記事一覧: 旧人情話

もうこの年になると昔の事だけがバラ色に見える

12月からの閉館もいつの間にか2か月になろうとしている。どんどん時間が過ぎて開館の日がその分近くなってゆく。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

 

11月いっぱい営業して12月1日から開館準備のための閉館に入っている。それまでの忙しさは並のものではなかった。定期的に行われる設計や運営の会議など毎日予定が入って午前も午後もいつも塞がっていたが、それに加えてアポなしの来客が多く加わってきた。

50年前の開館以来この小さな水族館には応接間が無かった。初めから事務室にお客様をお迎えするソフアーもテーブルも備えていなかったのだ。

閉館してからはもっぱらこれ幸いと押しかける来客の応接間として、レストランのテーブルと椅子を使用することにした。席数が40といささか狭かったところに入館者が増えだしたために、いつも昼時になると順番待ちの列がつながっていた。

しかし閉館してしまえば座る人とていないわけだから、応接間の無いこの水族館にとってはうってつけの打ち合わせ場所になった。話している途中で目を上げれば、向こうのテーブルに次のお客様が待っていた。

次々に替わる相手に違う話を聞きながら、74にもなった白髪頭の中は混乱して整理がつかなくなる。

新水族館のレストランと売店については市の建設責任から外して、水族館が自分で設備投資をしろとの方針だから、売り込む相手にしたら魅力あるターゲットに見えたのであろう。

同じ時間にダブってOKしてしまい待たせたことも再三ある。やはり新しい水族館がオープンするという事はただ事では済まない。開館すれば多くの客が押し寄せる人気の施設になるのが見えている。それを目当てにいろいろな職業の方が商談にやってくるのも自然な成り行きだろう。

商談だけではなく報道関係も多く来たがテレビや新聞だけではない。観光案内の雑誌とか会社の社内報も有る。他県からもラジオ放送の電話での出演依頼も来る。それに加えて館長目当てに原稿や講演の依頼もあった。

74歳になった老館長には結構きつい日々だったが、入館者が来なくなると同時に電話も減れば、館長目当ての商談も同時にうんと少なくなったのはありがたいことだ。

あまりの忙しさにいつの話だったか相手の会社名も定かではないが、どこかの警備保障さんだったと思う。自社を売り込みに来て保障だけではなく「お金の管理もお手伝いします」という話が出た。

自社とつながった何とかという機械にその日の売り上げを入れれば、機械がお札と硬貨を仕分けして金額が記録されて、そこから先は警備会社の責任で保管されるとのこと。

銀行さんが集金に来なくても、居ながらにして預金までの仕事をしてくれる仕組みらしい。
「館長さん、5月の連休やお盆の休みは銀行さんも連続して休みでしょう。その間の売り上げはいったいどうしているものです?、、」と聞かれた。「今は特別に集金に来ていただいています」「昔と違って融通を効かせてくれますよ」

と答えたが長い歴史の中では考えられないようなお金の管理もされていたことを思い出した。20年かあるいは30年も昔のことになるが昭和55年ごろだったと思う。5月の連休になると連続4日も5日も銀行さんが集金に来てくれないものだった。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

 

あの頃まだ入館者も結構多く1日の売り上げが400万円ぐらいにになった。夕方閉館して数えてみると実に多くの種類のお金がある。10円玉から50円、100円の硬貨が多く売上金額の割にはかさ張るものだった。

2日目あたりから金庫に入らなくなって、鍵のかかるロッカーに入れたりしたがドロボーならすぐにでも破られそうで何だか不安だった。日々増えてゆくお金をどこに保管するかがいくら考えても方法が見つからない。

「んだば俺がリュックに入れて背負ってゆく。家さ預かって明日またもってくる」夜は枕元に置いて寝た。4日目あたりから大きく膨らんだリュックはずっしりと重かった。
膨らんだリュックには2,000万円以上は入っていただろう。枕元に置いたからと言って安心はできないものだった。民営時代だから出来たことで、市のものになった今では売上金を何千万円も自宅に持ち帰るなんてできるはずもない。いつも思うが私の思いつくことはバカバカしいことばかりだ。

あれで何の事故もなかったのだから思い出すたびにニヤリとなる。「爽やかな一陣の風」のような温かさを感じるのは気楽な性分がそうさせるのだろう。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

 

 

オットセイ騒動記

休み明けに出た朝だった。「昨日水族館のすぐそばの磯場にアシカがいると電話があった」と報告を受けた。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

 

水族館のが逃げられたのではないかと思ったらしいが、これがアシカではなくオットセイであった。なぜ水族館の下と言えばいいのか50mも離れていない磯の中まで入ってきたのか分からないが、これほど近くに現れたのは50年来初めての出来事だった。

オットセイがこのあたりにいること自体は珍しいことではなく、ただ目に触れる事がめったに無いだけである。毎年冬には日本海を南下して佐渡沖までは来ているのでたまには死んだものが打ち上げられたりして見ることがあった。

吹雪の舞う荒れた海をどこに避難しているわけでもなく、泳ぎながら餌を捕まえ移動しているわけだから丈夫なものである。若い飼育係から報告を受けたが、話を聞きながら遠い昔を思い出して「俺も若い頃ずいぶんバカなことをしたもの」と一人笑ってしまった。

30歳くらいの若かりし頃の館長

30歳くらいの若かりし頃の館長

 

さかのぼる事41年になる。昭和47年の3月ごろだったと思うがすぐに年代がよみがえったのはオットセイ事件とともに、ここが本社のとばっちりを受けて倒産して騒動の中にいた年だったからだ。

昭和47年と言えば日本が世界中の海に自由に出かけてマグロやカニだけではなく、サケ、マスにエビやカレイなど魚を捕りまくっていた頃だと思うが、この加茂地区からも毎年3月になると船体を青色に塗られた船が何艘か、北洋にサケマスを捕りに行くために出航していった。

出航してゆく船を加茂水産高校の生徒さんが全校あげて岸壁に並んで、ブラスバンドの演奏勇ましく送り出していた。ずいぶんと勇壮なものだった。
その中の船頭さんの一人と懇意にしていた。いつだったか定かではないが「北洋にはオットセイがいっぱいいて、網を巻き上げるときに中に入って来ていくらでも捕まえる事が出来る」と言った。

お互い冗談半分だったが「それならここで飼育したいので1匹頼む」と私が言ったことも記憶にある。あの頃はまだ「海(ら)獺(っこ)、オットセイ条約」という厳しい内容の国際条約が生きていた。とにかく「ラッコもオットセイも捕まえてはいけない、死んだものを拾ってもいけない、、、」という内容であったが、そのまままかり通っていた。

なぜこんな厳しい条約が、、、、、と思われるだろうが、聞いたところによれば日本が戦争に負けて、繁殖地を持つ戦勝国(ロシア、アメリカ、カナダ)に押し付けられたのだとか、、、、それだけ日本は戦中も戦前もラッコやオットセイを捕り過ぎがあったという事でもあるのだろう。

そんな中で雑談して捕まえて来てくれ、、、と言ったのだから私もとんでもないバカだった。

そして突然例の船頭さんからの電話で「館長オットセイ1匹もって来たぞ」と連絡があった「えっまさか本当にか」と思ったが後の祭りだった。

大きな籠に入れられたオットセイは大きさが15kgほどでかわいらしかった。よく見れば肩から首を回るように深い傷が体を半周するほども見えていた。ぱっくりと口を開けた傷口は白い脂肪層よりも深くまで達していた。「これでよく生きていられるなー」と思わせるほど重症に見えた。

怪我もしているしまず預かって飼ってみるかと引き取って、赤チンキを傷口に塗って当時フンボルトペンギンが入っていたプールに収容した。

当時のペンギンプール。

当時のペンギンプール。

 

これをだれも気が付かなければ何事もなかったのだが、地元のNHKさんににすっぱ抜かれた。出勤してみたらみんなが騒いでいた。「朝、ここのオットセイが国際条約に違反して飼育されている」とNHKの全国ニュースとして流れたと言っていた。

それでは大変なことになった、もう飼育はできない海に放流するほかないと思った。私が手つかみして捕まえてそのまま海中にほおり投げてやった。大荒れの日だったが「こんな波でも泳げるものだろうか」との心配をよそにあっという間に大波を乗り越えて姿を消してしまった。
そこに職員が走って来て「館長警察が来た」と知らせてくれた。その時「捕まりたくはない逃げるほかない」と思ったから、もうどうしようもないバカだった、裏口から外に出て車に飛び乗ってどこに行くとも当てもなく逃げ出した。

逃げても仕方がないと気が付いて2時間もして戻ると警察に連れて行かれた。証拠のオットセイが居ないままでは警察も困っていたが、時には厳しくまた時にはやさしく誘うように取り調べられて、ありのまましゃべらされた。

書類送検され後日検察にまた調べられて散々怒られて、交通違反などと同じ略式の違反で3万円の罰金が科せられた。持ってきた船頭さんは5万円の罰金だった。

館長がどこに顔を出してもオットセイの話しでもちきりになった。他の報道機関も取り上げて結構大きな話題になったが、オットセイが大けがをしていたという事が幸いして、条約に違反していたという事よりもそれを保護したのだと加茂水族館を擁護する声が多く寄せられた。
後に日本動物園水族館協会から「オットセイの飼育についての通達」で国際条約に違反しないようにとの注意が来た。

すべて私の「物事を軽く見て行動を起こす」という未熟さが招いた騒動だった。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

 

昨日ここに現れたオットセイは結構な年寄りに見えた。まさかあの時私が放り投げたあいつが、新しい水族館が出来るのを祝って挨拶に来たのではあるまいな。

 

 

薄氷を踏む心境だ

雪の少ない静かな正月を迎えた。慌ただしいことは何もないこれまでで最も穏やかな元旦だった。それもそのはず12月から閉館していたせいで何末年始の混雑はなく、アシカショウやクラゲの解説もない訳だから職員も皆長くまとまった正月休みを取る事が出来た。

私は特別にお年寄りサービスという事で暮れの31日から3日まで連続して4日の休みが割り当てられた。これもここに勤め始めて以来の長さである。

50年前に鶴岡市がここに水族館を立てて以来、お盆も正月の休みも無い経営をしてきた。それが当たり前で働いていたがこうしてゆっくりと人並みに休めるのも悪くはない。

民営時代のほとんどは週に一度の宿直があって、年末の31日か元旦のどちらかを宿直をしていた時代も長く続いた。市営時代からだったが管理人さんが居て夜の見回りもしてくれていたが、せめて休日ぐらいは自宅に帰してあげたいと思い、男3人が交代で宿直をしていたという次第だった。

静かなとはいっても今年はただの正月ではない。50年に一度の大仕事がいよいよ6月に審判を受ける時がやってきたのである。元旦の朝早く目が覚めてごそごそと起きだしたがやはりいつもの朝とは感覚が違っていた。

今建設中の水族館は平成19年に私が規模と内容をこれがいいだろうと提案して、市が受け入れてくれて始まった仕事だった。詰まるところが結果責任は私にあることになる。基本計画を作成する会議から始まって、ここまで4年もかけて多くの人が協力してくれて万全の体制を引いて進めては来たがどこまで行っても心配は尽きない。

工事が2か月遅れた分がクラゲの繁殖成長計画に影を落としているし、初めての本格的なレストランは思い描いた評価が得られるだろうか、押し寄せる入館者をどのように対応すればいいのか、駐車場の不足はどうする、各部署の職員は足りるのか、宣伝は、内覧会は、外国からの招待者は・・・、下村脩先生は約束通りに来てくれるだろうか・・・・・・。みんな胸を押し潰すような心配の種だった。

外は時折吹雪が舞っていた。気温の低さが身を引き締めるのか元旦の朝は緊張感が張りつめて、いつ割れるかもしれない薄氷を行くような心境になった。

静かに過ぎてゆく新たな日々も、70歳を過ぎた二人だけの家はいたって平凡で何の予定もない。どこと言ってゆく当てもない暇を持て余して手をかけたのが、ぶどう蔓での籠編みだった。初日は半日かけて底を編んで、翌日は側面を半日で編み、3日目は縁を編んで最後の日には手を取り付けた。これで完成だった。

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まあ何とか様になりそうな手づくり感のある「ぶどうの籠」が出来た。もうずいぶん前から民芸品を売っている店で目にするたびに編んでみたかったのだが、材料が簡単に手に入るようなものではなかった。売っているなら買いたかったがそんな店もない。欲しければ自分で山に入って採ってくるほかに道はないのだ。

太く成長した蔓からきれいに皮が剥がれるのはたったの2週間ほどしかない。時期が外れれば手に入らない材料だった。それを乾燥してまた水に戻して柔らかくして、1cm~2cmと幅を決めて編む材料を作ってゆく一連のこの作業だって面倒だが面白い。

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この思いがかなったのは今年から来てくれた山手の職員が、私の思いを知って採ってきてくれたからである。元旦の薄氷を踏むような緊張感と曲がりくねった蔓を相手に悪戦苦闘している館長の姿が妙に様になる。春までにあと2つ~3つは編めそうだ。

 

ついに来た閉館の日

新水族館が建設中で車は200m離れた港に置いている。トンネルをくぐってカーブを曲がり正面玄関を目指したら館前にテレビ局が2社、私が歩いて出勤して来るのを待ち構えていた。

そうだった今日は特別の日だった、50年の歴史に幕を閉じてこれから半年の休館に入る大きな節目を迎える日だった。

待ち受けていたテレビ局は東京から来たNHKさんと、もう1社は地元のさくらんぼテレビさんだった。歩いている途中で声をかけられた。「今日で閉館になるわけですが、心境はいかがですか」「まんずこれで終わりだと思うと寂しいもんだノー、しかしそれよりも何よりもすべてが緊張の種だな」

目の前では、来年の6月オープンの予定で新水族館が巨大な姿を現していた。これがうまくゆくか失敗するかいつも頭を離れないのだ。ミズクラゲの巨大水槽を作るんだといえば格好いいが、何かの拍子に全滅してしまえばそこから先、展示するものがいないのだ。

そんな事がこれまでも何度かあったのだ。「昨日の夜仕事を終わって帰るときは皆元気だったが、出勤してみたら1匹残らず死んでいた」という事が1度ならず2度、3度と起きたのだ。

これが再び起こらないとは言い切れない。いくら実力をつけても場数を踏んで経験を積んでもその不安はついてきた。新水族館が成功するか失敗するかは全てがミズクラゲの繁殖と展示にかかっていると言って過言ではない。

最大の水槽には万というおびただしい数のミズクラゲが必要になる。またここの展示の特徴は50種に及ぶ多種類を常設するというところにある。当然ミズクラゲを食べて成長し健康を保つクラゲも10種ほど含まれている。生産が滞れば展示のミズクラゲが餌として使われ減ってゆくことになる。毎日500も1000も作り続けなければならないという離れ業が求められるのだ。

出勤の途中でテレビ局に聞かれたが、いつもこんなことが頭の中を渦巻いている。

ところで今日の日は夕方には市長が来て4時45分からちょっとした挨拶と、加茂町の子供たちからの言葉や記念品の贈呈などがある。そして3時からは地元の皆さんに無料開放し一緒に5時の閉館を見守っていただこうという事になっていた。

朝からめったに顔を見ない古い友人やら親戚やら地元加茂町のひとたち、また昔共に働いた従業員などが次~次に入館してきた。夕方に向かってさらに訪れる人は増え続けて時ならぬ大賑わいとなった。

ついに来た終わりの時を一目見ようと水槽前の広場には人が埋め尽くし、市内外の報道関係者が数えきれないほども陣取っていた。最前列には加茂小学校の子供さんたちが40人も並び5時のカウントダウンを待ってくれた。

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合図とともに10から9、8と皆でカウントして館内の照明が消された。ついに終わりの時が来たのだ。一息ついたところで「館長何か一言」と司会者に求められた。

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48年もここで頑張っていたんだ。言いたいことは山ほどもあったが、「平成9年にはどん底を迎えて閉館を覚悟いたしました。今日このように希望を胸に抱いての閉館とは違う寂しいものでした」「これまで支えてくれた市民の皆様に感謝します」わずかこれだけが私のお別れの言葉だった。

同じ閉館を迎えるという言葉でも希望をもって先に進めるのと、すべてを失って去るのとは天と地の違いがある。今あることを感謝せずにはいられない。

何でこんなに優しいのだろう

眠りの浅い朝方に見た夢のような気もするが・・・いやそうではないあれは本当の出来事だった。2013年10月21日、半蔵門の駅近いビルの7階だった。

大きなテーブルを挟んで私の向かいにその方は座っている。年のころ84~5歳か。緊張しながら座る私がまるで自分の孫でもあるかのように穏やかな微笑をたたえていた。

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本当はこうして私と向かい合っていることなど有りようのない雲の上の方だった。光り輝く太陽かはたまた雪を頂いたエベレストの山頂か、兎に角近寄りがたく有り難い、とてつもなく大きな存在だった。

その方の前に一冊と私の前に一冊、クラゲの写真集が開かれている。そして私が少し庄内弁の訛りが入った言葉でそのお方に説明していった。ほとんどのクラゲにこの17年間の思い出が詰まっていた。

このお方と私が、対談をしてそれを本にすると言う企画が持ち上がり、向かい合って座る事になったのだが、これはどう見てもとんでもないミスマッチであるのは間違いなかった。しかしいつの間にか時間は流れてその日が来て、こうして向かい合っているのだから世の中何が起こるか分からない。

写真集の何処を開いても語る言葉は尽きなかった。

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「このクラゲは貧乏の極みで出会った救いの神様です。これに出会わなかったら今の加茂水族館は有りません。」「難しいクラゲの飼育の中で例外的に簡単で、放っておいても繁殖もします。」その方は椅子を少し横向きにずらしてじっと聞いてくれた。

この方とは元々は何の御縁もゆかりもない人だったのだがちょっとしたことから交流が始まり、その後は思いがけない展開が待っていた。

平成20年10月8日夕方だった。下村脩先生がオワンクラゲの発光物質(GFP)を純粋な形で取り出した功績が評価されて、ノーベル化学賞を受賞されることに決まったニュースが日本中を駆け巡った。

私はこのニュースに大きな感動を覚えた。事の大小は比較しようも無いが向こうはクラゲでノーベル賞に、この小さな水族館はクラゲで経営の危機を救われた。

クラゲのノーベル賞は自分の事の様に嬉しかった。そして感激した。その思いを手紙に書きアメリカの先生宛に発送した。この小さな1歩が今に及ぶ交流の始まりになった。翌々年の4月には加茂まで来てくださりそしてまた今日の対談につながっていった。

それにしても下村先生はなぜかこの小さな水族館に大変優しかった。ノーベル賞を受賞された直後日本中のみならず世界中から講演依頼が有った中で他を断ってまで来てくださり、折に触れては震災の影響を心配して下さり、新水族館の工事の進捗状況を尋ねたり、大雪が続けばメールで励ましてくれたりしている。

この度の対談はPHP新書が「先生と私がクラゲ談義に花を咲かせて、それをもとにクラゲの手引書を出版する」という企画を立てたときに、いち早く承諾をして頂いた。先生のご承諾が無ければ泡と消えていた企画である。

ノーベル賞の大先生と日本一小さな水族館の館長という組み合わせは、だれが考えても有りようのないものだった。

私の緊張をよそに、12時半に始まった対談は10分ほどの休憩が有っただけで夕方の5時15分まで続いた。先生は「この所時差ボケが取れなくて熟睡が出来ない」と言いながら最後まで穏やかな表情は変わらなかった。

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来年の7月ごろに出版予定だと聞いているが、私にとって二度とこんな名誉なことは無いだろう。末代までの誇りだしそろそろ仕事人生も終着駅が見えてきた老館長に最高のエールになりそうだ。

 

 

天高くアクリルガラスは翻った

ついこの間クラゲ大水槽のアクリルガラスが運び込まれたが予想外の大きさだった。厚さが27cm幅が3m高さが6mが二つ、自分が提案したものだったし紙の上では穴が開くほども見慣れた数字だったが、実物を見るとその大きさに圧倒されてしまった。

沖縄の美ら海水族館のジンベイザメ水槽は厚さが60cmもあったし、隣の男鹿水族館でも大水槽には49cmのアクリルが使われている。今時27cmは特にいうほどのことが無いのかも知れないが、直径が5mのクラゲ水槽にこんな厚い物が必要だとは思わなかった。

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アクリルガラスを積んだトレーラーは栃木県から夜中に到着して、朝早く巨大なクレーンで工事中の建物に運び込まれた。縁起を担いだのだろうが吊り上げる合図を館長に頼むと言われ、赤い棒を右手に持って「上げてくれー」と合図をした。

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アクリルガラスを積んだトレーラーは栃木県から夜中に到着して、朝早く巨大なクレーンで工事中の建物に運び込まれた。縁起を担いだのだろうが吊り上げる合図を館長に頼むと言われ、赤い棒を右手に持って「上げてくれー」と合図をした。

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あの水槽にはおびただしい数のミズクラゲが群泳することになる。繁殖させて成長させる飼育係も苦しい日々が予想されるし、定期的に行われるメンテナンスも万に近い数を思うと其のたびに難しい作業が待っている事だろう。

クラゲの展示に特化すると言えば格好いいが、その実苦しい事ばかりが想像される、何でこんな生き物に全てを託したのかと悔やむこともあるが、苦しい仕事の向こうに明るい未来が見えるから頑張れたのだ。

吊り上げられたガラスを見ながら思ったのは、矢張り17年前の苦しい時代だった。民間の会社が倒産を覚悟するという事はただ終わりが来たという事ではない。経営者には結果責任が伴うのである。

まさに追いつめられて真っ暗闇の状態だった。へたり込みどこにも進むことが出来なかった。その時はるか向こうにかすかな光がさしたのである。この光を目指して再び立ち上がることが出来た。

早いものであれから17年が経過しようとしている。陽が当たったアクリルガラスはあの時の光だったのかも知れない。

 

 

足が震えた

新水族館の建設が2か月遅れながらもその後順調に進んでいる。日に日に高くなりそして型枠が外され全体像が見えてくると図面で見慣れた規模よりもかなり大きく感じる。

現水族館屋上から見た新水族館。

現水族館屋上から見た新水族館。

 

定期的に写真を撮るために灯台に上がり見下ろすと「大きいなー」と声が出る。この頃何度か工事の現場に入ってみた。天井を支えるポールが林立していて身をかがめ頭を低くして、右に左にと体をかわしてポールを避けて入って行った。図面は見慣れていたが今いる位置を見失ってしまった。

足場のポールで奥が見えない。

足場のポールで奥が見えない。

 

あまりに多いポールが邪魔で見通しが全く効かない上に、暗いせいでそんな感覚になるのだろう。水たまりや穴を避けながら行く手にアザラシとアシカのプールが見えてきた。

思ったより小さかったが造りは立派だった。これまでの見慣れた古巣のプールとは比べようも無い。バックの擬岩はこれから工事に入るが、ちゃんと実物以上に本物に見える岩が取り付けられる事になっている。

これまで擬岩が無かったのだから、いよいよここも本物の水族館の仲間入りができるという事だ。貧乏暮らしが長かっただけにただ擬岩が出来ると思うだけでも喜びが込み上げてくる。ちょっと情けない話だがアザラシとアシカのプールを見てその最初にそのように思ったのだ。

さらに案内されて進むとアシカショウの所に来た。ここは特に力が入った造りをされている。舞台にあるプールとその向かい側にはコンクリート作りの雛壇が有ってゆったりとした観客席になっている。

足場の向こうに青いショープールが見える。左手には観覧席がある。

足場の向こうに青いショープールが見える。左手には観覧席がある。

 

同じショウでもここでやれば見る方だって楽しさが倍増するだろう。やる方の我が飼育係だって気持ちよく舞台に立てるはずだ。これは思った以上の施設になりそうだ。

更にぐるぐると足場を上りまた下りて、暗い通路を行くと「この辺りからクラゲの水槽になります」と云われた。「んだば5mのクラゲ水槽を見せてくれ」と頼んだら、さらに幅40cm程の狭い階段を上り切った向こうに「クラゲ大水槽」が口をあけていた。

上から覗いてみた。高さ5mの水槽がこれほど大きいとは思わなかった。挑戦することが必要だとは口々に言ってきたことだが、見下ろす高さに足がすくんでしまった。

高さだけではない奥行き1.5mも、幅の5mも思い描いていたものより実物ははるかに大きかった。「こんなに大きい水槽にミズクラゲをいっぱいに泳がせようとしていたのか。」

この水槽に傘の径がたった20cm~30cmのミズクラゲを一体何匹入れたら満足できる眺めになるのだろう。

5000匹か1万匹か・・・もっとか。声も出ないで見下していたらいつの間にか足が震えていた。「挑戦するにもほどがある。これは無謀といえるのではないか。とんでもない事に挑んでいたなー。」

ここを維持するために毎日何百、何千のクラゲを生産すればいいのだろう。季節が外れればもう捕まえてくるわけにも行かず、買って来るにも売っていない。どこかから分けてもらう訳にも行かない、失敗は許されないのだ。

今更後戻りも出来ないし、しゃにむにやり通すしかない。世界中の誰も実現したことが無い「クラゲ水族館」も、実は信じて付いて来てくれた若い者を「いばらの道に引きずり込んだ」のではないか。

恐らくこの建物は今後50年は使われ続けるだろう。恨まれる事も有るだろうが恐らくその頃は私も位牌になって仏壇に鎮座しているだろう。もしも「位牌ががたがた動いたら」あの世で詫びていると思ってもらう他無いな。

 

 

夏向きの話を一つ

水族館と言う仕事を運営とか経営とか固く考えてはいけない。私は客商売だと考えているので多くの人の支えが有って成り立つ仕事だ。小さな出来事一つ一つの積み重ねがここの信用を支えている。手紙を書くのも面倒がっては居られない。

さっき知らぬ方からの長い手紙に感動しながら返事を書いて終わり、飼育係から昨日採集したと知らされた「カツオノカンムリ」を見に階段を下りて行った。

8月に入って最初の日曜日のせいだろう。まだ10時過ぎと言うのに人ごみが出来ていて思うように歩けない。階段を下りるだけでずいぶん待たされてしまった。

外ではもう車が渋滞しているので夕方には3000人近い入館者が訪れているだろう。ミズクラゲの繁殖を見ることが出来るカウンターの向かいにカツオノカンムリは居た。

展示されている「カツオノカンムリ」青く見えるものがそうである。

展示されている「カツオノカンムリ」青く見えるものがそうである。

 

小さな丸い水槽に7~8匹浮かんでいた。知らなければとてもクラゲには見えない。青いビニールが千切れて浮いているとしか見えないだろう。しかしここでは10年に1度の本当に珍しいお客様である。精々4~5日の展示に終わるのだから、見た人は幸運な方だ。

面に浮かぶカツオノカンムリ。青いビニール片ではない。  手前の白いものは本当のプラスチック片である。

面に浮かぶカツオノカンムリ。青いビニール片ではない。
手前の白いものは本当のプラスチック片である。

 

ここも当然ながら人が込み合い先が詰まって渋滞を起こしていた。しばらく立ち止まって奥の方を見ていたらこの辺りが事務室で、奥の方が宿直室だったころを思い出した。

この辺りがクラゲ展示に変わったのは震災の年の春だったからもう3年目に入っている。改装前はここにあった事務室を上に移動させて熱帯魚室に改装し「2mもあるアマゾン川のピラルク」の水槽が有った所だ。

どこもかしこも50年の間に何度も何度も手を加え、改装に次ぐ改装をした。開館当時の面影をそのまま伝える所は階段ぐらいしかなくなってしまった。

奥にあった宿直室に特別な思い出がある。

今から40年ほど昔の昭和46年の12月31日に、ここを買収した本社が不振で事実上の倒産をして全職員の解雇が言い渡されたことが有った。

今日の話はそこから始まる、本社は当然電気や、水道を止めて閉鎖になったがこちらには生き物が居た。

私の他3名が面倒を見ることになって交代で寝泊まりしながら、先の見えない不安な毎日を過ごした。

初めのうちは何事も起きなかった。1か月ぐらい過ぎてからだった。泊りの男がぼそりと呟いた。「館長、寝ていても何でもねえか。」「いや特に変わったことは何もない、どうしたんだ。」「夢みたいな気もするが夜中に冷たい手で足首をつかまれた。」「あとはぞっとして眠れなかった」。

「え!んだば幽霊が出たってか。」「まずそげな感じだ。」これが始まりだった。次々に夜寝ている所を襲われた。「布団の上に乗って来た。」「枕元に座っていた。」「居るのは分かったが恐ろしくて目を開けられなかった。」「良く館長寝られるなー」。

鈍感なのか、どこか嫌われたのか遂に一度も私には出なかった。ここの飼育課長だった男は特に好かれたようだった。今丁度クラゲの解説をする前あたりに熱帯魚用のストーブが置かれていた。温かいのでそこでアジをぶつ切りにし、また開いて叩きにしたり魚に合わせて餌を作って行く。

ここを奥に行くと今はクラゲ水槽があるが、昔は宿直室があった。 手前右側、白い服の女性が立っているあたりにストーブがあり、その隣に・・・

ここを奥に行くと今はクラゲ水槽があるが、昔は宿直室があった。
手前右側、白い服の女性が立っているあたりにストーブがあり、その隣に・・・

 

夜ではない。いくら冬のさなかと言えど真昼間である。餌作りの最中に幽霊は出るようになってきた。「夢中になって餌作りをしていたらいつの間にか横に立たれてぞっ!とした」と青ざめて語った。

先の見えない越冬隊は春・3月10日まで2か月と10日宿直を続けた。その間幽霊は出たり出なかったり断続的に現れつづけた。そして3月11日に兎に角開館してくれと云われて、無事開館することが出来て幽霊の体験も終わった。

これで解放されたはずだった。しかし私以外の3人には不幸が襲ってきた。大腸がんが一人、二人は原因不明の突然死だった。

元気だったはずが病に侵され次々にあの世へと旅立って行った。40代の若者がわずか4~5年の間に3人みなこの世の者ではなくなってしまった。

何だかおかしいではないか。あの宿直で何者かに憑りつかれなかったのはこの私一人だった。得体のしれないものに襲われた3人だけが次々に命を落とすとは。

私にはあのころからすでに「クラゲと言う守り神」がついていたのかも知れない。これも今となってはここの歴史の一コマだ。

 

ミイラになる修行をしているんだ

今年は7月の末になったと言うのにまだ梅雨が明けない。雨ばかり続くと矢張り青い空が恋しくなる。

しかしこの時期だから晴れて青い空が見えれば、一気に暑さがやってくるだろう。其れも痛しかゆしで梅雨空もまた有り難いと言うべきだかも知れない。

73歳にもなったが年を取ると夏の暑さがえらく身に応えるのだ。若いときには炎天下に帽子もかぶらず自転車に乗って3km先の川に行ってはサクラマスや、ナマズを捕まえていたが暑さは平気だった。

思い出して少し語ってみることにする。月山から流れてくる今野川と笹川が合流するその場所は、田んぼに水を取り入れるために水門が作られて、上流は1kmほど長く続いた瀞場になっていた。

深さは2m~1.5mぐらいだったと思う。ここはまるで生簀かと思うぐらい多くの魚がいた。

海から遡上してくる60cmもあるサクラマスが最高の獲物で、10月になれば1mもあるようなサケが群れで泳いでいた。深く潜ると土手のゴロ穴には大きなナマズが隠れていて、手を肩まで突っ込むとナマズの頭をつかむことが出来た。

穴に入るのが好きな「ナマズ」

穴に入るのが好きな「ナマズ」

 

他にも捕まえにくかったが立派な鯉がいっぱいいたし、食べる所が無いので相手にしなかったが鯉を細くしたようなニゴイも居た。ハイと呼んだウグイの大物も多かった。

鯉に似た「ニゴイ」=「似鯉」

鯉に似た「ニゴイ」=「似鯉」

 

潜りながら上流に向かい捕まえた獲物はヤナギの枝にさし通し、半日も魚取りをしても疲れはあまり感じないものだった。鰓から刺し通したナマズを10匹も、別の枝にはサクラマスや鯉をぶら下げて帰ってくるのが日課だった。

70歳も過ぎた今になってはもう駄目だ。暑いなーと思うだけで体は動かなくなる。冬の寒さも嫌だし本当に年は取りたくないものだ。

もう20年も前になるが50になったばかりのころだった。髪も黒くふさふさして体力もあったあの時期だったが、今よりももっと体の調子が悪く、いやに肩が凝り熟睡も出来ず何かちょっと多く食べれば腹を壊し、夏の暑さが妙に苦しく耐えられなくなって胃の中の物を皆吐きだしたりした。

この分では60歳まで生きられないなー、と本当に思っていた頃が有る。

今振り返ればここの経営が最も苦しかった時期と重なる。いつ倒産してもおかしくない経営が続いたせいで、ストレスがたまったのが原因だったのだろう。

あまりの具合悪さに医者に行ってみても原因が分からず、其れを食べ物のせいにして、好き嫌いではなく体に合わないと思うものを次々に食べぬようにしていった。

その結果行きついたのは、肉も食べずに揚げ物にも一切手を出さない、油いためも駄目、脂の浮いたお汁は唇を突っ込んで下の方だけ吸い込むようにする、更に加えて乳製品も食べないので、大好きだったヨーグルトやチーズさえ食べなくなった。

私が特に弱かったかも知れないが、強いストレスに襲われればどんな人でもどこかおかしくなると思う。出来ればそんな思いはしたくないから程ほどの生き方をしたいものだ。

食べ物を注意していると、体に合っていると感じたのは納豆や漬物、豆やかぼちゃの煮物に野菜や果物はみなOKだった。それに加えて海藻と少しの魚を食べていたのでまるでイナゴかキリギリスになったような気分だった。

これが今私の食べている動物食を除いた料理である。

これが今私の食べている動物食を除いた料理である。

 

こんな食事をするようになったらいつの間にか笑顔が増えて気持ちが穏やかになったような気がする。周りの人ともみな気心が通じるようになって仕事がスムースに運ぶようになった。

今でも食に関する欲は一切ない。今度の休みにどこか旨いものを食べに行こうかなどと思う事はまずない。納豆ごはんに民田茄子の「醤油(しょうゆ)実漬(みづけ)」が有れば何より食が進む。私には粗食こそもっとも望むところだ。

酒やたばこもやらず賭け事もせず栄養のあるものはみな駄目だったから、これではまるで「ミイラになる修行」をしている様なものだと自嘲している。あれからもう20年以上もたったが今なお体型は変わらず修行を続けている。

 

 

悪い魚捕り-ダイナマイトに点火したら皆逃げた

何年生の時の事なのか、時期はいつ頃なのか思い出せないのだが、親父さんの家で夕食の後、二人で囲炉裏を囲んでバチバチ炎える焚き火にあたりながら、鉄砲のタマ作りをしていた時の事だった。

使った真鍮の「空やっきょう」から、つぶれた雷管を抜いて新しいのを詰め、黒色火薬を計って空薬きょうに入れて仕切りボール紙を入れる。そんな作業をしならが思い出すままに、一緒に山に入ったときの事を話し合うのが楽しかった。

同じ話を何度でもするのだが、その度に興奮して話がはずむ。それを聞いている奥さんに「同じ話をよくあきないもんだ」といつも笑われていた。

親父さんは世事にうとい私を驚かす為に、火薬を火に投げ入れたりしていた。火薬は雷管の小さな爆発がないと絶対に爆発しないのだそうで、本当に火の中で、ブスブス燃えるだけだった。

そのうち親父さんが奥の方から、ダイナマイトを2本持って来た。油紙に包まれた20cm程の長さのものだった。

手で触れてみると、土に脂を滲み込ませたように、表面はベタベタし意外に軟らかい。口に含むとちょっとびりびりするが食べられそうな味がした。

親父さんは端の方を1cm程むしり取って火に入れ「やはり爆発はしないんだ。映画のシーンなんかは皆うそなんだ」と言っていた。

やはりダイナマイトも焚き火の中で火薬と同じようにブスブスと燃えているだけだった。私はダイナマイトに火が付けば爆発するものと思っていたので、本当に意外だった。後に、この中の一本を爆発させる時がやって来た。

農繁期になると頼まれなくても、親父さんの家によく手伝いに行ったものだ。

秋の刈り入れの頃だったと思う。友達数人と刈り取った稲を運ぶのを手伝いに行った。稲の干し方は、地方によって色々な方法がある。

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

 

あの地方では、刈り取った稲をすぐに家に運び、木を組んで造った「ハセ」に三段か四段にスダレ状に干していた。刈ったばかりの稲は水分を含んでいて重く、随分遠くからも運ぶので、なかなか骨の折れるものだった。

不思議に思うのだが、稲を運ぶのは全て人の背中で、荷車とかリヤカーを使う事は全くない。

何処の家でも人手が欲しいので、勝手に押し掛けても大歓迎で喜んでくれた。

その日、私達が行った時、すでに親父さんの家の取り入れは終わっていた。

他の家の稲が所々に残っていたが、最後の収穫の最中だった。

親父さんの家に上がり、何かごちそうになっている間に魚捕りに行こうという話になった。

親父さんは奥の方からダイナマイトを一本持ち出した。それと一緒に導火線と雷管も持ってきた。そして自分の家の田圃の下に大きくて深い淵があって、「ハヨ」がいっぱいいるから、あそこで「発破かけしよう」と言いだした。

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

 

正直なところここまでの記憶は誠にあいまいで朦朧とし、夢か幻のように頼りない。本当だったかそれとも長い年月の間に妄想が現実になったのか、もっと別のストーリが有ったような気もするが、まあそれはそれで良しとしよう。

今、上叶水から、親父さんの家がある新股に行く途中、横川に立派なコンクリート橋が架かっているが、あの頃の橋はもう少し上流にあって、魚のいる淵もさらに200m程上流にあった。

田圃から川に下る時、鉄砲を空に向けて二~三発撃った。ダイナマイトの音を鉄砲と紛らわす為だった。淵に行って見たら近所の子供二人が先の折れた3m程の釣り竿で何かを釣っていた。

何でも親父さんの説明に依るとダイナマイトの威力というのは、周囲全体に及ぶのではなく、水の厚い方に放射状に広がっていくので、川底の方に沈めてしまうと、水面の方に広く効果が出るので底を泳いでいる魚は死なない、と言って居た。

魚をいっぱい捕るためにはダイナマイトを深く沈めずに、水面下二尺程の所に止めて爆発させると川底に広く及ぶのだと言っていた。子供の釣竿を借りて先に紐を縛りつけ、二尺ほどの所にダイナマイトと重りの代わりに石を二~三ヶ結び付けた。

ダイナマイトに雷管を押し込み、10cm程の導火線を雷管に差した。10cmの導火線が一体何分保つのか何秒後に爆発するのか親父さんさえも、他のだれも分からなかった。

日頃強がりを言っている友達も皆、竿を持つのを嫌がって後ずさりし、親父さんさえ尻込みした。

「それでは俺がやる」と自分から言い、私が爆発役を引き受けた。一度練習した後、親父さんがマッチで導火線に火をつけた。それまで近くで見ていた友人も子供もみな遠くまで逃げてしまった。

火をつけた親父さんさえも導火線から火花が出始めたら逃げてしまった。だれもがダイナマイトの爆発を恐れていたのだ。

私が竿を持つ手を伸ばして水面下二尺程の所にダイナマイトを沈めた、その間にも爆発するのではないかと言う恐怖心が有った。この時の決断はこれまでの73年に及ぶ人生の中でも特別大きなものだったと思う。体をがちがちになり竿を持つ手が他人のように感じられて、頭がしびれそのまま倒れてしまうほどの緊張だった。
ダイナマイトと一緒に縛った小石が飛んできたら死ぬだろうとも思った。

思ったよりも待つ時間が長いと思ったのだが、どの位だったろう。20秒か30秒位だったと思う。あれっ爆発しないのかなと思っていたら、じきに下腹に響く「ズシン!!」という音と共に水柱が上がった。爆発音は鉄砲とは全く違う振動のような音だった。

しかし水柱は意外と小さく、やはり川底の方に向かって力が広がっていったようだった。

皆が寄ってきて深い淵の底をじっと見ていたが、なかなか魚は浮いて来ない。

しばらくの後、一匹のハヨが白い腹を時々見せながら流れてきた。

それを淵の下手で拾うと、後は次々と白い腹を見せて流れてきた。中には生き返るのか、力なく泳ぐハヨもいた。流れてくる魚はどんどん多くなっていった。

それと同時に元気が出て捕まえるのに苦労するハヨも現れた。

皆はしばらくの間、夢中になって魚を拾ったが、やはり「御禁制」のダイナマイトを使ったという引け目があり、魚はまだまだ流れてくる中を引き上げて来た。

イワナが二~三匹とあとはハヨと呼ばれるウグイのみで、全部で何匹ぐらい拾ったろう。20~25cm前後のが三十匹だったか五十匹だったか、その位と思う。誰かが長靴を脱いで、魚をその中に入れ、人目に付かないように帰ってきた。

しかし悪い事は出来ないもので、途中の田圃で仕事をしていた鉄砲撃ちの仲間に「鉄砲と違う音がしたぞ」「ハッパ掛けたろう」と言われ、悪い事はすぐにバレるもんだなと変な事で感心した覚えがある。

今の高校生がそんな事をしたなら、結果は退学か良くても停学だろう。お巡りさんに知れたら刑務所行きになりかねない事態だ。それに比べ何事もなく過ぎたあの頃はおおらかな良き時代と言えると思う。

逃げ出したいほどの緊張の中でとにかく乗り越えたこの事が、私の後の人生に大きく影響したと思う。社会に出て多くの難しい局面に出会ったが、運がいいのかたまたまだったのか解らないが、何とか度胸ひとつで乗り切ることが出来た。

男って奴は意地の塊だから、大事なところで「引いたら価値が地に落ちる」・・・しかし目をつぶってでも突っ込めばそこで道が開けるものだ。

16歳で身に着けたあの「命がけの決断」は、良くも悪くも私の生き方を決めた。

 

 

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