年別: 2015

新潟県生涯学習推進センターにて

このところ講演が続いた、9月の30日の尾花沢市から始まり今日で4日、毎日日帰りで車の運転をして片道1時間とか2時間とか走っていたのだから、75にもなって我ながら結構丈夫なもんだと思う。
4日目が新潟県に招かれての講演だったから無理して車で行く事は無い、羽越線で楽をしながら向かった、めったに汽車に乗る事が無いからそう感じたのだろうか、引退したと言う心の持ち方が感傷的になったのだろうか。
久しぶりに汽車の窓から見る風景はなんだか夢を見ているような、新鮮でいつもと違う異国の情緒を感じた。
DSCN0128※ グリーン車の手配までしてもらい、新潟市に向かった車窓の風景は夢見るような異国の情緒を感じた、、、俺も本当に退職したんだなー

田園風景の向こうに高館山が見えてテレビ塔が立っていた、変哲もない山並みだがこれまでこうして1歩離れて眺めると言う事はあまり無い、自分が運転する車から50年近くも見慣れた景色が広がっていた、しかし今日は何だかジンと胸に来るものがあった。
DSCN0355※ 汽車の窓からはこんな庄内浜の光景が広がっていた、、、ただしこれは水族館そばの今泉集落です

「ああ俺の仕事人生も終わったのだなー、出勤をする代わりに講演のために新潟に向かっている」毎日色々な思いを抱いて庄内平野を横断し、海のそばの職場に人生を重ねて頑張ったが悲喜こもごも結構長い年月が有った、ガッタンガッタンと揺れながら走る汽車の中から自分の今が見えた。
今日の講演目的は新潟県の「新潟県連携公開講座」が招いてくれたものだ、、、かなり早めに会場に着いたせいで、打ち合わせが済んで時間を持て余し外に出てみた、隣接していた公園内を散歩でもしながら時間をつぶそうと考えたのだ。
桜並木の下を、しばらく進んだあたりで後ろから声がした「村上館長さーん、、、」、振りかえるといい年頃の男女が速足で近ずいてきた、「さっき外に出てゆく姿が見えたので追いかけてきました」そう云われても見覚えのない顔だった。
定年はとっくに過ぎた二人に見えたが、奥様と思しき方がほとんど一人で早口でしゃべっていた「実は私たち夫婦は村上館長のファンです、NHKのラジオ深夜便を聞いてから加茂水族館のどん底からの回復物語が感動的で、もう何度聞いたか分かりません」
高だて山2※ 汽車の窓から高館山がみえた、50年通勤の車から見た山並がまるで初めて見る風景に感じた。
「録音して家事をしながらいつも聞いていました、時々庄内弁が混じる話しぶりが聞きやすく、いつかお会いしたいと思っていました」
「今年の春に加茂水族館に行ってクラゲを見てきました、本当に素晴らしかったです、その時に買った本にサインをしてください」、、と頼まれた。
私が退職間際に出した「無法掟破りと言われた男の1代記」を持っていた、「私は勉強が嫌いでお蔭で字が下手です、、、」とか何とか云いながら、丸太つくりのテーブルを囲むように座り、渡された太いマジックで名前と日付けを書いた。
旦那さんは高校の教師をして退職したとか、奥さんも郵便局を退職されて二人とも仕事から解放されて自由の身らしかった。
私如きの話したことをこんなに喜んで聞いてくれている方がいた,感動したのは私の方だった「これはハナガサクラゲのネクタイピンです、ネクタイはまだ必要ですがこれが無くても良いでしょう」と言って嬉しい思いをさせて頂いたお礼にさし上げた。
今日の講演は、始まる前から大きな力を貰ってしまった、ストーリーに気持ちが載ってうまく行きそうな気がした。
いつも講演する時間は大体が1時間、長くても1時間30分だが今日は2時間与えられていた、こんなに長く話した事は無いが、何せ私の水族館歴は50年に近い歴史が有る。
語る内容には事欠かなかった、いつもは語る事のないよもやま話にまで及んだ、最後にはおまけの様にして民営時代に別れを告げて鶴岡市に買い取られた時のいきさつを話した。
P1060335※ こうしてスライドを写しながら話を進めてゆく、2時間も話したのは初めてだった

、、、、、平成14年3月31日の夕方、乗り込んできた本社の副社長が明日から鶴岡市に移る引継ぎの書類や帳簿を見ていた「おい!残せと言ったはずの金が無いぞどうした」と私に聞いた。
何もせずただ黙って4か月を過ごせば2000万円余るはずだったが、だが1円も残っていなかった「あなたは良いだろう、市に売って東京に帰ればそれまでだ、しかしここの職員はぼろぼろになった建物と共に見られるのだ、少しでもみんなが胸を張って市に移れるようにあの金は皆使った」
ここから先はただの男と男が口角泡を飛ばしての争いになった、そして
長い民営時代に別れを告げて翌日、朝目がさめて見ると肩のあたりが軽く爽やかで、、、、「極楽浄土にたどり着いたかと思った、、、、、、」「これからは自分の仕事だけを考えて頑張る事が出来る」そう思ったのだ。
しかし市には頑張ろうとする現場には大きな壁となって立ちふさがる法令や条例が有った、頑張ろうとすればするほど大きな悪代官となって立ちはだかって来た、振り返って思えば民にも,官にも極楽浄土は無いな、、、と思う、だがそんな中にも挑戦すればいいことも有る、、、、、こんな話をおまけに付け足した。
2時間と10分話が終わり会場を去る私に、拍手が鳴りやまなかった廊下を曲がり聞こえなくなるまで続いていた「あんなに温かい拍手を今まで受けた事は無かった」忘れられない思い出になった。

解体される旧水族館

引退してから始まった土曜日の出勤もすっかり慣れてしまった、現役だったら8時15分の朝礼に合わせて家を出るのが7時20分、仕事のことを考えながら40分も車を走らせていた自分は3月までで終わった。
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歌舞伎の世界 京都南座

DSCN0650 寒さが来たので冬の味覚フグの話でもしようと思う、と言うのもこの度京都の観光をしてきたからで、観光タクシーに乗ってあちこち回る途中に「あそこが歌舞伎の南座です」と告げられて、その言葉で思い出したことが有ったのだ。
DSCN0643※ 雨の夜に通った南座の前でタクシーを止めて写真を撮った、東京の東銀座の歌舞伎座とたたずまいはほぼ同じに見える
私に歌舞伎を見るという趣味は無い、ここを見て別のエピソードを思い出した、昭和50年11月16日南座で出演中の人間国宝坂東三津五郎さんが、フグの中毒で死亡すると言う日本中のファンを驚かすニュースがながれた。

三津五郎さんはフグが好きだったという、いわば「フグ通」と言っていいだろう、いつも食べなれたフグを恐らく何のためらいもなく食べたのだと思うが、なぜかその日は死に至る中毒を起こしてしまった。

巷に流れていた話ではトラフグの肝臓を4人前食べたと伝えられていた、そんなに食べれば危ないとは誰でも思うことだが、通としてフグを知る三津五郎さんとなると余計になぜだろうと疑問に思ってしまう。

フグの怖さは同じ網に入った同じ種だとしても、個体ごとに毒の強さに大きな差があることで、調理する者がそれを知る術は無いと言うところだろう。

この話にはまだ続きがあって、同席して同じものを食べた3人が中毒をしなかったと言うおまけが付いていたからややこしくなった、フグを出した寿司屋に責任があるとされたのだが、4人のうち一人だけが中毒したのだから原因は他に有ると訴訟になったらしい。
44890001※ これがフグの王様トラフグ、全長80cmにも達する大物もいる,庄内沖にも多数生息しており専門に獲るはえ縄の漁師もい
ここまでは噂として知っていたが有る時車を運転中に、ラジオでまさにその事件について話していた、4人前の肝臓とされていたのは1,6cm角の肝臓4個というのが本当のところだった。
DSCN0650※ 紅葉の京都は観光客であふれている、一番人気はこの清水寺と聞いた、平日でもごった返していた
というと親指の先ほどの塊を4個食べたということになる、今ではフグの肝臓は食べてはいけないと食品衛生法で決められているが、当時はまだ危ないとは心配しつつも普通に食べられていたのだ。

 

フグの調理に精通した職人が作ったトラフグの肝臓は、毒抜きがされて中毒はしないと信じられていた時代だった、どんなに洗っても血抜きをしても煮ても焼いても毒は減らず変化する事も無いことは今では良く理解されているが、昔はのんびりしていたというか大らかだったなーと思う。

訴訟になって困った国が大学に依頼して調べた結果、同じ肝臓でも部位によって毒の強さが「著しく差がある場合が有る」ということが分かって、やはり寿司屋の責任だと言うことになった。

今は種類ごとにフグの毒の強さが分かっていて、細かく血液や、皮膚、肝臓、卵巣、精巣など、どこにどれだけの毒があるのか知ることが出来る、不安を持たずに冬の味覚を堪能することが出来る。

釣り好きな素人にお勧めしたいのは頭も、皮膚も内臓も取り去り肉のみ食べると言う事だ、此れなら腹が破れるほど食べても中毒する心配はない。

この事件を知ってから京都の南座とはいったいどんなところか気になっていたのだが、思いがけなく目の当たりにする事が出来た、金閣寺も、清水寺(きよみずでら)も、嵐山もみな良かった良い旅だった。
DSCN0692※ 昔ながらの狭い路地には人力車が行き交っていた、祇園に行く途中に有った昔ながらの風情をたたえた町屋
私は山形県がフグの調理師講習をするようになった昭和61年以来25年も講師を務めた、難しい話はしたことが無い種類ごとに面白くも可笑しいエピソードを語り、時間が来たらおしまいにしていた、どんな話にも言えることだが楽しくなければ聞く者の記憶として残らないと言うことだ。

幸いフグには毒というキーワードが有って、昔から多くの迷信やらでき事がいくらでも有った、半分こじつけの様にして種類ごとに語って聞かせた、坂東三津五郎さんの話はその中の一つだった。

ここまで書くともっと多くの面白おかしい出来事を書き足したい気も起きるが、この辺でお仕舞にするのが切りが良いようだ、、、、別の機会に続きを書くチャンスもあるだろう。

2015,11,28

昨日古巣の山大農学部で講演をしてきました

53年前に卒業した懐かしい山大農学部で、学生さんや市内の皆さんに加茂水族館のこれまでの波乱の歴史を語ってきました、雲一つない秋晴れの中会場に向かう車から田んぼに降りた白鳥のむれが見えた、人を恐れる風もなく道路のすぐそばで落ち穂をついばんでいた。

学生さんも市民の皆さんもみなさんが熱心に聞いてくれたような気がして、出掛けて言った甲斐がありました。
DSCN0515※  こんな光景は珍しくなくなった、しかし子供の頃には全く無いものだった
おそらく私はビリで入学してビリで卒業しただろうと自覚していますが、これで3度目の講演を依頼されたのですから世の中何が起こるか分からないものです。

聞く方の身になれば優等生が波乱もなく優良企業に就職して、トップにまで上り詰めた話よりも、どうしようもないと見られていた者が、多くの困難を乗り越えて何とかなったという話の方が興味があるのでしょう。

加茂水族館といえば地元の人ならだれでも知っている小さくて内容が乏しくて、それが古くなっていつまで持つのか、、と心配して見ていた「身近な存在」でした。

それがあれよあれよという間にクラゲで人気を博し日本一に、そして世界一になりどこにも無いクラゲの水族館として復活した訳ですから、深い興味を持ってどうしてそうなったのか聞きたいと思ってくれたのも無理ないかもしれません、引退後もこうして声が掛かるのは有り難いものです。

日々ゆったりと過ごしていますが今朝はいつもの散歩を少しだけ早やめて7時半に家を出ました、昨日の出来事を思い出して天気もいいし途中に有る大きな池に集合している白鳥の姿を写真に撮ろうと思いました。

早ければ日が射さないないし、遅くなればエサを求めて次々に飛び立ってしまいます、遠くから白鳥の池を見ながら歩きましたが、やはり少し遅れた様で5羽~10羽と飛び立っていました
DSCN0519※  慣れた散歩コースの先約2kmのところに有る農業用のため池、通称「鎌田堤」にはいつの頃からか白鳥が群れるようになった。

今年はいつもより少し遅れて11月の初めごろになってやってきました、それまではカモの群れで水面が見えないほども埋め尽くされていましたが入れ替わるようにして白鳥の群れになりました。

大きくて優雅で人を恐れずに悠然としている姿はいいものです、遠来のお客様があると田圃を回って落ち穂をついばむ姿を見て頂いたものです、見慣れた光景も初めての方にしてみればハートを揺さぶられるような感動を覚えるようです。

子供の頃にはこうして身近にみられる存在ではなかったのですが、酒田市で餌つけをするなど尽力されたからでしょう、次第に数が増えて今では庄内平野のどこにでも見られるようになりました。

庄内平野の田んぼには養って有り余るほどの落ち穂が有るのでしょう、野生の生き物が身の回りで自然に過ごすのは心が豊かになる気がします、この幸せは庄内に住む者に天が与えた特別な恩恵だと思います、いつまでも続いてもらいたいものです。

 

昨日古巣の山大農学部で講演をしてきました

2015,11,13

 

ノーベル賞受賞者の「下村先生と対談」をして来ました

9月12日~13日新潟市の日本歯科大学主催の学会で、下村修先生がアメリカから20時間かけて来てくださり講演をされました、その晴れの舞台で私が「下村先生と対談をする」という嬉しいできごとがあった。

壇上の右端の二人が、下村先生と私

壇上の右端の二人が、下村先生と私

これは自分の胸一つにしまっておくにはもったいない、私だってこんな晴れがましいことを広く知ってもらいたいという人並みのひそかな思いを持っている、まあお読みいただいて彼奴もやっているなーと思っていただけたら隠居の身にも励みになる。

先生はオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質(GFP)を多くの困難をいかにして乗り越えて純粋な形で抽出できたか、なぜオワンクラゲの研究をしたのか、それがどんな利用のされ方をするのか、を約40分語った。

日本でウミホタルの発光体を純粋な形で抽出に成功したことで、アメリカのボストンに有るウッズホール研究所に招かれ、そこでオワンクラゲを研究テーマとして与えられたこと。

多くの画像やデータを使いながらゆっくりゆっくり説明をされた、GFPを抽出に成功して50年たってノーベル賞を受賞されたこと、授賞式の様子も多くの映像を使って紹介された。

下村先生の話は聞く人の胸に大きな感銘を与えて終わった。

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

 

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

先生は86歳になられてかなり体力的に衰えが見えて壇上に上がるもの支えが要るほどで、特に足腰が弱られたようだった。

そういえば昨年の10月14日に新しくなった加茂水族館にお出で頂いたが、あの時も「かなりお年を取られたなー」と思わずには居れなかった。

「もう日本には来れないかも知れない、今回が最後になるだろう」そのようにご自分でも話されていた位だから、この度の日本歯科大学の招待は実現しないのではないかと危ぶんでいた。

自宅から新潟空港まで20時間かかったとおっしゃっていたが、本当によく決心してきてくれたものと思う、やはり先生は夏の暑さで体調を崩されて日本に来るのは無理な状態になられたらしい。

その際に学会の方から「村上前館長も来る」と連絡したところ、先生は「それでは行く」と次第に元気になられ、体調に不安が残る中お出でになられた、、、そんないきさつを学会の関係者が何人も話してくれた。

頬をつねりたくなるような話だが別々に何人かが同じことを話してくれたから嘘ではないのだろう、そう言えばこんなことも有った、先生がアメリカから到着された夜に歓迎会が開かれた際、皆が席についている会場に案内されて入ってきて何やら探している風だった、真向かいに座る私の姿を見てご自分のネクタイを持って上下させ、にこにこして「頂いたネクタイをしてきたよ!」と無言で伝えてきた。

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

 

あれを見たときは嬉しかった、何がどうしたのか、何故なのかは分からないが、やはり私に会うことが楽しみでアメリカから来たのは確かなことだったようだ。

ノーベル賞と言えば庶民にとっては、光輝く太陽かはたまたエベレストの山頂か、近寄りがたく眩しい存在なのだ、その方が私ごときに何故こんなにやさしいのだろうと思う。

そして翌日先生の講演の後私と対談となった。

先生と私は同じテーブルに隣り合わせで座り、司会者の質問に答える形で対談となった、「加茂水族館とのご縁はどんないきさつから始まったのか?」その質問には「私が出した1通の手紙からだ、先生の受賞に感動してその思いを伝えるべく手紙を出したのだ」。

「その後平成22年4月には加茂水族館に奥様とご一緒にお出で下さった、そのことが大きく報道されて年間6万人の増客につながったのだ」

年間の増客が「6万人は6000万円の売り上げになり、その資金で新水族館建設に向けた準備をすべて整えることが出来た」

「クラゲ展示の拡大と充実をし、飼育員のレベルアップのために海外までも何度も派遣し研修や教育を行い、新水族館を想定して飼育員の採用、、などなど本来ならすべて市が資金を出すべきところだったが、市の金は使わずに現場の収入で賄うことが出来た、すべては下村先生の恩恵によるものだ」

先生が受賞されたとき、加茂のクラゲ展示は新水族館を作るにはまだまだ未熟だった、胸突き八丁に差し掛かっておりここからが一番大事な所だった、何とか先生をお呼びして「誇りと力、そして軍資金」を得て日本いち小さな加茂がクラゲ水族館に生まれ変わりたかった。

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

 

そのために私は「死なないくらげとして知られているベニクラゲをデザインしたネクタイを作り敬老の日に合わせて先生に送ったのだ」そして先生が来てくださり6万人の増客が5年間続き私の思いは実現した。

「何事も小さな1歩が大事だ、その後ご一緒に東京の有楽町にある国際フォーラムで話したり、2013年には先生のご厚意で対談をしそれが本になったり、去年の10月には再度訪問してくださったり。」

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「先生は子供の教育に対して、子供は構うな自然の中で自由に遊ばせておけ、そうすることで色々なことに興味をもつ人間になる、その方が何でも出来る優等生よりも将来性がある、、、、それが自分だ」、、、このように語っておられた。

社会に出て力を発揮するのは頭がいいとかいい大学を出たとかじゃないぞ、能力というものは積み重ねて計るものじゃない、掛け算で計算するものだ、「失敗を恐れて余計なことはするな、、黙っていろ、言われたことばかり取り組む」こう言った考えはマイナスかゼロだ。

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

そんな人はろくな仕事が出来ないだろう、、、、場所もわきまえずにそんなことを語った、先生は耳が遠くなられ会場からの質問や、司会者の言葉をほとんど聞き取ることが出来なかった、そのたびに隣に座る私が補聴器の役目を果たし質問に答えて頂いた。

無事に対談を終えたときには会場から結構大きな拍手や感動の声が上がっていた、ノーベル賞学者と東北の片田舎の小さな水族館の館長、、、という異色の対談は、「歯医者さんの学会」という場でもそれなりの評価を頂けたと思う。

そして19日新潟から帰って初めて水族館に出勤をしてメールを開いたら、学会の主催者から「来年下村先生を訪問することを」了解を得ているので、村上館長もぜひ参加して頂きたいという言葉が届いていた。

この世もまんざらではないな、こんな勉強嫌いな田舎者が世界的に偉大な学者と交流が出来るのだから、、、、。

雨後のイワナ釣り

今年の天気はどうもおかしい、お盆までは雨が降らずその後はとどまることを知らぬかのようによく降る、米作りだけではない、何事も同じだがこう極端に偏らず平均的に経過してくれれば助かるのだが。

昨夜の天気予報は20パーセントの確率だったが、実際に今日になったらとんでもない大雨になった、庄内地方に「大雨洪水注意報、雷注意報」が出ていますと言っていた、今年の天気予報は気象庁も振り回されている。

DSCN0084

※ 釣れた見事な姿形をした20センチのヤマメ。

「今日の午後ならいい水具合になって、イワナやヤマメが総出で餌を追っているだろう、しかしこの雨を狙っている釣り師が私だけとは限らないから、なるべくなら今日のうちに釣りに行くのが一番いい」、、、雨後の増水が意外に早く平水に収まることも有る、、、、とは思ったが、他の予定があってゆくことは出来なかった。

仕方がない明日にするかと思った、若いときにこんな決断は出来なかった、一度イワナ釣りに行くか、、、、と思えばもうどんな用事があろうが、「大雨洪水警報が出ているときに釣りに行く人がありますか」と家内が足にしがみ付いても、「降りすがる女房を蹴飛ばしても」行かずばならなかった、年を取るということは有り難い心にゆとりが出来て波風が立たなくなった。

4km甲斐犬との散歩を終えて朝食にした、「玄米パンに納豆を一パック乗せて、さらにゴマをすりながら納豆が見えなくなる程に掛けて、ウコンの粉末を入れた大豆タンパクを牛乳代わりに飲んで」おわる。

今日は11時半には歯医者に予約もある、食事が終わってもまだ朝の6時半だった、今から山に向かうのに30分かかる、2~3時間釣って11時に納竿して戻れば予約をすっぽかさずに済む。

こうしてまで釣りに行った昨日を振り返ってみると、75歳にもなったが20代の若い頃と大した進歩をしていないことが分かる、今でもイワナ釣りに行こうと決めるとやたらに気がはやるのだ。

本流をさけて小沢に入りエサの川虫を獲った、モンカゲロウは世代交代してすっかり小ぶりになっているが何とか使えそうだ、山奥に入るわけではない車がどんどん行き来する舗装道路から草生した空き地に車を入れた。

思ったよりも水は出ていなかった、濁りも少ないこれでは勝負するというよりもずるがしこい相手をいかにだますかの釣りになる、ちょっと弱気になってハリスを0,6号にした。

合わせ切れしない様に気を付けないと、あら嬉しや食いついたか、、、と思う間もなくハリス切れになる、人家の裏から竿を出してみた、誰も釣っていなければいいのが釣れるところだった。

DSCN0082

土手の上から6mのハエ竿を伸ばしてみたがいくら技術の粋をふるってみても反応がない、居れば食いつくはずだった、やはり誰かが昨日あたり釣りに来たのか。

下流に下がりながらいいポイントを釣ってみたがどこを探ろうが出なかった。やはり一足遅れたのだろう何処の何方かわからないが先を越されたのだ、せっかく楽しみにして来たが付いていなかったようだ。

あきらめて上流に向かった、右から1本の流れが合流する、、これは沢ではない、山かげの五十川からトンネルで庄内平野の稲作のために水を引く貴重な水路だった。

ここから上の本流に望みをかけた、しかし出なかったいくら丁寧に時間をかけて探ってもダメだった、右に孟宗の竹林があるそこを過ぎたところにいいポイントが出来ている。

この間来た時にここで33cmの良いやつが釣れた、「細いハエ竿が引き回されて面白かった」果たして今日は?下の本流から遡ってきたやつが居ればここを棲家にしたくなるはずだ、今日だってこの水具合ならいても可笑しくない。

しかし駄目だった下手の広がりをゆっくり攻めてみたがあたりは来なかった、この間はもっと強い濁りの中で最初の流しで食いついてきたのだが、中ほども、流れ込みもあたりは来なかった。

DSCN0090

ここで大雨が降ってきたしばし大木に身を寄せて休憩にした、「これで付きが変わるといいのだが」、これが良かったのかその直後に当たりが来た。

渕の上の変哲もないポイントだった、振り込んだ仕掛けが逆流に乗って流れ込みの石に近ずいたところで当たりが来た、期待もしないで合わせたらずっしりとした感触が来た、これは大きい尺ものがいたようだ、浅い流れの中で姿を見せずに引き回された。

流芯を横切って向こうに回ったり、流れに乗って下手に走ろうとしたり、、これは大きい尺どころではない、「0,6号のハリスが持つか?、」細い仕掛けを引きちぎって走る力は有りそうだ。
相手に合わせて動き回るのはもう不可能だ、何とかこの狭いポイントから出さずに弱らせるほかない、ハエ竿を大きく曲げて引き回された。

やりとりする時間だけは有った、見えてきたのはざっと尺2寸は有る、もう何年も釣っていない大物だ、背中の手網を下ろして掬った。

白い泡となって流れる流芯の右、変哲もないポイントで当たりが来た、すぐ下に有る良いポイントから出張してここで餌を食っていた様だ

白い泡となって流れる流芯の右、変哲もないポイントで当たりが来た、すぐ下に有る良いポイントから出張してここで餌を食っていた様だ

こいつは下手の住処から出張してここで餌を食っていたのだろう、こんな所にいる奴ではない、一冬かけて作った栢(かや)木(のき)の自慢の手網が初めて役立った、結構手間暇がかかったが丸でこの日のために作ったようだ、その後28cmのイワナ、20cmのヤマメが2匹釣れて納竿した。

このイワナとヤマメはまた焼き立てに醤油をかけて、大根おろしで食べてみよう、旨い筈だこの川で育った魚はどこよりも格段に味が良い

このイワナとヤマメはまた焼き立てに醤油をかけて、大根おろしで食べてみよう、旨い筈だこの川で育った魚はどこよりも格段に味が良い

大根おろしで食べる

大根おろしで食べる

引退して新たな生活に入ってみると、釣りを趣味にしたのはクラゲに出合ったことよりも幸運だった気がする、1週間は殴られても笑って過ごせるだろう。