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夕日を釣りあげた館長人情話2

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今日(2015/8/29)思いがけない方の訃報が入った、加茂水族館の長い歴史の中に大きな足跡を残した方で、鶴岡市ができて間もない加茂水族館を売却したとき、受け皿になった(株)庄内観光公社の専務を務め、のちに倒産を経て(株)佐藤商事の経営に移ってから社長を長く務めた田渕享冶氏である。

時の市長足達氏の壮大なる「観光の市」構想により、湯野浜温泉の裏山一帯を観光開発し高舘山とロープウエイで結び一大拠点にする、そのためには市ではできない事業をやらせる民間の会社が必要だった。

鶴岡市が呼び掛けて、銀座商店会、庄内交通、湯野浜温泉観光協会、湯田川温泉観光協会、加茂観光協会、由良観光協会、(株)佐藤商事などが出資しさらに市と県が併せて1000万円を出資して1億円の会社を設立した。

この新会社が当面お金も仕事もない、ならば当時繁盛していた加茂水族館を譲渡して経営を助けようとの思いで売られてしまった。

佐藤商事

佐藤商事が経営責任を持って新出発したホテル満光園オープンの日、左から2人目が秋元社長、3人目が田渕享冶氏

 

新会社は長く軌道に乗ることはなく常に難しい経営を迫られていた、水族館の利益はそちらに流れ続けたがそれでも足りず、昭和46年の12月31日には全職員が解雇され事実上の倒産を迎えることになった。

武士の商法ではないがお役人の商法だったから、初めから旨くゆくはずがない計画だったと言えば分かりやすい、典型的な例として有名なのが北海道の夕張市に見られる。

 

湯野浜温泉の芸者

オープンを祝って踊りを披露する湯野浜温泉の芸者さんたち

倒産後鶴岡市は(株)佐藤商事の秋元正雄社長に負債もろとも経営を引き受けて頂きその後は、庄内観光公社から一切の手を引き責任を逃れることになった、倒産後日帰り施設だったものをホテル化して収益性を上げて経営を安定させようと、難しい経営を一手に引き受けたのが田淵氏であった。

 

プラネタリューム

満光園は当初宴会場とプールを備え、それに本格的はプラネタリュームを持った日帰りのヘルスセンターだった

市民から多くの出資金を集め、繁盛していた水族館を売り、はせ参じた60名程の若い従業員を路頭に迷わせた、あの観光の拠点構想は何だったのだろう?田淵氏の葬儀は改めて深く考えさせられるきっかけになった。

一市長の思いついた構想がとてつもない大きな災いをもたらしたが、そのもっとも辛い難しい時代に社長を引き受けさせられたのが田淵氏であった。

市営時代の館長は観光課長の井上行雄氏だった、「市が水族館を売却した時に建物だけを売っても飼育係3人がゆかなければ買った会社が経営出来ない、新会社に移ってくれ」と頼まれた。

「悪くても市並みの待遇はする」約束してくれたが、それは守られることがなくその後に続く多くの困難の中で、飼育係3人が顔を合わせれば必ず出たのが「あのまま市に留まればよかった」という嘆きだった、「諸悪の根源が足達市長」ではないのか、長い間そう思ってきた。

 

旧加茂水族館

昭和39年にオープンしたころの旧加茂水族館、それから50年に及ぶ苦労の歴史が始まった

 

多くの職員が経営難の中失意のうちに去って行ったが、加茂水族館も取り巻く環境の変化についてゆけず苦労の経営が続くことになった。

そしてラッコの展示に「9回裏ツーアウトからの逆転満塁ホームラン」を打とうと導入した、これが裏目に出てさらに経営を圧迫ついに「弾尽き刀が折れた」、後は打つべき手もなく座して死を待つほか道はないと覚悟させられた。

ここでクラゲに出合いまさに起死回生のドラマが生まれて、あれよあれよという間に日本一に、そして世界一にと駆け上がり絵にかいたようなV字回復を成し遂げていった。

 

くらげ

くらげに出合うことが無かったら、館長が思い出を振り返ってのブログを書くことも出来なかっただろう、、、、夜逃げしただろうか、、あるいは赤川の橋の下でブルーシートに囲まれて暮らしていただろうか

 

この4月で退職して身が軽くなって初めて思いついたことだが、、、、少し今の心境を伝えたい、「この世にもしもは無いのだ」といった偉い方がいたが、そのもしも、、、と思うのだが。

オープンして4年目で新会社に売られることもなく「あのまま鶴岡市の経営が続いていたとしたら、加茂水族館の運命はどうなっていただろう」と思いを巡らした。

市の多くの施設がどんな運命をたどったのか、最も分かりやすい例を挙げてみる、平成13年に閉鎖されるまで鶴岡市立の「国民宿舎由良荘」があった。

 

国民宿舎由良荘

右に見える部分を増築し、大浴場をそこに移し温泉水を運んで天然温泉大浴場にした)
オープンしたのが昭和38年ごろだったと思うが、旧態依然とした昔ながらの温泉旅館が立ち並ぶ中で、鶴岡市がいち早く近代的なホテルを誕生させたとあって連日大繁盛した。

 

その利益はすべて市の財政に吸い込まれて消えてしまい、後の備えとして蓄えられることは無かった、その後湯野浜温泉や温海温泉に続々と立ち始めた「すべてを備えた温泉ホテル」に客が奪われて行き衰退の一途をたどった、その間オーナーであった市はどんな手を打ったのかは、云うだけくたびれるが簡単に述べることにする。

片や立派な玄関ホールや、エレベーター、バストイレ付の部屋、宴会場を持っていたのに対して「由良荘」はそれらを持っていなかった。

戦う武器を持たされずに現場は敵と対峙した事になる、現場にいない上司はただ数字を見てなぜ前年よりも収益が減ったのかと支配人を追及していたと聞いた、この出来事は厳しい経営の矢面に立たされた野坂氏ご本人から直接聞いた出来事だ。

辛かっただろうと思う、そして年間に必要な費用の不足分を市の予算から補てんして、赤字の経営が長く続いた、平成13年に閉鎖することになり1億3000万円の費用をかけて長い経営に幕を閉じた。

しかし今その閉鎖されていた国民宿舎を買った民間の業者が、エレベーターを取付け、玄関ホールを増築拡大し部屋にバストイレをつけて、温泉水を運び込み天然温泉のホテルとして心機一転、元気の良い経営を続けている。

 

館内

フロントの女性が館内を案内してくれた、初めて取り付けられたエレベーター、これがないホテルなど考えられないが、ここは此れまでそうだった。

 

加茂水族館もあのまま市の直営であったなら、全く同じような運命を辿ったであろうことは明白だ、赤字になってもその分の補てんをしてもらい、細々とした経営を続けることになったであろう。

その間に館長は数年で変わり、現場の提案は日の目を見ることなく、誰も責任ある行動はとらず成り行きのままに流れて行ったであろう、クラゲにも出会わず出会っても気が付くこともなく、あのまま「由良荘」のごとく自然消滅の道をたどったのではないか。

もしも建て替えようとの声が上がっても、低迷している加茂水族館をしり目に一足先に「文化会館計画」が持ち上がり、ちょうど水族館の分もふくめた建築費が膨らむ事になり、市としても金策尽き刀折れて水族館の建設はどうなった物やらわからない。

こうして振り返ると、足達市長が夢見た「壮大なる観光の市構想」は、50年たって時限爆弾がさく裂した様に、「多くの市民に恩恵をもたらす形で今実現した」のではないか。

 

バストイレ

バストイレがないホテルだったがこのように今は取り付けられた、いつか行って泊ってみたいと思わされた

 

落ち着いた純和風

二階にあった大浴場を移転した後にできた部屋、落ち着いた純和風の感じのいい部屋になっていた

 

 

民間の新会社に加茂水族館を売るという英断があったからこそ、広い世界にただ一つの「クラゲ水族館」が誕生したのだ、長年諸悪の根源と思っていたあの市長はじつは先見の明をもつ大恩人だった?。

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