記事一覧: 旧人情話

バンドリは冬の月夜に撃つ その1

57年前の高校時代にやった鉄砲うちの話を始めたら、書いている自分が面白くなって止まらなくなった感が有る。

今日はバンドリことムササビを撃つ話をしてみたいと思う。こんな事をしたことが有るのはごく限られた人だし、もともと夜に鉄砲を撃つのは禁じられているので表立ってやるわけには行かない。

いまどきムササビなんか捕まえたって使いようも無いから、関心を持つのは動物の研究者ぐらいなものだろう。今となってはすっかり貴重になったムササビの捕まえ方を書き残すのもいいのじゃないか。

今身近なところにどれほどのブナ林が残っているものだろうか。よほど奥か限られたところだけになってしまった。その主たる原因は戦後に国が貧乏して国有林の木を切って売り、国家財政を潤していた時代が有ってせっせとブナが切られてしまったからだ。

ムササビはブナの原生林が生息地であった。私が高校時代だった昭和30年から3年間は、学校を取り囲む景色はみな人の手が付かない原生林でみごとなものだった。

そこに道路を作りブナや楢を切り倒して、トラックで運び出していたがまだそれは初期の段階で、山が丸裸にされるのはもう少し後の時代になってからだ。

現在の独立学園

現在の独立学園

 

高校2年の11月末のある土曜日のことだった。地元から通ってくる同級生が紙切れを手渡した。それは親父さんからの手紙で「明日バンドリ撃ちに良いようだから、今日から来て泊まれ」と書いてあった。

この様なメモの連絡は時々あった。「鉄砲うちの誘い」であったり「マミ(アナグマ)を捕まえたから食べに来い」だったり「稲背負いに来い」だったりその時々で様々だった。

翌日はいい天気だった。日中は何をしたか記憶にないが夜になって腹を満たし、腹に弾帯を巻いて手には鉄砲を持って真っ暗になった外に踏み出した。いつものように親父さんは私に鉄砲を持たせてくれた。

今日は「オギュウタから狐屋敷にゆく」と云った。ブナの原生林には名前が付けられていた。ムササビは完全な夜行性で、日中は木の穴に隠れている。夜になると出てきてブナや楢の大木に上り、細い枝の先の表皮をかじって食べている。

本当はもっと居そうな場所もあるのだが、夜に山中を自由に歩くことは出来ないので、山道を歩きながら両側に生えているブナの木を見ながら探す他なかったのである。

その日は丸い月が出て雲が無く煌々と月の光が地面を明るくしていた。歩くには良かったがムササビを探すには条件が悪かった。月の下にはスクリーン代わりの白い薄雲が無ければ、下から見上げる目に20m上の木の枝の先は良く見えないのだ。

かさかさと歩くたびに枯れ落ちた木の葉が鳴った。時々立ち止まって耳を澄ましたが周囲は静かで何の音もしなかった。耳鳴りの音しか聞こえなかったから矢張り音はなかったのだろう。

二人で探したが狐屋敷まで行ってもムササビの姿はなかった。あきらめて帰ってきたがオギュウタの林を抜けようとしたところに、太い楢の木が有って枝の先ではなく途中の幹のあたりに2匹の獣が動いていた。

いたぞ!と親父さんの声が有って、すぐに鉄砲を構えて1発撃ったが当たらない。弾を詰め替えて2発目を撃ったら当たったらしくどさっと音を立ててヤブの中に落ちてきた。

それを見たとき嬉しさのあまり、藪に走り込んで落ちたムササビをつかんだ。その時後ろから親父さんの声がした。「何でもう1匹いたのに撃たなかったのだ。」
いや全くその通りだった。

山に入ったら1匹でも多くの獲物を捕るのが鉄砲を持つ者の仕事だった。拾ったムササビをぶら下げながら返す言葉が無かった。(続く)

 

25万人入ったぞ~!

この1月3日に今年の入館者が25万人に達した。その節目に訪れたのは子供を連れた若い夫婦と、そのご両親と云う新春にふさわしい温かい雰囲気の家族だった。

IMG_0378-800x533-600x400

 

 

例年以上の寒さと雪が災いしているが、このまま3月末まで順調に経過すれば27万人に達しようとする程の勢いが続いている。

取材に来ていた新聞社やテレビ局に、「今の感想は?」と聞かれたがこれもとても一言では気持ちを語ることは出来ない。長い苦しい時代が有ってクラゲに出会って何とか立て直すことが出来て今が有るのは間違いない。

一番入館者が少ない年は9万人まで落ち込んだから、25万人という数字は目標にすらできなかった雲の上のと言えばいいのか、幻のまた幻のと言えばいいのかとにかく不可能な数字であった。

とうとうその天井を突き破ったことになる。

今年そこまで伸ばせたその源は、ギネスにクラゲの展示種類数が世界一であると認定されたことだったが、ギネスに申請できたのも11年前に鶴岡市に買い戻されてからの躍進が有ったればこそだったと思う。

普通ならこうだろう。市が民間から買収した施設が有ったとしたら、市の制度に精通した者を送り込んでトップに据えて、法令と条例と、先例などにきちんと従った経営をさせようとする。

市の制度はお金を稼ぐという経営を前提としていない。家計簿のように入ってくる金が決まっていて、それをいかに使うかという事から成り立っている。そのまま現場に当てはめたら仕事はうまく回らなくなり、時間が掛かり活力は失われてしまう。この辺の事は今更云う必要もなくどなたも知っていることだ。

しかし11年前買い取られてみたら誰も送り込まれず、館長はじめそれまでの職員をそのまま同じように仕事をさせてくれた。中で働く者は長い民間時代の感覚そのままに「結果を最大の目標に」して頑張ることが出来た。

市長は私に「村上はん(さん)、誰の言う事も聞かなくてもいい。水族館の利益は誰にも使うなと言ってある。自分の思うようにやっても良いぞ」と言ってくれた。

この言葉は重い。トップがお前の考えで自由に仕事をしろ!と言ってくれるなんて民間だってそうは無い事だ、何が嬉しいたって心底信用されること程男を震え立たせる言葉はない。

市長は平成4年に秋篠宮さまが来館されると決まった時も、「あちこち直すのに金が要るだろう」と、改築資金の一部を援助してくれたり、クラゲに特化する際も貧乏で職員を増やすことが出来なかった私に、人件費を補助してくれたりといつも心からの配慮をしてくれた。

そして平成14年とうとう老朽、弱小、貧乏水族館を市に買い戻してくれた。この決断だって財政難の中当然反対の声が有ったであろう。ご本人も多くの逡巡が有っての末だったろう。こんな経過が有ってその上での有り難い言葉だった。「市長を困らせるわけには行かない、皆で頑張って実績を上げよう」と声を掛け合って努力してきた。

人の動かし方も多くの方法が有る。今テレビをにぎわしている大阪の何とかという高校では体罰で指導して問題を起こしたが、本当は信用されること程大きな効果を生むことは無いと思う。引退してもう3年以上になるがときには電話をくれることが有る。

「村上はん、又新聞さ出っだけぞ。」ここの職員を今なお心にとめていてくれる様だ。報道陣の質問を受けてこんな事を思い出した、あの市長だけではない多くの人の支えが有っての25万人達成だった。

24278528dc6f7f8751ec10641ddc911e-533x400

 

バンドリは冬の月夜に撃つ その2

表題は冬の話になっているが、書き出しはまだ雪の降る前の月夜から始まってしまった。前にも書いたが夜行性の獣を追って山を走り回るのは人間には不可能な事で、ムササビにしても山道を歩いている間に偶然に出会う事を願う他ない。

そこで本格的に猟をするのは、自由に歩き回ることが出来る雪が深く積もった冬のさなかになる。あれも確か高校二年の冬だったと思う。あの日も天気は素晴らしくいい日でかんじきを履いて、親父さんと一日中ウサギを追って歩き回った。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

 

雪もあまり深くなく歩きやすかった。ちょっとした杉の林や、斜面に生えた雑木の林を交代で追い役と撃ち手になりながら、ウサギを撃って過ごした。

山のいたるところに足跡がついていても、思うほど多くはいないのかいつもそんなには捕れなくてせいぜい2~3匹だった。

捕れればすぐに腹を裂いて内臓を捨てる。こうしないと匂いがきつくなって肉の味が落ちるのである。

快晴の空が次第に白い薄雲が張ってきて「これはバンドリ撃ちにちょうどいい、夜また山に入ろう」と親父さんが言った。私も少し山を甘く見ていた。いくら若いと言ってもウサギを追って一日中歩き回って、さらにまた夜もでは疲れ果ててうごけなくなる。

しかしバンドリ撃ちの誘惑には勝てなかった。一度戻って腹いっぱい食べて暗くなってまた山に入っていった。ゆっくりゆっくり親父さんの踏み跡をたどってオギュウタのブナ原生林に差し掛かった時、頭上からぞっ!と背筋が寒くなるような声が聞こえてきた。

「女がすすり泣く」と言えばいいのか、「か細い笛のような」と言えばいいのか、この世に幽霊が居たらこんな声を出すのではないかと思える、ヒュルルルルルーと身を震えさす声だった。

ぞっ!として立ちすくむと親父さんが私の名を呼んで「バンドリがいた」と云った。「この声はバンドリで人が近づいたりすると警戒してなく声だ」と云った。

見上げるとそこいらにはまだブナの大木は生えていなく、10mぐらいの背の低い木が枝を広げて二人の頭上まで伸びていた。

その木の上に何かが黒い塊となって見えた。「良く見れよ、月に透かし見ればふわふわとした毛が見えるものだ。」「毛が無いのは雪の塊だ。」細い枝の先にしがみついてバンドリがいた。

まず親父さんが撃った。「いつもこんな入口には居ないんだが、今日はいいかもしれない」と親父さんが言った。

更に奥に入って行くと見事なブナの林になる。みな高さが20m以上も有ってなん百年たったのか太い立派な木であった。人が植えた木ならば整然と同じような間隔でブナの木が立っているはずだが、原生林の木はそんなに間隔が近くないし距離もバラバラだった。

大木となると隣の木まで50m~100m、200mも離れていることも珍しくない。今は雪の下に隠れて見えないが間にはびっしりと背の低い色々な木が生えて森を作っている。探しながら行くと、1本のブナに4~5匹もバンドリが取り付いていた。

雪の上に尻をおろして上を見上げて狙いを付けて1発撃った。しかしそのままだった。また1発撃ってみた。これも当たらなかったようだ。何発目か撃ったときやっと1匹落ちてきた。

やれ嬉しや、やっと当たったか良かったと思ったら、落ちると思ったバンドリが、雪の上すれすれを飛んで行ってしまった。矢張り夜に鉄砲を撃つと言うのは難しい。狙いを定めたつもりでも筒先が見えないのだから、どこか違う方角を狙ってしまうのだろう。

親父さんが私に代わって撃って1匹捕まえた。そして飛んで逃げた奴を追いかけた。150mもかんじきを履いたまま走った。逃げた先にもブナの大木が有って根元にバンドリが着地した足跡が付いていた。見上げる20m上に塊が見える。さっきの奴だろう。

ここでやっと私が1匹撃ち落とした。さらに行くとブナがみな若く木も混んでいて高さが15mほどと低くなっていた。先に行った親父さんが1匹落として拾いに行ったところ、死んだと思ったバンドリが木に這い上がった。

それを見た親父さんが筒先でたたいて落そうとした時に、誤って引き金を引いてしまった。ドカンと音がして離れてみていた私の眼に筒先の赤い火が見えた。弾は私めがけて飛んできて横に生えていたブナの幹にあたった。

親父さんの切羽詰まった声がした。「おい大丈夫か!」鉄砲だろうが大砲だろうが当たらなければどおって言うことは無い。「何でもねえー」と云ったがまた親父さんの声がした。「本当だか、当たらなかったか。」親父さんはこの時本当に私を撃ってしまったと思ったと後で話してくれた。

いつもならこんな失敗はしない人なのだが、矢張り疲れがそうさせたのだろう。皆で5匹か6匹のバンドリを捕まえたところで、弾が無くなった。私が下手なものだから当たらないままにやたらと撃ち過ぎたせいだった。上手に撃っていればあと4~5匹は多く捕れたと思う。

二人で分けて背負って帰ってきたが、どっと疲れが出て疲労困ぱいだった。いつの間にか腹が減っていた。力が抜けてボーっとして、ただ惰性で足を進めた。

私にはいまどこに居るのかさえわからなかった。わずか雪にかんじきが引っかかっては倒れ、又倒れ夢遊病者のように歩いていた。疲れてはいたが体は暖かく眠く、このまま座り込んで眠ったらさぞかし気持ちが良いだろうと思った。

そのまま眠れば実に「安らかに天国に行ける」、あの気持ちよさは「どんな宗教や悟り」も敵わないだろう。死にたくなければ空腹と眠さを我慢して歩く他なかった。

親父さんの家を見下ろす裏山まで来て、親父さんは灯りを見ながら「あそこまで駕篭に載せて連れて行ってくれれば1万円やる」と云った。今だったらさしずめ20万~30万円という所だろう。

疲れを知らない人だったがさすがに、昼も夜も鉄砲うちでは参ってしまったようだった。私は黙って聞いていた。声すら出ないほど疲れ切っていたからだ。

バンドリには少しだが脂がのっていて、木の匂いがするが結構うまいものだった。

毛皮は紙のように薄く使い物にならない。身も骨から剥がすほど多くはないので骨ごと鉈でたたき切って鍋に入れ、野菜と味噌で煮るだけだった。骨付きの身は両手で持って「骨かじり」と言って歯でむしり取って食べる。これがまた楽しみであった。

山の肉鍋に必ず入れるものが有った。それは潰した大豆で、木の切り株の上で金槌で1粒1粒たたいてつぶす。左手に大豆を握って1粒乗せてはたたいてつぶした。

それは面倒な作業で、幾ら潰しても大した量にはならなかった。

73歳になった今でも月夜に白い雲がかかっていれば、バンドリ撃ちを思い出す。

 

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その3

高校も2年生になると、土曜日には鉄砲を貸してくれる親父さんの家に泊まる日が多くなっていた。そして日曜日に一緒に山に入るのである。2月のある朝親父さんと外に出てみると一晩で1mもの雪が積もっていた。この日曜日にウサギ撃ちに行こうと決めていた。

前の晩に囲炉裏を囲んで、これまでに山であったいろんな鉄砲うちの場面を思い出しては話し合って盛り上がり、同じ話を何度繰り返しても面白かった。親父さんは話をしながら鉄砲と「空になった薬きょう」を取り出した。

「真鍮の空の薬きょう」から雷管を抜いて、新しい雷管を詰めて今度は火薬を小さな柄杓ではかって入れて厚紙で仕切りをし、その上に鉛のバラ玉を詰めた。

この作業も明日鉄砲うちに行くと言う楽しさを大きくしてくれた。最後に鉛のバラ弾をいれ押さえた厚紙の隙間にろうそくで防水すれば1発出来上がりであった。

出来たものから弾帯に詰めてゆく。一番左の端には散弾ではなく1発弾を入れておく。万が一クマに出会った時の用心のためだった。そして右の端には空の薬きょうを差しておく。これは笛代わりに吹いて合図に使う為だった。

親父さんの鉄砲は口径が24番で今クレー射撃などに使われている銃の半分の口径であった。連発銃ではなく1発撃つごとに弾を詰め替えなければ次を撃つことが出来ない。

逃げた獲物を前にして弾を詰め替えるのは、あわてて手が震え時間が掛かる。次を撃とうと顔を上げたときには逃げられた後だったと言うのがほとんどだったが、しかしこれも慣れで落ち着いて素早くやれば、2発目を撃って仕留めることは出来るものだった。

4mもの積雪に埋もれた独立学園

4mもの積雪に埋もれた独立学園

 

雪は深かったが風もなく穏やかで諦めることは出来なかったので、田んぼを挟んで向かいのおやじさんを誘って鉄砲を2丁、私を加えて野次馬を3~4人交えて山に入った。

集落のはずれにはちょっとした沢が流れていた。いつも猟に入るにはその沢に添って先頭に鉄砲を持つものを立てて、雪を踏みしめながらゆっくりと歩いて行く。

沢には多くは無いがいつも水が流れていたので、ところどころが雪が融けて大きな穴となり、下から笹や柴木が顔を出していた。そこにも足跡がついている。沢の中を歩くのはヤマドリで餌を求めて歩き回って、モミジの葉のような跡が入り乱れていた。

さらに行くと沢の両側が狭くなり次第にV字のようになってくる。親父さんは私に撃たせようとして先頭に立たせてくれた。「24番の鉄砲」に3号の弾を詰めて腹まである新雪を踏みながら進んでいった。

沢に口をあけた穴を通り過ぎようとした時に、バタバタと大きな羽音がしてヤマドリが逃げた。これも慣れないと羽音の大きさにただびっくりして呆然と見送ることになる。

胸に抱いていた鉄砲を構えると狙いもそこそこに引き金を引くと、まるで絵に描いたシーンのように放物線を描いてヤマドリが落ちて、雪に深く突き刺さっていた。

ヤマドリを撃つのは初めてではなかったが、これまで一度も当たったことが無い。何でか解らないがヤマドリは踏みつけられる程近くに行くまで飛びたたない。油断している所に耳元でものすごい羽音がするから撃つまもなくびっくりして見送ったことの方が多かっただろう。

幸先よくメスのヤマドリを1匹捕まえた。さらに両岸は狭くなり木々は頭上に枝を広げている。雪はますます深くなっていた。

右の斜面から雪でも転がったのかわずかなへこみが来ていた。枝から落ちた雪が急斜面を転がったのだろうと気にもせずに通り過ぎたら、後ろに居た親父さんが「これは狸の跡だ、水を飲みに往復してそれに雪が積もったのだ」と云った。

凹みと云ったって見過ごすほどの僅かなものだったし、幾ら見てもこれが狸の歩いた跡とは信じられなかった。「本当だろうか、これがかー」と云ったが、他の皆も狸だと言った。

親父さんはタヌキはどんなときにも1日に一度は水を飲まなければならないのだと言った。斜面の4~5m上を掘ってみると大きな楢の木の根元が有った。木は一度斜面に沿って倒れてから立ち上がっていて、大きく曲がったその部分に洞が有った。

狸はその穴に隠れていたのである。かわるがわる覗いてみると穴の奥に狸の尻の毛が見えていた。手の届くすぐそこに居た。「これでは近すぎる、鉄砲で撃ったら半分は吹っ飛んでしまうだろう、手を突っ込めば噛まれるし、はてさてどうしたものか。時間が掛かるが家に戻って『とら鋏』でも持ってくる他無いな。」

そう思っているといつの間にか親父さんは、細長い木の枝を鉈で切り取って持っていた。長さが1.5mも有ったろうか。太さは2~3cmぐらいの生木であった。

「これであのタヌキは捕ったようなものだ」と言ったのである。火かき棒じゃあるまいし狸を掻き出すわけには行かないだろう。訳が分からなかった。親父さんは枝の真ん中辺に膝を当てて、バリバリと半分に折り畳んだ。

そしてささくれ立った先を前にして穴に入れて、タヌキの尻にぐっと押しながら、何度も何度もねじっていた。しばらくねじっていたがそのまま手前に引くと、向こうを向いたまま狸がずるずると引き出されてきた。

随分暴れていたが、いくら逃げようとしても枝の先に絡まった毛はびくともせず、それで一件落着であった。この前の足跡を追った時も感心したが、こんな思いもつかない獲物の捕まえ方をいつこの人たちは身に着けたのかと思う。

明治や大正ではないだろう。弥生時代か縄文時代かあるいはもっと以前かも知れない。こんな人の知恵を超えた離れ業が有ったとは、矢張り自然の中で学ぶことは面白いし多くの教えが有る。

その日の夜には親父さんの家で大宴会が始まった。猟に参加したものまたしない者も、当然のように一升瓶をぶらさげて集まってきた。モロミの入ったどぶろくを飲み大きな声を出して夜遅くまで話し合った。

暗く長い冬も、「この一日だけ」は明るく楽しいストレス解消の日になった。

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その2

タヌキは人間の生活に依存している所が有る。雑食性の強みで山に雪が降って餌が無くなると、人の住む集落に降りてきて木に登って取り残しの柿やリンゴなどを食べる他に、畑のものや捨てた残飯を漁って腹を満たしている。

夜通し歩き回って餌を探して明け方になると山の寝ぐらに帰ってゆく。その足跡を追うのである。そのまま真っ直ぐに隠れ家に向かうことは無い。たどってゆくと山に入ってまずウサギの足跡にぴょんと飛び乗って、ウサギの足跡に載せて全く同じように歩く。

狸の足跡は一見すると猫と同じで見分けがつかないくらい似ている。よく見れば僅かに跡が大きいかなと思うぐらいの差だから、跡だけでは判断できない。

ここで突然狸の足跡が無くなるので初めて追う者は見失うことになる。さらに追って行くと大きく横に跳び追跡者から自分の足跡を消そうとする。これも寝ぐらが近ければの行動で読み込み済である。

しばらく行くと今度は大きな木に登り、横に張った枝の先から飛び降りて更に跡を消そうとする。こうした行動は何時身に付いたのかは知らないが、何万年もの間自分より強いものから身を守ろうとして自然と会得したのだろう。

山で狸より強いものは今は熊ぐらいだろう。明治より昔はオオカミが怖かったのだろうか。夜行性だからイヌワシやクマタカを意識はしないだろう。いや長い間一番の敵は人間に違いない。

0e8f93cf2251741d4ce57c195b400328-250x187

独立学園の校舎 – 屋根裏部屋が私の部屋で、3年間を過ごした

 

さらにつけて行くと足跡は尾根筋に出ていた。尾根には風が直接当たり新雪が飛ばされて中の固い雪だけが出ている。ここで足跡は完全に消えてしまう。

しかし矢張り狸も馬鹿なもので、ところどころにスポンスポンと踏み抜いた跡が有る。そしてちょっとした山を越えて陰の雑木林に続いていた。

一帯には数えきれないほどの木が生えていた。タヌキはその中に入って行き足跡は行ったり来たり、横切ったり何が何だか分からないほど入り乱れていた。

こうなるともうどこに居るのか、どのように追いかけて行けばいいのかさえ分からなくなる。もう追う術は絶たれたように思った。

少しうろついてみたが、立木の根元は雪が融けていて覗いても中がうかがえないほども底までも続いている。タヌキは木々すべての根元にもぐっては出てきて跡を付けていた。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

 

雪の深さは3mから4mある。すべての木の根元を掘り起こして確かめるのは不可能であった。私はギブアップであった。しかし連れて行ってくれた親父さんは「アーこれは簡単にどこに居るかわかる」と云ったのである。

この話を今年の10月獣医師さんの集まりでしたことが有った。「タヌキがどこに居るか分かる方が居ますか?」と尋ねたが、100人ほどいた中どなたの手も上がらなかった。

さらに「他の方はともかく獣医さんなら見当がつくのでは?」と付け加えたが反応は無かった。

しかし本当にあまりにも簡単に居場所を特定する方法が有ったのである。親父さんは私に「見てろ!」と言ってその辺一帯を大きく一回りした。

大きな声で狸の足跡を「出た跡、入った跡」と数えていた。一回りしてその範囲に入った跡が一つでも多ければその中に居るという事になる。矢張り足跡は入ったものが多かった。

次はどの木が一番それらしいかを見定めて、その周りを一回りした。「ここだここだ、こごさ居た」とあっという間に隠れ家は見破られてしまった。

獣でも人間でも雪に付いた足跡は進んだ方向が分かるもので、それを応用しただけのごく簡単な方法で有った。しかし人間社会に慣れてしまえばその感覚は失われてしまう。

犬や猫に家畜などを毎日扱う獣医さんでさえ、手も足も出なかったのだ。不可能と見えた最後の詰めも、山の人たちは生活の知恵として身に着けていた。私はこの時ものすごい感動を受けた。一見行き止まりに見えるこの世の出来事も、自分がそう思うだけで実は解決する方法が有るのだと、山の中で教えられた気がした。

背負ってきたシャベルで雪を掘ると木の根元の穴は岩につながっていて、穴が有った。そこに仲良く2匹の狸が隠れていた。

もう鉄砲は不要だった。先が二股になった木の枝を切り取ってきて、一人が狸の首を押さえている間に、もう一人が腹這いになってもぐりこんで足に縄を縛り付けた。

こうして2匹の狸は男どもの手におち、歓声が上がった。

狸の話はここで終わってもいいのだが、もう一つ紹介したい狸捕りの場面を思いだしたので付け加えることにする。(続く)

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その1

いまどき狸を捕まえるなどと言っても「何であんなものを・・・そこらへんに一杯居るじゃないか」といぶかしがられるかもしれないが、昔は毛皮を結構高い値で売り買いされていたし、肉も喜んで食べられていた時代もあったのである。

そんな高校時代の事を思い出して少し書いてみたくなった。昭和30年から33年までが私の高校時代だったから、もう50年以上60年に近い月日が流れたことになる。

私は不思議な縁で飯豊山の山懐にある「小さな高校」に入学できた。今は小国町に合併されたが当時は津川村と云って誠に小さな村だった。駅から8kmも奥に有ったがバスも無し足だけが頼りだった。

冬になれば4m近い雪が積もったし川添にところどころに集落が有るだけで、まさに平家の落ち武者が人里離れて住み着いたと言えばそんな感じもする寂しい所だった。

何でそんな所に高校なんか建てたのかと不思議に思うが、これがまた変わっている。津川村は国鉄の米坂線が開通する前には陸の孤島と云われ、日本一不便なところだと定評があった所だ。

だからこそ本当の教育が出来ると考えた校長が、家屋敷を売りはらって引越し、自宅がいつの間にか高校の校舎として使われて小人数の学校が出来上がっていた。とまあこんな事情が有る。

47136897b022cc868536b2729f5c3dc92-250x187

キリスト教独立学園 – ぼろぼろで納屋と間違えられそうな校舎

 

40人に満たない全校生徒で、しかも授業料は県立と同じだったから成り立つはずが無いのだが、貧乏のどん底で四苦八苦しながら続けていた。そんなとこに入学したのである。

入学式の日に校長は「勉強をするな」と云った。本当は前おきに大学受験のための・・・と付いていたがそれは切り捨てた。これは有り難かった。何より嫌いな勉強から解放されたのである。

堂々と3年間授業以外の勉強は1度もしなかった。「嘘をつくな、たばこを吸うな、酒は飲むな」と約束させられた他には何も制約はなかった。落ちこぼれだった中学時代が砂をかむような日々で、今度は毎日が日曜日のような嬉しさだった。

冬になれば皆はスキーをしたが私は人と同じことが嫌いで、せっかく山奥に来たんだからと、鉄砲を撃ってはウサギや鳥を捕まえて食べていた。いつも腹が減っていたしまた楽しかったからだ。

高校生が鉄砲を撃つなど考えるまでもなく禁じられていたが、お巡りさんが居るわけでもなし、山の中だから猟期以外にだれが鉄砲を撃とうが、気にする人とていなかった。

知り合いの村のおやじさんに「鉄砲と弾を借してくれー」と言えば貸してくれた。そっと寮の部屋に隠しておいて、日曜日になるとウサギ撃ちに出かけた。

山の稜線に先回りして鉄砲を構えて下級生が追い上げるウサギを撃った。走って逃げる山ウサギをよく狙って撃ってもなかなか当たらない物だった。下手だったがそれ以上に鉄砲の口径が小さかったことも有ったろう。

魚屋も、勿論肉屋も無いし山の中でのご馳走は獣の肉しかない時代だった。どんな獲物も大喜びで歓迎された。

熊とか、むじな(アナグマ)、ヤマドリは別格の獲物でそう簡単に捕れるものではなく、めったに口に入ることは無かった。次の獲物は狸であった。これもそう簡単には捕れなかったが捕れれば近所のおやじ達が皆寄ってきて、どぶろくを飲みながらの大宴会になった。

今食べろと言われてもあの獣臭さはどうにも我慢が出来ないが、あのころはそんな思いをした記憶がない。白く厚い脂肪層が有って牛肉の様だと思って食べたものである。

いよいよ本題に入るが、タヌキの足跡はいたるところに付いていて、追いかければ寝ぐらにたどり着けそうに思うが、そうは行かない。深い雪の中を一晩で2里(8km)歩くと言われていた。

山の中をかんじきを履いて深雪を踏み固めながらとても8kmは歩けない。そこで頭を働かせ朝まで雪が降ってその後止んだ日に追いかければ、寝ぐらに帰る足跡だけが残っている。そのぐらいの距離だったら追いつけると考えた。(続く)

雨漏りには参った

先月の末(10月29日)から新水族館建設の工事が始まっている。連日目の前の駐車場で重機が地面を掘り返している音がやかましいくらいだ。

駐車場が狭くなり訪れるお客様にすっかり迷惑をかけている。まあこれも50年に一度の生みの苦しみの一つなのだろうから、ご勘弁いただく他無い。しかし完成するのが来年の12月ごろなので、こんな状態で1年間営業を続けることになる。これも今から苦労の種と心配でもある。

このところ特に入館者が増えたせいで、5月の連休とか夏休みには相当な混雑ぶりが予想される。この近くの空き地は全て使わせて頂いて対応するつもりだ。それでもかなり迷惑をかけてしまいそうだ。

今朝一番で工事の業者さんが、分厚く製本された工事の設計図を持ってきてくれた。これまで何度となく打ち合わせをしてきた内容だが、改めて開いてみると全ての水槽に擬岩が描かれていた。

擬岩の絵を見ているうちに何だか涙がこぼれそうになった。他の水族館では普通にある水槽内の擬岩がここ加茂水族館にはなかったのである。49年前に建てられた時に何がどうしたのかは分からないが、海水魚にも淡水魚にも、アシカやアザラシのプールにも、擬岩は取り付けて無かった。

ただの四角いコンクリートの箱が展示水槽だった。殺風景なことこの上ないとはこの事、何とかして他の水族館みたいないかにも自然らしい雰囲気の出るかっこいい擬岩が欲しかった。

擬岩のない水槽

擬岩のない水槽

 

もう30年にもなったか、昭和55年と56年だった。海水魚水槽を取り壊して作り変える工事をしたことが有った。

水槽の割に小さかったガラス窓を倍の面積にして、深さと奥行きを50%大きくする工事をした。この時に擬岩を取り付けることも計画したが、とても専門の業者をたのむだけの資金が無く、断念せざるを得なかった。

しかし何とかまがい物でもいいから取り付けたかった。知り合いの左官屋さんにお願いして、コテで薄い擬岩らしきものを作ってもらい、水槽の壁に貼り付けてみた。しかし見栄えしない上に薄く作った分ただのコンクリートの凸凹にしか見えなかった。

矢張りいかにも岩らしい色が無ければ役に立たない。色は職員で手分けして塗ってみた。やってみると色付けが予想以上に難しい事が分かった。幾ら頑張ってもそれらしい色にはならなかった。

何とか作ってみた擬岩

何とか作ってみた擬岩

 

どうにもならないままに水を張って魚を入れてしまった。以来30数年も肩身の狭い思いをしながら過ごしたことになる。あのころの思いが甦ってきて、ついつい泣きそうになってしまったと言う次第だ。本当に貧乏はしたくない。

新しい水族館に生まれ変わるのが楽しみな理由が他にもある。ここは何時頃からか雨漏りがして止めることが出来ずにいる。お客様はその気になって通路の天井を見上げれば、あちこちシミが見えるし貼り紙が剥がれている所もあるはずだ。

静かに降る雨だと漏ることは無いが、風が伴うとどこから来るのかたどりようも無い。予想だにしない所から浸みだして漏るのである。勿論それと思えるところは全て手当したが、風が強いと壁に張り付いた雨がひび割れを伝って中に浸みいり、天井に滴り落ちてくる。

edc7dc09d19c8e79f510a2b4c634b9de-350x233

 

仕方がないので天井裏で大きな漏斗で受けて配管で外に出すようにしているが、それでも毎年新しい雨漏りができて天井から落ちてくる。これが館長としては実に情けなかった。

今どき雨漏りがする水族館なんてそうある訳がない。床に何個もバケツを置いて滴る雨漏りを受けるたびに、「困ったもんだノー、クラゲで有名にはなったが雨が漏る水族館ではノー、ヤンダクなったなー。」ほんと穴が有ったら入りたい心境だった。

347971431f1434eb7d8a82f61a1dbd451-350x2331

 

擬岩が有って雨漏りのしない当たり前の水族館がつくづく有り難いと思う。

石巻市の出来事

10月の17日に宮城県の東松島市に講演のために行ってきた。「これから長い復興の苦労が続くので市民に何か元気が出る話をしてくれ」と、頼まれたのが理由だったがいざ引き受けてみてから、とんでもない事を引き受けてしまった事に気が付いた。

震災で1000人以上の死者をだし大きな被害を受けた方々に、だれがどんな話をしたところで慰めにもならないだろうことは想像に難くない。

そう思ったら断りたくなったが持ち前の優柔不断が、ずるずるとただ時を過ごしてしまい、当日が来ていた。

風邪を引いていて具合が悪かったが何とかその時間だけ元気を出して、無事講演を終えることが出来た。成功したかどうかは何とも言えないが約束を果たしたことだけは言えるであろう。

今日の人情話は講演が終わったところから始まる。終わって控室に戻ると間もなく、小学校4~5年生ぐらいの女の子と父親が訪ねてきた。聞けば隣の石巻市から来たと言う。

お父さんの語る所では「4年前に加茂水族館でゴマフアザラシの子供が2頭生まれ、名前を募集したことが有った。それに応募したところ合格して記念品としてアザラシのぬいぐるみなどをもらった。しかし津波で水没してアザラシのぬいぐるみを失ってしまった。」との事。 続きを読む

いよいよ10月、新水族館の着工の月が来た

9月も今日が最後だ。今年は真夏の暑さが9月にずれ込んだようにひどい暑さが続いた。暑い暑いと悪態を言いながら過ぎてしまえば早く感じる。そして月末の今日で今月の入館者が何名だったかが決まる。

いい加減館長と自称している私と言えども、経営を預かるという事はいつも売り上げやら、利益やらが気にかかるしがない立場にある。

9月も終わりだなー、いよいよ新水族館の建設が着工されるとぼんやり考えていたら、全く別の場面を思い出したのだから私は根っからの経営者にはなれないのかも知れない。

もう何年過ぎただろう、ある日突然思いついて3日間の休みを取った。あれが9月の28~30日だったのである。何か人様に語るような高尚な思い付きではなかった。

とにかく休みを取ってイワナ釣り三昧をしようと考えその気持ちを抑えきれなかったのである。そのきっかけになったのが「クマ」だった。神奈川県にある油壷水族館の飼育係をしている中井という男をイワナ釣りに案内して山の奥でクマに出会ったのである。

新潟県境に近い所にいい沢が有る。狙いが当たって7~8寸の食い頃サイズがジャンジャン釣れた。奥に行くほどにますます良くなる。川虫を捕る私をしり目に先に行っていた中井さんがなんだか言いながら大急ぎで戻ってきた。「くっくっく・・・」とどもっていた。

「何だでー・・・大きいのに逃げられたかー」というと、「熊が出たクマが出たびっくりして逃げてきた。」「釣っていたら後ろの藪がガサガサ云ったので見たらクマが飛び出してきた。」「もう怖くて釣りは出来ない」と言う。

逃げたクマは何でもないもんだ、大丈夫だからまた釣りをしてくれと言ったが、とても聞き入れてくれる状態ではなかった。

実は20年以上も付き合った相棒を亡くしてイワナ釣りを7年間も止めていたのである。今日も一応竿は背負っていたが釣りはせずに餌の川虫捕りをしていた。「釣り放題の宝の山」に入って途中で止めるて帰るわけには行かなかった。

中井さんが釣りしないなら仕方がない俺がやるか、「んだば俺がやって見っかー。」腕は落ちていなかった。自在に竿を操り枝を広げた沈木の間から大イワナを誘い出して釣った。

奥の滝まで約100mを釣り上がっていいのを20ぐらいも釣った。あっという間で釣りは終わった。ドウドウト落ちる滝を見上げてみれば体にさわやかな血が流れている。俺は釣りを止めれない・・・やりたいんだと悟った。

一度抑えたイワナ釣りへの気持ちも、歯止めが取れてしまえばもう止めようがなかった。むらむらと腹の底からこみ上げるイワナ釣りをしたい・・・という気持ちが噴出して、どこかで3連休を取って釣り三昧の日を過ごそうと思った。

そして鳥海山の懐にある良い景色の渓谷を思い出した。訪れる人とていない隠れ沢ではなくて「2の滝」という結構知られた景勝地である。何であそこが・・・と思われるかもしれないが、あそこの近くにニジマスやヤマメを養殖している施設があって、展示の魚が不足するとよく貰いに行っていた。

その時に1時間ほど渓谷に降りてイワナ釣りをしていたのである。見事な大岩が重なり合って急こう配で釣りあがるのは骨が折れたが、20匹前後のイワナがいつも釣れていたのを思い出したのである。

初日に行くのは2の滝と決め行ってみた。滝の上に神社が有ってその下に踏み跡が有って川に降りられる。しかしイワナって奴は滝の上は嫌うようでしばらくは釣れない。

沢に降りたら7年ぶりに釣りに来た興奮が襲ってきた。仕掛けを取り付ける手が小刻みに震えている。石を起こして川虫を捕る手にやたらと力が入る。小雨が降っていたが夢中になってイワナを釣った。

やがて雨が強くなって頭の上で「ガラガラドンドン」と雷の大音響がしたが気にならなかった。2時間かかって1の滝まで釣りあがってきた。習慣のように数は覚えているが60以上は釣ったろう・・・背中の発泡スチロールの箱にも8寸以上のいいのが20以上は入っている。

全身ずぶ濡れになって納竿した。そして翌日は更に奥の秋田県境に近い女郎沢でまた同じ数を釣った。そして3日目が来たがさすがにもうここまでだった。朝目を覚ましても釣りをしたい気持ちはどこにもなかった。

あれから10年は過ぎただろう。もう口ばかり達者な老人になってしまった。動かないこと山の如しが今の私だ。

40edca802c45c62e32f3d1b7ddb07dc3-262x350

 

川マスは大根おろしと醤油で喰うべし

毎朝のガラス拭きの仕事も長くなった。入り口は西に面していて天気次第で海風をまともに受ける。潮しぶきが付着すれば簡単には綺麗にならない。そんな日は水をたっぷり吸わせたタオルで流して、又流して3度目辺りでやっと綺麗になる。

70歳を2~3年も過ぎているが、これも運動のつもりでしているので苦になることはない。誰かが気を利かせて先に拭いてしまっていることが有る。そんなときは「誰だ、私を運動不足にして若死にさせようとしている」とからかうと、手を出さなくなる。

健康に気は使う方だと思う。甲斐犬をお供にして毎日約5kmの散歩はしているが上半身を動かすことが無いのだ。これを思いついてもう20年以上になる。今日もいつものように海水魚の水槽を拭いて回った。

8号の水槽に毎日気になる魚がいる。この水槽はたったの10tしかないが水温が下げられていて、1mを超すイシナギや頭がボールのように飛び出したコブダイ、またホッケの群れなどに混じってサクラマスが入っている。これが気になる魚の正体である。

去年の6月だったと思う。18cmほどのヤマメを入れてから日に日に成長して行く姿を眺めては、どこまで成長するのかを楽しみにしてきた。成長のスピードは実に早い。えさを追うのはどの魚も敵わない速さが有る。

あれから1年と半年が過ぎた。産卵期が近づいた今ではオスは桜色に赤く染まり全長60cm、重さは3kgほどになった。

120a20f0c855bd684a0951779eb163521-350x233

 

結露を拭いてガラス面に顔を近づけると、遠い昔が甦ってくるのである。子供のころにガラス箱や、水中メガネでのぞく向こうに銀色に白く光った川マスを見たときの興奮が再現される。だれにも話したことはないがこれが楽しみで毎日ガラスを拭いているようなものだ。

思い出も、もう遠い昔になったが昭和30年ごろの話である。夏休みになれば小学生は皆が近くの川に魚捕りに行って遊んだ。捕れる魚は鰍がほとんどを占めていた。

毎日同じところで鰍を取っているのに減った感じがしなかったので、それだけいたという事だろう。大勢が毎日わいわいがやがやとにぎやかに魚捕りに興じていたが、その中の誰かが1匹でもナマズを捕ればその者がその日のチャンピオンだった。

いわば毎日の魚とりの中で一番の獲物がナマズだったのである。中学になるとガラス箱を持つのを止めて、「ダンコメガネ」と呼んだ水中眼鏡をかけて、淵から淵へと渡り歩きながら潜ってはナマズとハヤの大きいのを取っていた。

マスは狙って捕れるほどはいなかったが、雨で増水した後とか、たまには宝くじにでも当たったように出会うことが有る。1匹でもマスを捕ればうわさが広がって行きまるで英雄にでもなったように子供たちに羨望のまなざしで見られたものだった。

サクラマスは60cm近い大きさが有ったので,ヤスで刺しても押さえつけて捕まえるだけの体力が無いと逃げられてしまう。私も小学5年ごろだったと思うが、垂れた葛のツルの下に隠れていたサクラマスを刺したことが有ったが、あっという間もなくヤスは跳ね飛ばされて逃げられてしまった。

もう62年も昔の事だが悔しかった思いと、桜色に染まったマスのよこ腹が「天然色カラー」で鮮明によみがえってくるから、逃げられたあの日の印象は強いものだったとおもう。

マスの隠れ場所は淵ごとに違っていた。土手に大きな穴が有れば深く潜っていってその中を覗いたし、柳の枝が水中に垂れ下がっていればかきわけて奥を探した。川が大きくカーブしたところには木工沈床で組まれた護岸が有った。

電信柱のような丸太で組んだ間に一抱えもある石を多数並べて詰めて組んだもので、洪水から河岸を守るためのものだった。今なら小型のテトラポットが置かれたりコンクリートで固められてしまう所だろうが、昔は自然にやさしい工法がとられていた。

殆んどの沈床は下の方の石が崩れて洞穴状になって鯉やナマズにウグイの大物など、まるで魚のアパートのようになってごちゃごちゃといた。しかし沈床の下は危険が潜んでいて潜るのに度胸が必要だった。

丸太に出ていた釘にパンツが引っかかって危うく死にそうになったとか噂が有ったし、天井のように組まれている石がいつ何時落ちて来るか分からず、危険な匂いがしたが魚がいると言う魅力には勝てなかった。

あのころ中学の1~2年にはなっていたと思うのだが、目の前に60cmもあるマスが居るとまるで1mもある巨大なキングサーモンのように見えた。手に持つヤスが急に貧弱に思えてこれで刺しても跳ね飛ばされるなー・・・と思ったものである。

鰓ぶたの所を刺して飛び掛かるようにしてマスを押さえつけた。この辺からはもう現実のものではなくなり、夢の中の出来事のような映画を見ているように意識が飛んでしまう。しかしマスがバタバタと暴れる感触が今でも腕に残っている。

はじめてマスを捕った時は嬉しさのあまり橋の上に上がって、マスを持つ手を高く上げて「ますしぇめだー、ますしぇめだー」と舞い踊った。腹の底から湧きあがるあの感動を今の子供たちにもさせてやりたいものだ。

マスが川を遡って来るのは大体田植えが済んで1番除草をする頃だった。農家が忙しい盛りだったが魚とりの好きな者は大きなガラス箱と、腕ほどもある太い木の柄の付いた「マス突きヤス」を持って川に出かけて行った。

学校から帰る頃にぶらぶらと柳の枝に2匹も3匹もマスをぶら下げて帰ってくる大人を時々見ては羨ましかった。

忙しい農作業の合間に捕ってくるマスは、早速焼いて食卓に上がった。食料の乏しかった昭和30年ごろの事だから、海から上がってくるマスは大変なご馳走だった。焼いて熱いうちに醤油をかけてダイコン下しを乗せてかぶりついた。

なぜかマスとヤマメには大根おろしがつきもので、これほどうまい魚は他にあるまいと思って食べた。

今日は9月の17日だ。ここのサクラマスもあとひと月の寿命という所か。密かな楽しみもまた次のヤマメの成長に取ってかわる。まずは健康第一ガラス拭きを続けよう。(写真は岡部夏雄氏より拝借した)

ac4459579c8e8c947c0996fc87e1eec6-350x262

 

adsense