガタゴットンと天井に頭が着くほどに車は揺れた。ちょっと間違えたら車は藪に突っ込むか反対側のがけ下に転落するかしただろう。

まだ幾らも登らないうちだった。運転していたオヤジさんが突然ハンドルをもつ左の手にライターを握り締めて、カチャカチャと火をつけ始めたのである。そして右の手に持つキセルを咥えて顔を近かづけて火をつけたのである。

この間車は走らせっぱなし、危ない山道でのハンドル操作を続けていたのだから恐れ入る。

相当のタバコ好きと見えた。数分おきに右手1本でキザミ煙草を詰め替えては、左の手でカチャカチャとライターを鳴らして火をつけていた。あれはもう危ないとか言ってるような生易しいものではなかった。「いよー天晴れいい男」と声を掛けたくなるような離れ業だった。

そして突然木の背が低くなってまばらになったと思ったら、地面が芝生に変わり、視界が開けてそのままこじんまりした牧場になっていた。

道が有るようなないような牧場の中に軽のワゴン車は入っていった。「ここいらは一面、白くなるほどオキナグサがあったのだが・・・」という声とは違い、見ても探しても見つからなかった。

去年は確かにあったという高台にも行って車を止めて4人で探してみたが無い。有ったのはオキナグサならぬアズマギクの群生であった。此れだって今時簡単に見つかるほどには無くなった貴重な植物である。

此の牧場は誰しもが持つイメージとは違っていた。見渡す限りに何処までも続く広大なものではなく、あっちに一つこっちに二つと散在する草地を、道でつないだ複雑なもので、1つ1つはそんなに大きくはない。

オヤジさんは何とか私にオキナグサを見せたいと、あっちこっちと回っては、「此の間までこの辺は一面咲いていたのだが」と首をひねっていた。

そして思い切ったように藪道に車を入れた。しばらく木々の枝に車体をこすりながら走ったその先に、再び芝生の台地が現れて、遂に出会うことになった。

車を止めたその席からオヤジさんは「あった!」と大きな声を上げた。

幾ら目を凝らしても私の目には「白い産毛に包まれた幻の花」は見えなかった。

親父さんの後について行って指差す先をみて初めて目に入った。思っていたより、白い産毛も赤い花びらも周りの草に溶け込んでいて目立たないものだった。

3本が一つの株になって2本は今が見ごろの、奇麗な濃い赤色の花が下に向いて咲いていた。

やっと出会えたオキナグサは、その辺を探して他に3株だけが見つかった。「恐らく来年は芽を出すまい」それほど頼りなくひっそりと咲いていた。

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上野の山は真っ暗だった

どうも年を取ったせいだろう、このごろ思い出すのはずいぶん昔の切なかった仕事の場面ばかりだ。いまさら思い出したとしても仕方のない事だが、今日は夜の東京、上野の山をさまよった夢か幻のようなシーンを語ってみたい。

あれは確か平成6年だった。あのころはまだ新幹線が東京駅まで乗り入れしていなく、上野駅が終点だった。八丁堀にあった東京の本社に、難しい問題を抱えて出張したのは10月の中ごろだったと思う。

3月から始めた「ラッコの展示」が思わしくなかったのである。ラッコは1頭1500万円もする高価な動物だが、貝を割るしぐさや顔の可愛さから国民的な人気が有り、展示した水族館はいずれも入館者が倍増していた。

遅ればせながらラッコの人気にあやかって、どん底を迎えていた経営を一気に挽回しようと考えたのである。ラッコの飼育には金がかかる。冷たい海に生息する生き物だから水槽を年中14度以下に下げなければならない。

意外に思われるかもしれないが寒い所に生息する割には体脂肪は少なく、いつも毛づくろいをしては厚い綿毛に空気を吹き込み断熱し、多く食べてそのカロリーで体温を保っている。

毛づくろいの度にびっしり生えた綿毛が抜けるし、多く食べた分多くの排泄をする。ラッコには魚の比ではない大きな濾過槽が必要だった。

そして鮮度のいいアジやイカに加えて大型の貝を与えなければならなかったので餌代がかさむ。

工事資金を東京の本社に借りに行ったが、何だかんだと言いがかりのような理屈をつけて、予定の金額の3分の1しか貸してくれなかった。しかし不足分は必ず増客した収入で支払いができると自信が有った。

わずかながら客が増えたのは、展示を開始した3月から6月までの4か月間だけだった。工事に掛かったお金を売り上げで支払っていたから、10月になると手もちのお金が底をついてきた。

知り合いの業者に支払いを伸ばしてもらったり分割してもらったり、今度の日曜日に多少売り上げが有るからその翌日に払おうとか、やりくり算段していたが、これから訪れる雪の季節を乗り切るだけの資金はどこにもなかった。

思い出してみれば笑い話のようなことも起きた。あのころまだ庄内の磯釣りは結構盛んだった。どこの釣り大会だったか忘れたが会員の私も参加するために、磯の上に立って庄内竿を振り回してクロダイを狙っていた。遠くで誰かが私を呼んでいる声が聞こえてきた。

微かに女性の声で「館長ー、かんちょうー」と言っている、振り返ると経理の田沢さんが声の限りに私を呼んでいた、「何だでー・・・この忙しいのに」と思ったが、竿を置いて行ってみると、今日は支払日であるとの事、そして資金が足りないがどうしたら良いだろうと切羽詰まった顔をしていた。

大切な支払い日を忘れてクロダイを釣っていた。これはしまった大きなしくじりをしてしまった。あわてて職場に戻ってやり繰りすると言う笑えない笑い話もあった。

収入のほとんど見込めない冬を越すにはどこかから借り入れをする他なかった。そして「意を決しての本社詣」だったのである。頭ごなしに叱られることは分かっていた。本社の経理を担当していた副社長に事情を話すと、逃げ道をふさがれて前から責め立てられた。予想をはるかに上回るひどい怒られ方だった。

咽から出かかった「あんたがこっちの要求を無視して、希望の3分の1しか貸してくれなかったから金が無くなったんだ」という言葉をぐっと飲み込んだ。怒りに高ぶった声は次第に大きくなって「こんなことをするような奴は必要ない人間だ」とまで言われてしまった。

情けなかったが数字がすべての世界だった。黒字ではあったが資金は見事に無くなっていた。

すべては見込みを誤った私の責任だ。頭を何度下げたことか、何時間経過したかも定かでなかった。どうにか1500万円の借り入れを承認してもらい、本社のビルを出た。

こんな面白くもないところは早く退散したかった。そして上野駅に来ては見たものの予定していた発車時刻は夜の9時だった。時間はたっぷりあった。ぽつんと駅のホームに座っていても悶々と言い訳や、恨み、つらみが消えては浮かぶ。「俺は本当にこの世にいらない人間なのか?」思い余って上野の山に上がってみた。

どこをどう歩いたのか不案内な山は街灯も少なく、枝を張った大木が光を遮り真っ暗だった。ふらふらと彷徨う先に黒いシルエットのように佇むアベックの姿もあった。

普段の自分だったら寄り添う二人は気になる人影だったが、暗く押しつぶされた今の自分には羨ましくも腹立たしくもなく唯々うろうろと歩き回っていた。

特にあの会社が厳しかったわけではない。民間の会社なら多かれ少なかれ似たような厳しい経営がされている。倒産すれば働いている職員だけではなく、取り巻く多くの人に迷惑がかかる。

もし出入りしている多くの業者さんに支払いが出来なくなれば、そのお金を当てにしていた相手が倒産しかねない事になる。企業はいい時も悪い時も健全な経営を続けることを義務づけられていると言って良いだろう。あれは実に大きな教訓になった。

6万匹の岩魚を釣らされた

もう20年も前のことになるが、年に60回も山に入り岩魚釣りに明け暮れていた事があった。あのころは週に1度の休みだったから、4月の解禁から9月末まで毎週山に入ったとしても20数回しかならない。

年に60回となると普通の勤め人には不可能な回数である。私の場合はどうしてそのような事が出来たのかというと、好きでやっていたのではなく、水族館と言うよりは会社の大事な仕事の一環としてやらされていたのである。

好きなことだから良いじゃ無いかと思うかもしれないが、これだって度を越せば苦労の種になる。毎月2度か3度東京からオーナーがやってきて、自分の経営するホテルに作った別荘に泊まり、3日~4日朝早くから夕方までイワナつりをして山遊び三昧の日々を過ごしていた。

そのお供と云う役割が私であった。庄内に滞在する間中私が陰の如く付き添い、釣りだけではなく関連会社を回るにしても、応援していた代議士のお宅を訪れるにも、東京に持ち帰る土産を買いに行くのも、とに角どこに行くにも私が運転するビッグホーンに乗って行動していた。

オーナーは唯の人ではなかった。15歳で風呂敷包み1つぶら下げて上野駅に降り立って以来、努力に努力を重ねてのし上がり、とうとう小さな鋼屋を東証一部上場の会社までに拡大した実力者だった。

力があって頭の回転がよく、度胸もあり仕事人の全てを備えた人だった。自信があったからだと思うが誰が何を言っても聞き入れない絵に書いたようなワンマンだった。

そのワンマン社長が年を取って振り返ったとき、趣味も無く仕事の他には自分を夢中にさせるものが一つもなかったようだ。

サケがふるさとに戻って産卵し、一生を終える如く社長も生まれ故郷に戻って子供の頃に遊んだ山や川が恋しくなったのは、ごく自然な流れだったと思う。

何時の間にか私が案内係となって、二人で岩魚釣りをするのが唯一の心の休みどころとなった。来るたびに庄内平野を取り囲む山々に分け入っては岩魚を釣った。

あのころ山は荒らされておらず、入る沢にはイワナがいっぱい泳いでいた。朝から釣って夕方にはいつも100匹以上のイワナが魚篭に入っていた。

東京でイワナを日に100匹も釣るといっても、誰も信じてはくれない。イワナという魚はあの頃すでに幻といわれていたので、車を置いて1時間沢を遡ってから、一日中竿を振ってもほんの数匹というのが相場だった。

「嘘でしょう、信じられません。」と云われるのが社長の自尊心をくすぐっていた。誰も信じられないぐらい釣っているので楽しくて仕方が無い。「そんな事云うなら一度いらっしゃい釣らせてあげますよ。」と、東京からいろんな人を連れてきた。

得意先の大事な人ばかりではない。いつも行くすし屋のオヤジさんだったり、有名なホテルオークラのコック長と支配人だったり、時々立ち寄るおまわりさんだったり、もう留まる所を知らないほど誰かれなく声をかけていた。

20数年間風邪を引いて寝ていようが、明日大事な会議があろうが人が訪ねて来ようが、全てを社長に合わせて、亡くなるその年まで楽しみの相手を務めた。

ワンマンだったあの人は誰しも近寄り難く、出来るなら離れて居たいというほど厳格だった。

商売人として徹底的に利益を追求したその人生で、たった一つ例外が(株)庄内観光公社の経営を引き受けた事だといわれた。 幾ら赤字が続いても周りの反対を押し切り、様々な形で援助の手を差し伸べて、事業を続けさせた。

厳格な社長の信条を変えて、例外を生ませる事になったのは、たった一つしかなかった「岩魚釣りという趣味」がそうさせたと思うのが一番分かりやすいだろう。

ワンマンオーナーは、生れ故郷に帰って好きな山に入って岩魚を釣るという楽しみがあったから、月に2度も3度も満光園に来たのであり、其れを最大の楽しみとしていた。

50数年間社長として先頭に立ち、突っ走ってきた仕事の第一線を離れたときに胸に去来したものは何だったろう。「まだまだ若いものには負けない。」「あの仕事ぶりは何だ。」「俺だったらあんな事はしないぞ。」悶々とする日々の思いを胸の奥底に呑み込んだ男の心の隙間を埋めてくれたのはたった一つ、生まれ故郷に帰りイワナ釣り三昧の日々を過ごすことだった。

その楽しみを自ら断つことは出来なかっただろう。あの頃の社長と同じ年代になった今その心境はよく分かる気がする。

大山鳴動して地域を巻き込んだ昭和42年「足達鶴岡市長の観光の市構想」は、湯野浜ゴルフ場の下にホテル一つだけが残って消えたが、その陰には悲喜こもごもの物語が存在する。

芸は身を助けるという諺があるが、趣味は会社を助けるといつも思いながらイワナ釣りに明け暮れていた。

館長 クラゲを捕まえる

一昨日と昨日の2日間つづけて舟を出してクラゲを捕まえに行ってみた。副館長の隣に乗せてもらったのではない、自分で採集舟を操縦しての船出である。

こ こ2~3年はそんなことはなかった。何だか年を取った感じがして舟を出すのが億劫になっていた。若いときには重い木造の舟を櫂1本で手漕ぎして、2kmも 離れた暗礁までも行って釣りをしたものだがもう駄目だ。疲れそうだなと思うとパソコンの前から動かないのだから、寄る年波には勝てないという事だ。

そ の自分が若い職員に誘われて「おーんだば行くがー」と返事したのだから、我ながら可笑しかった。70歳の曲がり角をすぎて少し体力が戻ったのかも知れな い。年を取ったと言っても海を見る目は昔のままだ。海が穏やかに凪いでいれば出たくなる。タナゴやメバルの20~30も釣ってやろうかと気も起こる。

クラゲが相手でも同じだ。あの日は若い女性飼育係と二人で、引き上げてある舟を押して海に浮かべ、久しぶりに50馬力の船外機のスイッチをまわした。4サイクルのエンジンは音が小さく静かに安定した回転音がしている。

駐車場の向こうにある港は100mほどしか離れていない。「いやークラゲに出会って観光ルートから外れたここも条件が一変したな。」気持ちよく今泉の港から出航した。日本広しと言えどプライベートの港を持っている水族館は他に思い当たらない、いい気分だ。

まず目指すのは800m沖にある離岸堤だ。水深が10mある岸壁に沿ってクラゲが居るはずであったが、しかしだめだった。最上川からでも来たのか川の水が入ったことを示す、特有のワタごみのような浮遊物が無数に漂っていた。

よく見るとワタごみの間にもっと細かな何かが無数にうごめいていた。これは俗に夜光虫と呼ばれているプランクトンである。これが災いしたようだったクラゲは見えなかった。せっかく意を決して船出してきたのだが見放されたようだ。

離岸堤を3つ回っても壊れたカブトクラゲが一つ漂っていただけだった。クラゲって奴はいないときには影も形もない。しかしいつ大量に現れるか分からないのもクラゲの特徴である。

そして翌日矢張りいたのである。岸壁には釣りの方が何人も上がっていた。船が近づいてクラゲを探していると「あそこにいる」と指さして教えてくれた。4m上の岸壁から見えるのは多分傘に縞模様のあるアカクラゲだろう。

以 前ここは私の専用の釣り場だったのだ。水族館の採集船で押し渡っては細い庄内竿を見事に曲げてクロダイを釣っていた。「どうです、何か釣れましたか」「ク ロダイが1匹釣れました」こんな会話も楽しみの一つだ。他にはオワンクラゲ、サビキウリクラゲ、チョウクラゲが結構いた。これを展示すればお客様が喜んで くれるだろう。

アカクラゲも数匹持ち帰ったが、小魚にでもつつかれたのか傘が痛んでいたり、口腕が無いものが多い。これは展示には向かな いから繁殖に使おう。魚ではなくたってなんでも捕まえるという事は楽しいものだ。さっきより気分がよくなった。これで1週間はいい気持ちで仕事ができる。

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交通渋滞も悪くない

今日(5月4日)は押しかける車が気になって、小雨の降る中離れたところにある駐車場まで3度見に行った。3度目は午後になっていたが水族館につながる道は渋滞を起こしていた。

先頭は水産高校や、水産試験場の建物が有ってよく見えないが、港を越して1kmはつながっているだろう。このところ5月の連休は一日に5千人以上の入館者が有る。こうなると駐車所の少ないここはたちまち一帯が渋滞を起こしてしまう。

車を見ながら胸に去来するのは、「申し訳ないな」との思いの他にもう一つある。わずか10数年前までには倒産の危機にさらされて、訪れる車も少なく我が加茂水族館はさびしい姿だったのである。

その思いが有るから何とかここまで復活して、渋滞する程も多くの車が来てくれたことが兎に角嬉しいのである。出会う近所の人にも「迷惑をかけてすみません」と言いながら、ひとりでに腹の底から笑顔が浮かんでくる。

加 茂は深山幽谷が海に突っ込んだような地形になっている関係上、海岸に開けた土地が全く無い。作ろうにも作れずに不足している駐車場のせいもあるが、この小 さな水族館はせいぜい入っても4千人が良いところである。それ以上入ると身動きがままならず、それこそ館内が大渋滞を起こすことになる。

渋 滞を我慢してやっと受付に来たものの順番待ちが長々と並んでいて待たされ、中に入ってもクラゲの展示にたどり着くのがまた大変。サーいよいよクラゲを見る かと思えば、そこでまた順番待ちになる。クラゲの水槽を目前に順番を待っている行列が、ウミガメの水槽前から外に出て階段を上がってウミネコの餌付け付近 までつながっていた。

時々「何でこんなに入れるのですか、何も見られないじゃないですか」「あなた先に立って案内しなさい」としかられる ことが有る。「ならば貴方は入らなくてもいいのですか」と喉まで出かけるが、ぐっと飲み込んで「イヤーどうも済みません、今日が一年で一番混む日ですか らー、どうもどうも」と言って勘弁してもらう。

それにしても今日の混みようはすごかった。受付で入場券を買う人が長々と繋がって灯台の下の階段まで行ってさらに折れ曲がっていた。こんなことは48年の歴史でもなかったことだ。

館 長の仕事の大半は電話番と相場が決まっている。渋滞に巻き込まれてイライラしている客からの時もある。「この渋滞は何なのですか、水族館に入る車なら何で もっとちゃんと誘導しないのですか」「いや済みません今日と明日は一年中で一番混む日なものですからどうにもなりません」「待たせるなら待たせるでちゃん と何十分かかるのか知らせろ、このばかやろー」

「俺は大山のすし屋だが注文のものを届けに今泉まで行ったら40分かかった」「いつもなら5分で行けるのだ、繁盛しているからといい気になるな」という電話もあった。

唯々謝る他無かったが、こっちだって結構つらいものが有る。ここは市の施設であるのだ、何とか駐車場の工面をしてくれと言いたくもなる。 クラゲの人気もさることながら、タイミングよく4月の7日にギネスブックに「クラゲの展示種類数世界一」が認定された。このニュースが日本中を駆け巡ったから、遠くからも車を飛ばして見に来てくれたのだろう。

小雨の中、受付の順番をじっと待つお客様に申し訳ない気持ちが募る。あと2年で新しい水族館が出来ます、その時にはもっとスムースにお迎えできるようにしますので、今しばらくのご辛抱を・・・。

館長想い出語り 3

物心も付かない子供の頃から親に本を読んで貰って眠りに付いていた。本の題名は皆忘れてしまったが、波乱のヒーローが繰り返し訪れる数々の苦労や強敵を乗り越えて思いを遂げる・・・簡単に言えばそんな物語だった。

記憶に残る物語は内容こそ違え、筋書きは似たり寄ったりで共通している。物語は波乱に満ちるほどいい。相手が大きくて強いほど引き込まれる。どん底は深ければ深いほど乗り越えたときのヒーローが光り輝いてくるし、聞くほうも面白い。

そう思ってここの経営を振り返ると、実はそこらにある私の好きな本よりも、よほど男の血を湧かせるストーリーがこの加茂水族館には有った。

別にそうなりたくてなった訳でもなく、その時々に訪れる周りの状況が自然に造り上げたと言っていい。その全ての歴史の中心に私が居たのだから語る資格はあるということだろう。

取って置きの話を一つ披露することにする。平成7年ごろだと思うが水族館業界をよく知る、いわばこの道のプロがお忍びで尋ねてきたことがあった。その男の目的は「日本中の普段着の水族館」を訪ねて歩いて、あとで紹介する本を書こうというものだった。

この男は特別意地悪でも、私に恨みが有ったわけでもない。実に正直なこの道の知識に長けたいい男である。有名な水族館の副館長という職を捨てて独立し、いまはプロデューサーとして活躍している水族館を知り尽くした専門家である。

彼とは恨んだり恨まれたりしているわけではないので、名前を挙げても別に怒られるという事もないであろう、ということで実名を書くことにする。その人物は中村元といって当時は三重県にある世界有数の施設として知られていた、鳥羽水族館の副館長として勤務していた。

そして各地の水族館を見てくるたびに自分のホームページに、その水族館を紹介する文とランク付けがしてあった。此れに我が加茂水族館も載ったのである。

色々な水族館が紹介されてランクがつけられている。その中に「どこと言って取るところが無い、なくてもいい水族館だ、こんな所にもラッコがいた」と書いてあった。

そしてランクから外れたところに印が付けられていた。余りのみすぼらしさに3段階あったランクの中に入れる事が出来なかったらしい。

水族館のプロ中のプロから「無くても良い」とのお墨付きを戴いてしまったのである

こんな水族館は他にはなかったので、とにかく日本に70ほどあった協会加盟の水族館の中で、最低の評価を受けたことになる。

このことを知って腹が立つ前に、情けないがその様な事は自分でも重々分かっていたことだったから、「いやこの通りどうしようもない水族館だ。あの男うまいこと書いたものだ」と納得した。

「こ うなったのも元はと言えば、遣りたいことはすべて封じて、ここで稼いだ金をみな持っていった本社が悪いのだ、おまけに大きな借金を背負わせて『金返せ、金 返せ』と迫られて、壊れた所も直せずに廃屋のようにみすぼらしくなったまま、無理やり経営させられたそのせいで、こうなったのではないか。」

「俺の家屋敷を担保に保証人にさせて、本社が銀行に多額の借金もしていたし、その上東京の親会社に借金に行けばいつも難癖を付けられて、金額を値切られたり計画変更をさせられたり、ちゃんと仕事をさせてくれなかったじゃ無いか。」

こんな思いがいつも胸の中を渦巻いていた。頭に去来するのは「言い訳、グチ、悪口、悔しさ」で心は真っ暗だった。

此れが「昔流行ったやくざ映画の場面」だったら、此れでもか此れでもかと無理難題に嫌がらせされ、寄ってたかって殴られ蹴飛ばされ、耐えに耐えているヒーロー高倉健さんか、鶴田浩二さんといったところだろ。

いらないと評されたのが平成7年ごろだと思うので、その2年後の平成9年にとうとう入館者が10万人を割って9万人ほどに減り、いよいよ「苦労の経営も此れまでだな」とわたしの口からもついつい洩れていた。

自分で借金を背負っての倒産はただ職を失うだけではない、大きな代償を払わせられることを意味していた。

内から見ても外から見ても、誰しも「加茂水族館の運命は窮まった」と見えただろう。しかしここから反転攻勢に出るという離れ業を成し遂げたのだから、世の中何が幸いするか分からない。

クラゲという得難い生き物に出会うという偶然から、わずかずつでは有ったが入館者が回復しだし、思いがけない応援などの後押しが有って業績は回復した。

ク ラゲという限られた分野ではあったが、あれよあれよという間に日本一、そして世界一の座にと駆け上がり、古賀賞という「業界最高の賞」を受け、入館者もど ん底時の2.4倍に増加した。そしてとうとうオープン当初の賑わいを越えて、45年ぶりに過去最高を記録するまでに回復することが出来た。
これぞ正に浪曲界の天才と評された「広沢虎造のだみ声」が語る「侠客、国定忠治の世界」じゃないか。苦境のヒーローが、憎き悪代官を叩きのめして地域の人たちを苦境から救い、やんやの喝采を浴びる・・・こんなことを髣髴とさせるように思うのだが、如何。

平成9年に有った幻の水族館建設計画

平成9年というとまず私の頭に浮かぶのは「どん底でクラゲに出会った年」だ。しかしその大きな出来事に隠れたもう一つの書き残しておかなければならないことが有る。

あのころ、ここの長い歴史の中でも最も入館者が少ない時期で、館長である私も倒産という無言の圧力にいつも押しつぶされそうになっていた。築30年を超えていたので入館者の減少はそのせいであり、この難局を乗り切るのは新水族館の建設以外にはないと思っていた。

人口が少なく交通の便もよくはないし、観光客とて少ない庄内地方では何十億掛かるか分からない水族館の建設は、民間の仕事としてはとても採算が取れるとは思えず、鶴岡市にお願いする他無く折に触れては出かけて行き何度となくお願いしていた。

暖簾に腕押しのようなやり取りばかり何年続いたことか、しかしそのような中で実現すると思えた一時期が有り、それが平成8年に検討会が始まり9年にまとめた「水族館改築基本計画」であった。

市の音頭取りで関係する観光課と企画調整課、県、コンサルタントの大建設計、そして民間の施設だった庄内浜加茂水族館からは館長の私と飼育係の奥泉が参加した。

前もって市が1500万円の予算で古くなった加茂水族館を、酒田市の日本メンテによる耐震診断をし、現在の基準には到底及ばず地震の際には危険な状態であると言う結論を出してあった。

その結論に基づいて3つの案が出されそれぞれ真剣な話し合いが続けられた。

1つは今使っている建物を現在の耐震基準に合った強度に補強して使い続ける
2つ目は補強した建物に増築をし魅力アップして使う
3つ目は移転新築する

この時初めて真剣に新しい水族館を建てる検討をした。あの時それまで考えていた様々な提案をした。メインは「鱈場と呼ばれる水深200mの深さの漁場に生息する魚の展示」鱈場の名前を使って庄内浜に水揚げされる魚類を展示することを提案した。

鱈や、イシナギ、ホッケを群泳させたいと考えたのだが、提案しながら思ったのは北の海に生息する魚はいずれも地味な色彩のものばかりであった、思い描くすべての魚が見た目の魅力に欠けている「これではたしてお客様は来てくれるだろうか?」「たぶん大した効果はないだろう」という思いに至る。

ならば飛島には暖流が直接流れていて、時々色とりどりの熱帯性の魚まで現れるそれを入れたら多少は見栄えがするだろうと、苦し紛れに「飛島の大水槽」の案まで出された。もうこうなったら庄内浜の魚類を展示すると言う理念はどこにもなくなる。「どうしようも無いなー」と思ったが3つ目の案に盛り込まれた。

この時は自分が情けなかった。これまで長い間市に働きかけて「水族館を建ててくれ」とお願いしてきたが、いざとなった時にこれと言った自信を持てる提案が出来なかった自分の力のなさに愕然とさせられた。

たとえば何か「これという目玉」を中心に据えた水族館を建てれば、遠くからも多くの方が足を運んでくれるだろうと言う思いが有ったが、その目玉が出てこなかった。そして自信の持てないままに纏められたのが平成9年の「水族館改築基本計画」であった。

このみじめな思いが大きな教訓になった。長く続いた不況の中でも積極的に前に出て、多くの経験を積むべきだと悟った。丁度その年にクラゲと出会うと言う偶然が重なり、毎年拡大に次ぐ拡大をし展示種類数を増やしていった。

自信が持てない提案をしたと言う経験が無かったら、果たして貧乏の極みの中であれほど積極的な考えを持つことが出来ただろうか。そう思うとあの時の経験はタイミングと言いショックの大きさと言い、クラゲで立ち直る前奏曲のように思える。

46年は夢の如し -車いすの道-

この頃どこに行っても障害者に対する配慮は行き渡って不自由な思いをさせることは殆ど無いが、ここ加茂水族館はそうはなっていない。昭和39年の建物がいまだに使われている関係上、とても配慮がされているとはいいがたい。

入り口の階段にスロープをつけたり、トイレを障害者用に改造したりしてみたがその辺が限界であった。

何とかどこか改造して、小さくてもいいからエレベーターでも取り付ける余地はないか、専門の業者さんに来てもらい散々調べてみての結論は、どこにもそんな余地はないし構造的にも不可能ということだった。

以 前と違って障害者のかたも施設だけではなく、家庭からも一般の人と同じように普通に入館されることが多くなった。車椅子の方もクラゲが目当てでやってくる ので、せっかく世界一にまでになったクラゲを何とか見ていただきたい。3人がかりで車椅子ごと持ち上げて、階段を下りてゆく姿を見るのは忍びなかった。

何 とか車椅子のまま下の階に行けるように出来ないものか、仕方なしに思いついたのは「外に出れば建物を回るようにして下の階に降りてゆく作業用の車道が有 る、これを整備して車椅子の方でもクラゲやアシカショウを見ることが出来るようにしたら、喜ばれそうだ。」そう思ってすぐさま多少の手を加えて使えるよう にした。

大いに喜ばれ利用されていたが、あるとき障害者の団体を案内してきた女性が「こんな危険な所を通らせるんですか、市の施設なのになんですか、全く配慮がされていない」とこっぴどく怒られた。

確かに云われないまでも分かっていたが、坂が急で不安になる所があった「しかしそげに怒らなくても…」と口に出そうになった。

車椅子が下りてゆく道の、灯台側にそびえる岩山は元々切り立っていて建物との隙間は僅かしかなかった。

私が働き始めた昭和41年には、もっと幅が狭く車が通れる余地は無く、リヤカーが通れるだけの実に狭いものだった。

あの頃水族館に車は無かったのである。毎日アシカやアザラシ、魚類に与える餌は約1km離れた所にあった漁協の冷凍庫まで、職員がリヤカーを引いて運びに行っていたのである。

翌年に初めての車が配属された。日産のセドリックバンであった。

あれから切り立った岩山は年を重ねるごとに、風雨に晒され少しずつ崩れて何時の間にかリヤカー道は、車が通れる幅に広がった。

やはり46年という年月は、短くなかったということだ。 そしてこの裏道を整備して、曲がりなりにも車椅子の方が1階に降りて行けるようになった。障害有る方もアシカショウやクラゲの展示を見ることが出来るようになった。

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俺だって応援している「なでしこジャパン」

昨夜はテレビで女子サッカー「アルガルベ杯」の決勝を応援していて12時ごろまでも起きていた。

眠い目をこすりながらいつもより3時間も粘ったことになる。60歳を迎えるころから早く寝るのが癖になり、ふつうは9時、早ければ夜8時になると寝る習慣がついている。12時というのは年に何回かしか無い珍しい事である。

しかし今の女子サッカーは面白い。めったに負けることがないから応援のし甲斐もある。なんてったってワールドカップのあの晴れ姿は日本中を湧き立たせてくれた。キックオフの前に両群が整列する姿を見れば体の大きさの違いに「あれで本当に大丈夫か」と心配になるくらい小さく細く貧弱に見えてしまう。

ハラハラドキドキを乗り越えて小がよく大を制してやっつけてしまうから、判官贔屓の日本人にはたまらない。我が家ではワールドカップの決勝戦は録画してあり、繰り返し見たが先が分かっているのにその度に感動して涙が流れた。私が特に義理と人情に弱い性格だからとは言えない。あれを見て胸を震わせない人がいたらそれは感情のない人だろう。

その感動が私を動かして、昨年5月に静岡県のある水族館からきたカリフォルニアアシカに、「なでしこ」と名付けさせて頂いた。千数百通あった応募の中から迷わずこれだと決めた。このアシカがすっかり成長して芸達者になり、人気者になっている。

首には背番号10のブルーのユニフォームをつけて、サッカーボールを頭に載せたりキャッチしたりと実に面白い。見入る観客は、沢さんの活躍の記憶と重なり、やんやの喝さいを送ってくれる。館長だけではない、加茂水族館のアシカはなでしこジャパンを応援している。

なでしこジャパンの佐々木監督は我が山形県の尾花沢市出身でもある。アルガルべ杯が始まる直前だったがアシカのユニフォーム姿と、館長の首にユニフォームを巻いた姿を写真にとって、佐々木監督にお送りした。

ドイツには惜しいところで敗れたが大柄な白人の選手を相手に堂々の2位に入ったのはここのアシカのなでしこちゃんの応援が有ったからと思いたいものだ。

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