年別: 2012

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その2

タヌキは人間の生活に依存している所が有る。雑食性の強みで山に雪が降って餌が無くなると、人の住む集落に降りてきて木に登って取り残しの柿やリンゴなどを食べる他に、畑のものや捨てた残飯を漁って腹を満たしている。

夜通し歩き回って餌を探して明け方になると山の寝ぐらに帰ってゆく。その足跡を追うのである。そのまま真っ直ぐに隠れ家に向かうことは無い。たどってゆくと山に入ってまずウサギの足跡にぴょんと飛び乗って、ウサギの足跡に載せて全く同じように歩く。

狸の足跡は一見すると猫と同じで見分けがつかないくらい似ている。よく見れば僅かに跡が大きいかなと思うぐらいの差だから、跡だけでは判断できない。

ここで突然狸の足跡が無くなるので初めて追う者は見失うことになる。さらに追って行くと大きく横に跳び追跡者から自分の足跡を消そうとする。これも寝ぐらが近ければの行動で読み込み済である。

しばらく行くと今度は大きな木に登り、横に張った枝の先から飛び降りて更に跡を消そうとする。こうした行動は何時身に付いたのかは知らないが、何万年もの間自分より強いものから身を守ろうとして自然と会得したのだろう。

山で狸より強いものは今は熊ぐらいだろう。明治より昔はオオカミが怖かったのだろうか。夜行性だからイヌワシやクマタカを意識はしないだろう。いや長い間一番の敵は人間に違いない。

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独立学園の校舎 – 屋根裏部屋が私の部屋で、3年間を過ごした

 

さらにつけて行くと足跡は尾根筋に出ていた。尾根には風が直接当たり新雪が飛ばされて中の固い雪だけが出ている。ここで足跡は完全に消えてしまう。

しかし矢張り狸も馬鹿なもので、ところどころにスポンスポンと踏み抜いた跡が有る。そしてちょっとした山を越えて陰の雑木林に続いていた。

一帯には数えきれないほどの木が生えていた。タヌキはその中に入って行き足跡は行ったり来たり、横切ったり何が何だか分からないほど入り乱れていた。

こうなるともうどこに居るのか、どのように追いかけて行けばいいのかさえ分からなくなる。もう追う術は絶たれたように思った。

少しうろついてみたが、立木の根元は雪が融けていて覗いても中がうかがえないほども底までも続いている。タヌキは木々すべての根元にもぐっては出てきて跡を付けていた。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

 

雪の深さは3mから4mある。すべての木の根元を掘り起こして確かめるのは不可能であった。私はギブアップであった。しかし連れて行ってくれた親父さんは「アーこれは簡単にどこに居るかわかる」と云ったのである。

この話を今年の10月獣医師さんの集まりでしたことが有った。「タヌキがどこに居るか分かる方が居ますか?」と尋ねたが、100人ほどいた中どなたの手も上がらなかった。

さらに「他の方はともかく獣医さんなら見当がつくのでは?」と付け加えたが反応は無かった。

しかし本当にあまりにも簡単に居場所を特定する方法が有ったのである。親父さんは私に「見てろ!」と言ってその辺一帯を大きく一回りした。

大きな声で狸の足跡を「出た跡、入った跡」と数えていた。一回りしてその範囲に入った跡が一つでも多ければその中に居るという事になる。矢張り足跡は入ったものが多かった。

次はどの木が一番それらしいかを見定めて、その周りを一回りした。「ここだここだ、こごさ居た」とあっという間に隠れ家は見破られてしまった。

獣でも人間でも雪に付いた足跡は進んだ方向が分かるもので、それを応用しただけのごく簡単な方法で有った。しかし人間社会に慣れてしまえばその感覚は失われてしまう。

犬や猫に家畜などを毎日扱う獣医さんでさえ、手も足も出なかったのだ。不可能と見えた最後の詰めも、山の人たちは生活の知恵として身に着けていた。私はこの時ものすごい感動を受けた。一見行き止まりに見えるこの世の出来事も、自分がそう思うだけで実は解決する方法が有るのだと、山の中で教えられた気がした。

背負ってきたシャベルで雪を掘ると木の根元の穴は岩につながっていて、穴が有った。そこに仲良く2匹の狸が隠れていた。

もう鉄砲は不要だった。先が二股になった木の枝を切り取ってきて、一人が狸の首を押さえている間に、もう一人が腹這いになってもぐりこんで足に縄を縛り付けた。

こうして2匹の狸は男どもの手におち、歓声が上がった。

狸の話はここで終わってもいいのだが、もう一つ紹介したい狸捕りの場面を思いだしたので付け加えることにする。(続く)

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その1

いまどき狸を捕まえるなどと言っても「何であんなものを・・・そこらへんに一杯居るじゃないか」といぶかしがられるかもしれないが、昔は毛皮を結構高い値で売り買いされていたし、肉も喜んで食べられていた時代もあったのである。

そんな高校時代の事を思い出して少し書いてみたくなった。昭和30年から33年までが私の高校時代だったから、もう50年以上60年に近い月日が流れたことになる。

私は不思議な縁で飯豊山の山懐にある「小さな高校」に入学できた。今は小国町に合併されたが当時は津川村と云って誠に小さな村だった。駅から8kmも奥に有ったがバスも無し足だけが頼りだった。

冬になれば4m近い雪が積もったし川添にところどころに集落が有るだけで、まさに平家の落ち武者が人里離れて住み着いたと言えばそんな感じもする寂しい所だった。

何でそんな所に高校なんか建てたのかと不思議に思うが、これがまた変わっている。津川村は国鉄の米坂線が開通する前には陸の孤島と云われ、日本一不便なところだと定評があった所だ。

だからこそ本当の教育が出来ると考えた校長が、家屋敷を売りはらって引越し、自宅がいつの間にか高校の校舎として使われて小人数の学校が出来上がっていた。とまあこんな事情が有る。

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キリスト教独立学園 – ぼろぼろで納屋と間違えられそうな校舎

 

40人に満たない全校生徒で、しかも授業料は県立と同じだったから成り立つはずが無いのだが、貧乏のどん底で四苦八苦しながら続けていた。そんなとこに入学したのである。

入学式の日に校長は「勉強をするな」と云った。本当は前おきに大学受験のための・・・と付いていたがそれは切り捨てた。これは有り難かった。何より嫌いな勉強から解放されたのである。

堂々と3年間授業以外の勉強は1度もしなかった。「嘘をつくな、たばこを吸うな、酒は飲むな」と約束させられた他には何も制約はなかった。落ちこぼれだった中学時代が砂をかむような日々で、今度は毎日が日曜日のような嬉しさだった。

冬になれば皆はスキーをしたが私は人と同じことが嫌いで、せっかく山奥に来たんだからと、鉄砲を撃ってはウサギや鳥を捕まえて食べていた。いつも腹が減っていたしまた楽しかったからだ。

高校生が鉄砲を撃つなど考えるまでもなく禁じられていたが、お巡りさんが居るわけでもなし、山の中だから猟期以外にだれが鉄砲を撃とうが、気にする人とていなかった。

知り合いの村のおやじさんに「鉄砲と弾を借してくれー」と言えば貸してくれた。そっと寮の部屋に隠しておいて、日曜日になるとウサギ撃ちに出かけた。

山の稜線に先回りして鉄砲を構えて下級生が追い上げるウサギを撃った。走って逃げる山ウサギをよく狙って撃ってもなかなか当たらない物だった。下手だったがそれ以上に鉄砲の口径が小さかったことも有ったろう。

魚屋も、勿論肉屋も無いし山の中でのご馳走は獣の肉しかない時代だった。どんな獲物も大喜びで歓迎された。

熊とか、むじな(アナグマ)、ヤマドリは別格の獲物でそう簡単に捕れるものではなく、めったに口に入ることは無かった。次の獲物は狸であった。これもそう簡単には捕れなかったが捕れれば近所のおやじ達が皆寄ってきて、どぶろくを飲みながらの大宴会になった。

今食べろと言われてもあの獣臭さはどうにも我慢が出来ないが、あのころはそんな思いをした記憶がない。白く厚い脂肪層が有って牛肉の様だと思って食べたものである。

いよいよ本題に入るが、タヌキの足跡はいたるところに付いていて、追いかければ寝ぐらにたどり着けそうに思うが、そうは行かない。深い雪の中を一晩で2里(8km)歩くと言われていた。

山の中をかんじきを履いて深雪を踏み固めながらとても8kmは歩けない。そこで頭を働かせ朝まで雪が降ってその後止んだ日に追いかければ、寝ぐらに帰る足跡だけが残っている。そのぐらいの距離だったら追いつけると考えた。(続く)

雨漏りには参った

先月の末(10月29日)から新水族館建設の工事が始まっている。連日目の前の駐車場で重機が地面を掘り返している音がやかましいくらいだ。

駐車場が狭くなり訪れるお客様にすっかり迷惑をかけている。まあこれも50年に一度の生みの苦しみの一つなのだろうから、ご勘弁いただく他無い。しかし完成するのが来年の12月ごろなので、こんな状態で1年間営業を続けることになる。これも今から苦労の種と心配でもある。

このところ特に入館者が増えたせいで、5月の連休とか夏休みには相当な混雑ぶりが予想される。この近くの空き地は全て使わせて頂いて対応するつもりだ。それでもかなり迷惑をかけてしまいそうだ。

今朝一番で工事の業者さんが、分厚く製本された工事の設計図を持ってきてくれた。これまで何度となく打ち合わせをしてきた内容だが、改めて開いてみると全ての水槽に擬岩が描かれていた。

擬岩の絵を見ているうちに何だか涙がこぼれそうになった。他の水族館では普通にある水槽内の擬岩がここ加茂水族館にはなかったのである。49年前に建てられた時に何がどうしたのかは分からないが、海水魚にも淡水魚にも、アシカやアザラシのプールにも、擬岩は取り付けて無かった。

ただの四角いコンクリートの箱が展示水槽だった。殺風景なことこの上ないとはこの事、何とかして他の水族館みたいないかにも自然らしい雰囲気の出るかっこいい擬岩が欲しかった。

擬岩のない水槽

擬岩のない水槽

 

もう30年にもなったか、昭和55年と56年だった。海水魚水槽を取り壊して作り変える工事をしたことが有った。

水槽の割に小さかったガラス窓を倍の面積にして、深さと奥行きを50%大きくする工事をした。この時に擬岩を取り付けることも計画したが、とても専門の業者をたのむだけの資金が無く、断念せざるを得なかった。

しかし何とかまがい物でもいいから取り付けたかった。知り合いの左官屋さんにお願いして、コテで薄い擬岩らしきものを作ってもらい、水槽の壁に貼り付けてみた。しかし見栄えしない上に薄く作った分ただのコンクリートの凸凹にしか見えなかった。

矢張りいかにも岩らしい色が無ければ役に立たない。色は職員で手分けして塗ってみた。やってみると色付けが予想以上に難しい事が分かった。幾ら頑張ってもそれらしい色にはならなかった。

何とか作ってみた擬岩

何とか作ってみた擬岩

 

どうにもならないままに水を張って魚を入れてしまった。以来30数年も肩身の狭い思いをしながら過ごしたことになる。あのころの思いが甦ってきて、ついつい泣きそうになってしまったと言う次第だ。本当に貧乏はしたくない。

新しい水族館に生まれ変わるのが楽しみな理由が他にもある。ここは何時頃からか雨漏りがして止めることが出来ずにいる。お客様はその気になって通路の天井を見上げれば、あちこちシミが見えるし貼り紙が剥がれている所もあるはずだ。

静かに降る雨だと漏ることは無いが、風が伴うとどこから来るのかたどりようも無い。予想だにしない所から浸みだして漏るのである。勿論それと思えるところは全て手当したが、風が強いと壁に張り付いた雨がひび割れを伝って中に浸みいり、天井に滴り落ちてくる。

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仕方がないので天井裏で大きな漏斗で受けて配管で外に出すようにしているが、それでも毎年新しい雨漏りができて天井から落ちてくる。これが館長としては実に情けなかった。

今どき雨漏りがする水族館なんてそうある訳がない。床に何個もバケツを置いて滴る雨漏りを受けるたびに、「困ったもんだノー、クラゲで有名にはなったが雨が漏る水族館ではノー、ヤンダクなったなー。」ほんと穴が有ったら入りたい心境だった。

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擬岩が有って雨漏りのしない当たり前の水族館がつくづく有り難いと思う。

石巻市の出来事

10月の17日に宮城県の東松島市に講演のために行ってきた。「これから長い復興の苦労が続くので市民に何か元気が出る話をしてくれ」と、頼まれたのが理由だったがいざ引き受けてみてから、とんでもない事を引き受けてしまった事に気が付いた。

震災で1000人以上の死者をだし大きな被害を受けた方々に、だれがどんな話をしたところで慰めにもならないだろうことは想像に難くない。

そう思ったら断りたくなったが持ち前の優柔不断が、ずるずるとただ時を過ごしてしまい、当日が来ていた。

風邪を引いていて具合が悪かったが何とかその時間だけ元気を出して、無事講演を終えることが出来た。成功したかどうかは何とも言えないが約束を果たしたことだけは言えるであろう。

今日の人情話は講演が終わったところから始まる。終わって控室に戻ると間もなく、小学校4~5年生ぐらいの女の子と父親が訪ねてきた。聞けば隣の石巻市から来たと言う。

お父さんの語る所では「4年前に加茂水族館でゴマフアザラシの子供が2頭生まれ、名前を募集したことが有った。それに応募したところ合格して記念品としてアザラシのぬいぐるみなどをもらった。しかし津波で水没してアザラシのぬいぐるみを失ってしまった。」との事。 続きを読む

いよいよ10月、新水族館の着工の月が来た

9月も今日が最後だ。今年は真夏の暑さが9月にずれ込んだようにひどい暑さが続いた。暑い暑いと悪態を言いながら過ぎてしまえば早く感じる。そして月末の今日で今月の入館者が何名だったかが決まる。

いい加減館長と自称している私と言えども、経営を預かるという事はいつも売り上げやら、利益やらが気にかかるしがない立場にある。

9月も終わりだなー、いよいよ新水族館の建設が着工されるとぼんやり考えていたら、全く別の場面を思い出したのだから私は根っからの経営者にはなれないのかも知れない。

もう何年過ぎただろう、ある日突然思いついて3日間の休みを取った。あれが9月の28~30日だったのである。何か人様に語るような高尚な思い付きではなかった。

とにかく休みを取ってイワナ釣り三昧をしようと考えその気持ちを抑えきれなかったのである。そのきっかけになったのが「クマ」だった。神奈川県にある油壷水族館の飼育係をしている中井という男をイワナ釣りに案内して山の奥でクマに出会ったのである。

新潟県境に近い所にいい沢が有る。狙いが当たって7~8寸の食い頃サイズがジャンジャン釣れた。奥に行くほどにますます良くなる。川虫を捕る私をしり目に先に行っていた中井さんがなんだか言いながら大急ぎで戻ってきた。「くっくっく・・・」とどもっていた。

「何だでー・・・大きいのに逃げられたかー」というと、「熊が出たクマが出たびっくりして逃げてきた。」「釣っていたら後ろの藪がガサガサ云ったので見たらクマが飛び出してきた。」「もう怖くて釣りは出来ない」と言う。

逃げたクマは何でもないもんだ、大丈夫だからまた釣りをしてくれと言ったが、とても聞き入れてくれる状態ではなかった。

実は20年以上も付き合った相棒を亡くしてイワナ釣りを7年間も止めていたのである。今日も一応竿は背負っていたが釣りはせずに餌の川虫捕りをしていた。「釣り放題の宝の山」に入って途中で止めるて帰るわけには行かなかった。

中井さんが釣りしないなら仕方がない俺がやるか、「んだば俺がやって見っかー。」腕は落ちていなかった。自在に竿を操り枝を広げた沈木の間から大イワナを誘い出して釣った。

奥の滝まで約100mを釣り上がっていいのを20ぐらいも釣った。あっという間で釣りは終わった。ドウドウト落ちる滝を見上げてみれば体にさわやかな血が流れている。俺は釣りを止めれない・・・やりたいんだと悟った。

一度抑えたイワナ釣りへの気持ちも、歯止めが取れてしまえばもう止めようがなかった。むらむらと腹の底からこみ上げるイワナ釣りをしたい・・・という気持ちが噴出して、どこかで3連休を取って釣り三昧の日を過ごそうと思った。

そして鳥海山の懐にある良い景色の渓谷を思い出した。訪れる人とていない隠れ沢ではなくて「2の滝」という結構知られた景勝地である。何であそこが・・・と思われるかもしれないが、あそこの近くにニジマスやヤマメを養殖している施設があって、展示の魚が不足するとよく貰いに行っていた。

その時に1時間ほど渓谷に降りてイワナ釣りをしていたのである。見事な大岩が重なり合って急こう配で釣りあがるのは骨が折れたが、20匹前後のイワナがいつも釣れていたのを思い出したのである。

初日に行くのは2の滝と決め行ってみた。滝の上に神社が有ってその下に踏み跡が有って川に降りられる。しかしイワナって奴は滝の上は嫌うようでしばらくは釣れない。

沢に降りたら7年ぶりに釣りに来た興奮が襲ってきた。仕掛けを取り付ける手が小刻みに震えている。石を起こして川虫を捕る手にやたらと力が入る。小雨が降っていたが夢中になってイワナを釣った。

やがて雨が強くなって頭の上で「ガラガラドンドン」と雷の大音響がしたが気にならなかった。2時間かかって1の滝まで釣りあがってきた。習慣のように数は覚えているが60以上は釣ったろう・・・背中の発泡スチロールの箱にも8寸以上のいいのが20以上は入っている。

全身ずぶ濡れになって納竿した。そして翌日は更に奥の秋田県境に近い女郎沢でまた同じ数を釣った。そして3日目が来たがさすがにもうここまでだった。朝目を覚ましても釣りをしたい気持ちはどこにもなかった。

あれから10年は過ぎただろう。もう口ばかり達者な老人になってしまった。動かないこと山の如しが今の私だ。

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川マスは大根おろしと醤油で喰うべし

毎朝のガラス拭きの仕事も長くなった。入り口は西に面していて天気次第で海風をまともに受ける。潮しぶきが付着すれば簡単には綺麗にならない。そんな日は水をたっぷり吸わせたタオルで流して、又流して3度目辺りでやっと綺麗になる。

70歳を2~3年も過ぎているが、これも運動のつもりでしているので苦になることはない。誰かが気を利かせて先に拭いてしまっていることが有る。そんなときは「誰だ、私を運動不足にして若死にさせようとしている」とからかうと、手を出さなくなる。

健康に気は使う方だと思う。甲斐犬をお供にして毎日約5kmの散歩はしているが上半身を動かすことが無いのだ。これを思いついてもう20年以上になる。今日もいつものように海水魚の水槽を拭いて回った。

8号の水槽に毎日気になる魚がいる。この水槽はたったの10tしかないが水温が下げられていて、1mを超すイシナギや頭がボールのように飛び出したコブダイ、またホッケの群れなどに混じってサクラマスが入っている。これが気になる魚の正体である。

去年の6月だったと思う。18cmほどのヤマメを入れてから日に日に成長して行く姿を眺めては、どこまで成長するのかを楽しみにしてきた。成長のスピードは実に早い。えさを追うのはどの魚も敵わない速さが有る。

あれから1年と半年が過ぎた。産卵期が近づいた今ではオスは桜色に赤く染まり全長60cm、重さは3kgほどになった。

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結露を拭いてガラス面に顔を近づけると、遠い昔が甦ってくるのである。子供のころにガラス箱や、水中メガネでのぞく向こうに銀色に白く光った川マスを見たときの興奮が再現される。だれにも話したことはないがこれが楽しみで毎日ガラスを拭いているようなものだ。

思い出も、もう遠い昔になったが昭和30年ごろの話である。夏休みになれば小学生は皆が近くの川に魚捕りに行って遊んだ。捕れる魚は鰍がほとんどを占めていた。

毎日同じところで鰍を取っているのに減った感じがしなかったので、それだけいたという事だろう。大勢が毎日わいわいがやがやとにぎやかに魚捕りに興じていたが、その中の誰かが1匹でもナマズを捕ればその者がその日のチャンピオンだった。

いわば毎日の魚とりの中で一番の獲物がナマズだったのである。中学になるとガラス箱を持つのを止めて、「ダンコメガネ」と呼んだ水中眼鏡をかけて、淵から淵へと渡り歩きながら潜ってはナマズとハヤの大きいのを取っていた。

マスは狙って捕れるほどはいなかったが、雨で増水した後とか、たまには宝くじにでも当たったように出会うことが有る。1匹でもマスを捕ればうわさが広がって行きまるで英雄にでもなったように子供たちに羨望のまなざしで見られたものだった。

サクラマスは60cm近い大きさが有ったので,ヤスで刺しても押さえつけて捕まえるだけの体力が無いと逃げられてしまう。私も小学5年ごろだったと思うが、垂れた葛のツルの下に隠れていたサクラマスを刺したことが有ったが、あっという間もなくヤスは跳ね飛ばされて逃げられてしまった。

もう62年も昔の事だが悔しかった思いと、桜色に染まったマスのよこ腹が「天然色カラー」で鮮明によみがえってくるから、逃げられたあの日の印象は強いものだったとおもう。

マスの隠れ場所は淵ごとに違っていた。土手に大きな穴が有れば深く潜っていってその中を覗いたし、柳の枝が水中に垂れ下がっていればかきわけて奥を探した。川が大きくカーブしたところには木工沈床で組まれた護岸が有った。

電信柱のような丸太で組んだ間に一抱えもある石を多数並べて詰めて組んだもので、洪水から河岸を守るためのものだった。今なら小型のテトラポットが置かれたりコンクリートで固められてしまう所だろうが、昔は自然にやさしい工法がとられていた。

殆んどの沈床は下の方の石が崩れて洞穴状になって鯉やナマズにウグイの大物など、まるで魚のアパートのようになってごちゃごちゃといた。しかし沈床の下は危険が潜んでいて潜るのに度胸が必要だった。

丸太に出ていた釘にパンツが引っかかって危うく死にそうになったとか噂が有ったし、天井のように組まれている石がいつ何時落ちて来るか分からず、危険な匂いがしたが魚がいると言う魅力には勝てなかった。

あのころ中学の1~2年にはなっていたと思うのだが、目の前に60cmもあるマスが居るとまるで1mもある巨大なキングサーモンのように見えた。手に持つヤスが急に貧弱に思えてこれで刺しても跳ね飛ばされるなー・・・と思ったものである。

鰓ぶたの所を刺して飛び掛かるようにしてマスを押さえつけた。この辺からはもう現実のものではなくなり、夢の中の出来事のような映画を見ているように意識が飛んでしまう。しかしマスがバタバタと暴れる感触が今でも腕に残っている。

はじめてマスを捕った時は嬉しさのあまり橋の上に上がって、マスを持つ手を高く上げて「ますしぇめだー、ますしぇめだー」と舞い踊った。腹の底から湧きあがるあの感動を今の子供たちにもさせてやりたいものだ。

マスが川を遡って来るのは大体田植えが済んで1番除草をする頃だった。農家が忙しい盛りだったが魚とりの好きな者は大きなガラス箱と、腕ほどもある太い木の柄の付いた「マス突きヤス」を持って川に出かけて行った。

学校から帰る頃にぶらぶらと柳の枝に2匹も3匹もマスをぶら下げて帰ってくる大人を時々見ては羨ましかった。

忙しい農作業の合間に捕ってくるマスは、早速焼いて食卓に上がった。食料の乏しかった昭和30年ごろの事だから、海から上がってくるマスは大変なご馳走だった。焼いて熱いうちに醤油をかけてダイコン下しを乗せてかぶりついた。

なぜかマスとヤマメには大根おろしがつきもので、これほどうまい魚は他にあるまいと思って食べた。

今日は9月の17日だ。ここのサクラマスもあとひと月の寿命という所か。密かな楽しみもまた次のヤマメの成長に取ってかわる。まずは健康第一ガラス拭きを続けよう。(写真は岡部夏雄氏より拝借した)

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警察官に悪いことしろとは

先日、テレビタックルでお馴染みの江口ともみさんが、TBSの別の番組の収録に来てくれた。あの番組は私も好きで良く見ている。いつもいい大人たちが興奮して怒鳴り合いになる、本当はそう見えるだけでおそらくは事前に打ち合わせをして、ゆるい約束が有ってのやり取りであろうが、口角泡を飛ばしながらの口論は思わず引き込まれて面白い。

わざわざ東京からやって来たTBSの関心は、この50年になろうとしている古い小さな水族館が、意外や意外、中に入れば世界一のものが有る。この意表を突いた組み合わせにあるらしい。

確かに入ったところは薄暗い雰囲気だし、昔懐かしい汽車窓式の水槽が並んでレトロな感じがしている。天井を見れば何やら雨漏りらしい跡も見える。

普通に見れば世界一どころか倒産の心配さえ浮かぶみすぼらしさだ。しかしここが生き残りのためにした世界一のクラゲ展示と、それを広く知らしめるための取組みを知ると皆さんが面白いと笑顔になる。

それはそうであろう。売店には堂々と「クラゲ入り饅頭、羊羹」が売られているし、その先にあるレストランには「クラゲレストラン」の看板がぶら下がっている。これをやるには並みではない度胸が居るのだ。

レストランにはクラゲの入った面白い料理が並んでクラゲ入りのコーヒーさえあるのだ。一つ一つの料理に思い入れが有って、出来たときにはマスコミさんが大勢来て報道してくれた。地元だけではない東京から来るテレビ局さんも必ず目を輝かして取材してくれた。

パンツまで脱いだ素っ裸であぐらをかいて、「どうでもしやがれ」と居直ったような加茂水族館の破天荒の取り組みは、マスコミさんだけではなくどなたが知っても興味がわくらしい。

去年の1月だったが、県内の警察署と名乗る電話が有った。悪い事をしている訳ではないが、矢張り警察と聞くと身構えてしまう。

何事だろうと心配したが「館長さんに講演をお願いしたい」という。そのぐらいの用だったら何とかなる。「私で良いなら行きましょう」と答えてしまった。

当日はそこの地区のお巡りさんがほとんど集合していたと見えて、その数ざっと100人という所か、きちんと制服を着た集団は迫力が有る。誰かの号令に合わせて靴音を響かせて一斉に礼をして席に着いた。

いつも私の話は決まっている。評論家でもないので相手に合わせた臨機応変の話など出来るわけがない。長い歴史の中に起こる波乱の運命とどん底を迎えた暗い日々、そしてクラゲに出会ってからの奇跡の回復。

見事な離れ業をやってのけたあっぱれいい男を目の前に再現する。「いいか頭がよくて、勉強ができるからと言って立派な人間にはなれないぞ。」「その人の能力はほとんど子供のころに決まってしまうものだ。」

「あなた方が子供に戻れるなら勉強は半分でいい、あとの半分は好きな事をとことんやれ。」そしてもう一つある「何だかわかるか・・・それはなー悪い事をしろ・・・」

悪い事も出来ない奴は立派な人にはなれないんだ・・・と言って顔を上げたら、目の前には制服の警官が席をうずめていた。そうだった今日はお巡りさんの前で話していたんだと気が付いた。途端に次の言葉が出てこなかった。

小さな声で「いや済みません、今の言葉は取り消します・・・」と言わざるを得なかった。

オキナグサとの出会い

帰ってきたばかりと云うのに、もうなんだかこの世の出来事ではなかったような、はるか遠い昔の出来事のような、はたまた夢の中の出来事だったようなあやふやさがある。

もともと私はオキナグサには興味が無かったし、どうしても見たいと思うほど力が入ることも無かったのに、思いが叶わなかったばかりに余計執着してしまったようだ。

子供の頃には山手の田んぼの土手や、草刈り場などに行くと結構咲いていたものだったが、何時の間にか見られなくなっていて、気がついたときには殆ど手遅れだった。

10年ほど前に写真好きの友達に尋ねられたのがきっかけだったが、だれに訊ねても自ら探せども出会うことは無かった。殆どの人は「あー有るよ、今でも咲いているはずだ」と答えたが。

いざその時期になって「行って見たが1本も無かった、ついこの間までは確かに有ったのだが」という返事がまるで判を押したように返ってきた。

オキナグサぐらいそう難しいことではあるまいと高をくくっていたが、さがしはじめて難しいことが分かってきた。

ほんの数年の間に取り巻く環境が大きく変わっていたことに気がつかなかった。

確かにメダカやアブラハヤ、各種のタナゴにオイカワまでも姿を消して展示のために採集するのに苦労していたが、うっかりしていたが水中だけの事ではなかったのだ。無いとなると自然が残っていると思われている此の庄内でもこうなのである。

そうなると余計見たくなるのが人の常、何とかどこかに少しぐらい残っていても良さそうな物だとおもい、折に触れては人に尋ね一寸した話を聞き込めば、刺さり込んで情報を集めたりした。

もう殆ど執念のようなものだった。「一度でいいから野生のオキナグサに出会って、写真を撮りたい。」別に掘り取ってきて鉢に植えようなんて姑息な考えはない。欲しけりゃ売っているじゃ無いか、俺はただ野生の本物に出会いたいのだ。

大昔にラジオのドラマに「君の名は」と云うのがあった。若い二人が出会いそうで出会えない、じれったいすれ違いの物語だった。放送の時間になると風呂屋に女客が居なくなるといわれ、一世を風靡したことが有ったが、あれに気持ちは通じるものがある。

其れが昨日念願かなって出会えたのである。突然の電話だった。かすかに聞き覚えのある声で、阿蘇生と名乗り「秋田県の鳥海山ろくに確かにある」という。「行ってみる気は今でもあるか?」というもので有った。

6年前に親戚のお葬式で出会った、見知らぬ方であった。7日法要の後の直おらいでたまたま出したオキナグサの話を覚えていてくれたようだ。

嬉しかったしありがたかった。今度こそ実現しそうだと直感した。二つ返事でお願いした。その方の酒田市のお宅から約40分、鳥海山の秋田県側の懐深いいい景色が広がる高原の田園地帯の中に突然ぽつんと小さな食堂があらわれた。

この小さな「マサ苑」という名の食堂のご夫婦が案内人であった。

食堂から数百メートル向こうに見える田んぼの外れの山すそが、オキナグサへの入り口だった。軽のワゴン車に4人が乗り木々の枝に囲まれた細い山道を登っていった。

ただただ木々の枝だけが視界を遮り見通しは全く利かない。天空に続くかと思えるほどの急な上り道だった。ガタガタゴットンと天井に頭が着くほどに車は揺れた。ちょっと間違えたら車は藪に突っ込むか反対側のがけ下に転落するかしただろう。

まだ幾らも登らないうちだった。運転していたオヤジさんが突然ハンドルをもつ左の手にライターを握り締めて、カチャカチャと火をつけ始めたのである。そして右の手に持つキセルを咥えて顔を近かづけて火をつけたのである。

この間車は走らせっぱなし、危ない山道でのハンドル操作を続けていたのだから恐れ入る。

相当のタバコ好きと見えた。数分おきに右手1本でキザミ煙草を詰め替えては、左の手でカチャカチャとライターを鳴らして火をつけていた。あれはもう危ないとか言ってるような生易しいものではなかった。「いよー天晴れいい男」と声を掛けたくなるような離れ業だった。

そして突然木の背が低くなってまばらになったと思ったら、地面が芝生に変わり、視界が開けてそのままこじんまりした牧場になっていた。

道が有るようなないような牧場の中に軽のワゴン車は入っていった。「ここいらは一面、白くなるほどオキナグサがあったのだが・・・」という声とは違い、見ても探しても見つからなかった。

去年は確かにあったという高台にも行って車を止めて4人で探してみたが無い。有ったのはオキナグサならぬアズマギクの群生であった。此れだって今時簡単に見つかるほどには無くなった貴重な植物である。

此の牧場は誰しもが持つイメージとは違っていた。見渡す限りに何処までも続く広大なものではなく、あっちに一つこっちに二つと散在する草地を、道でつないだ複雑なもので、1つ1つはそんなに大きくはない。

オヤジさんは何とか私にオキナグサを見せたいと、あっちこっちと回っては、「此の間までこの辺は一面咲いていたのだが」と首をひねっていた。

そして思い切ったように藪道に車を入れた。しばらく木々の枝に車体をこすりながら走ったその先に、再び芝生の台地が現れて、遂に出会うことになった。

車を止めたその席からオヤジさんは「あった!」と大きな声を上げた。

幾ら目を凝らしても私の目には「白い産毛に包まれた幻の花」は見えなかった。

親父さんの後について行って指差す先をみて初めて目に入った。思っていたより、白い産毛も赤い花びらも周りの草に溶け込んでいて目立たないものだった。

3本が一つの株になって2本は今が見ごろの、奇麗な濃い赤色の花が下に向いて咲いていた。

やっと出会えたオキナグサは、その辺を探して他に3株だけが見つかった。「恐らく来年は芽を出すまい」それほど頼りなくひっそりと咲いていた。

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上野の山は真っ暗だった

どうも年を取ったせいだろう、このごろ思い出すのはずいぶん昔の切なかった仕事の場面ばかりだ。いまさら思い出したとしても仕方のない事だが、今日は夜の東京、上野の山をさまよった夢か幻のようなシーンを語ってみたい。

あれは確か平成6年だった。あのころはまだ新幹線が東京駅まで乗り入れしていなく、上野駅が終点だった。八丁堀にあった東京の本社に、難しい問題を抱えて出張したのは10月の中ごろだったと思う。

3月から始めた「ラッコの展示」が思わしくなかったのである。ラッコは1頭1500万円もする高価な動物だが、貝を割るしぐさや顔の可愛さから国民的な人気が有り、展示した水族館はいずれも入館者が倍増していた。

遅ればせながらラッコの人気にあやかって、どん底を迎えていた経営を一気に挽回しようと考えたのである。ラッコの飼育には金がかかる。冷たい海に生息する生き物だから水槽を年中14度以下に下げなければならない。

意外に思われるかもしれないが寒い所に生息する割には体脂肪は少なく、いつも毛づくろいをしては厚い綿毛に空気を吹き込み断熱し、多く食べてそのカロリーで体温を保っている。

毛づくろいの度にびっしり生えた綿毛が抜けるし、多く食べた分多くの排泄をする。ラッコには魚の比ではない大きな濾過槽が必要だった。

そして鮮度のいいアジやイカに加えて大型の貝を与えなければならなかったので餌代がかさむ。

工事資金を東京の本社に借りに行ったが、何だかんだと言いがかりのような理屈をつけて、予定の金額の3分の1しか貸してくれなかった。しかし不足分は必ず増客した収入で支払いができると自信が有った。

わずかながら客が増えたのは、展示を開始した3月から6月までの4か月間だけだった。工事に掛かったお金を売り上げで支払っていたから、10月になると手もちのお金が底をついてきた。

知り合いの業者に支払いを伸ばしてもらったり分割してもらったり、今度の日曜日に多少売り上げが有るからその翌日に払おうとか、やりくり算段していたが、これから訪れる雪の季節を乗り切るだけの資金はどこにもなかった。

思い出してみれば笑い話のようなことも起きた。あのころまだ庄内の磯釣りは結構盛んだった。どこの釣り大会だったか忘れたが会員の私も参加するために、磯の上に立って庄内竿を振り回してクロダイを狙っていた。遠くで誰かが私を呼んでいる声が聞こえてきた。

微かに女性の声で「館長ー、かんちょうー」と言っている、振り返ると経理の田沢さんが声の限りに私を呼んでいた、「何だでー・・・この忙しいのに」と思ったが、竿を置いて行ってみると、今日は支払日であるとの事、そして資金が足りないがどうしたら良いだろうと切羽詰まった顔をしていた。

大切な支払い日を忘れてクロダイを釣っていた。これはしまった大きなしくじりをしてしまった。あわてて職場に戻ってやり繰りすると言う笑えない笑い話もあった。

収入のほとんど見込めない冬を越すにはどこかから借り入れをする他なかった。そして「意を決しての本社詣」だったのである。頭ごなしに叱られることは分かっていた。本社の経理を担当していた副社長に事情を話すと、逃げ道をふさがれて前から責め立てられた。予想をはるかに上回るひどい怒られ方だった。

咽から出かかった「あんたがこっちの要求を無視して、希望の3分の1しか貸してくれなかったから金が無くなったんだ」という言葉をぐっと飲み込んだ。怒りに高ぶった声は次第に大きくなって「こんなことをするような奴は必要ない人間だ」とまで言われてしまった。

情けなかったが数字がすべての世界だった。黒字ではあったが資金は見事に無くなっていた。

すべては見込みを誤った私の責任だ。頭を何度下げたことか、何時間経過したかも定かでなかった。どうにか1500万円の借り入れを承認してもらい、本社のビルを出た。

こんな面白くもないところは早く退散したかった。そして上野駅に来ては見たものの予定していた発車時刻は夜の9時だった。時間はたっぷりあった。ぽつんと駅のホームに座っていても悶々と言い訳や、恨み、つらみが消えては浮かぶ。「俺は本当にこの世にいらない人間なのか?」思い余って上野の山に上がってみた。

どこをどう歩いたのか不案内な山は街灯も少なく、枝を張った大木が光を遮り真っ暗だった。ふらふらと彷徨う先に黒いシルエットのように佇むアベックの姿もあった。

普段の自分だったら寄り添う二人は気になる人影だったが、暗く押しつぶされた今の自分には羨ましくも腹立たしくもなく唯々うろうろと歩き回っていた。

特にあの会社が厳しかったわけではない。民間の会社なら多かれ少なかれ似たような厳しい経営がされている。倒産すれば働いている職員だけではなく、取り巻く多くの人に迷惑がかかる。

もし出入りしている多くの業者さんに支払いが出来なくなれば、そのお金を当てにしていた相手が倒産しかねない事になる。企業はいい時も悪い時も健全な経営を続けることを義務づけられていると言って良いだろう。あれは実に大きな教訓になった。

6万匹の岩魚を釣らされた

もう20年も前のことになるが、年に60回も山に入り岩魚釣りに明け暮れていた事があった。あのころは週に1度の休みだったから、4月の解禁から9月末まで毎週山に入ったとしても20数回しかならない。

年に60回となると普通の勤め人には不可能な回数である。私の場合はどうしてそのような事が出来たのかというと、好きでやっていたのではなく、水族館と言うよりは会社の大事な仕事の一環としてやらされていたのである。

好きなことだから良いじゃ無いかと思うかもしれないが、これだって度を越せば苦労の種になる。毎月2度か3度東京からオーナーがやってきて、自分の経営するホテルに作った別荘に泊まり、3日~4日朝早くから夕方までイワナつりをして山遊び三昧の日々を過ごしていた。

そのお供と云う役割が私であった。庄内に滞在する間中私が陰の如く付き添い、釣りだけではなく関連会社を回るにしても、応援していた代議士のお宅を訪れるにも、東京に持ち帰る土産を買いに行くのも、とに角どこに行くにも私が運転するビッグホーンに乗って行動していた。

オーナーは唯の人ではなかった。15歳で風呂敷包み1つぶら下げて上野駅に降り立って以来、努力に努力を重ねてのし上がり、とうとう小さな鋼屋を東証一部上場の会社までに拡大した実力者だった。

力があって頭の回転がよく、度胸もあり仕事人の全てを備えた人だった。自信があったからだと思うが誰が何を言っても聞き入れない絵に書いたようなワンマンだった。

そのワンマン社長が年を取って振り返ったとき、趣味も無く仕事の他には自分を夢中にさせるものが一つもなかったようだ。

サケがふるさとに戻って産卵し、一生を終える如く社長も生まれ故郷に戻って子供の頃に遊んだ山や川が恋しくなったのは、ごく自然な流れだったと思う。

何時の間にか私が案内係となって、二人で岩魚釣りをするのが唯一の心の休みどころとなった。来るたびに庄内平野を取り囲む山々に分け入っては岩魚を釣った。

あのころ山は荒らされておらず、入る沢にはイワナがいっぱい泳いでいた。朝から釣って夕方にはいつも100匹以上のイワナが魚篭に入っていた。

東京でイワナを日に100匹も釣るといっても、誰も信じてはくれない。イワナという魚はあの頃すでに幻といわれていたので、車を置いて1時間沢を遡ってから、一日中竿を振ってもほんの数匹というのが相場だった。

「嘘でしょう、信じられません。」と云われるのが社長の自尊心をくすぐっていた。誰も信じられないぐらい釣っているので楽しくて仕方が無い。「そんな事云うなら一度いらっしゃい釣らせてあげますよ。」と、東京からいろんな人を連れてきた。

得意先の大事な人ばかりではない。いつも行くすし屋のオヤジさんだったり、有名なホテルオークラのコック長と支配人だったり、時々立ち寄るおまわりさんだったり、もう留まる所を知らないほど誰かれなく声をかけていた。

20数年間風邪を引いて寝ていようが、明日大事な会議があろうが人が訪ねて来ようが、全てを社長に合わせて、亡くなるその年まで楽しみの相手を務めた。

ワンマンだったあの人は誰しも近寄り難く、出来るなら離れて居たいというほど厳格だった。

商売人として徹底的に利益を追求したその人生で、たった一つ例外が(株)庄内観光公社の経営を引き受けた事だといわれた。 幾ら赤字が続いても周りの反対を押し切り、様々な形で援助の手を差し伸べて、事業を続けさせた。

厳格な社長の信条を変えて、例外を生ませる事になったのは、たった一つしかなかった「岩魚釣りという趣味」がそうさせたと思うのが一番分かりやすいだろう。

ワンマンオーナーは、生れ故郷に帰って好きな山に入って岩魚を釣るという楽しみがあったから、月に2度も3度も満光園に来たのであり、其れを最大の楽しみとしていた。

50数年間社長として先頭に立ち、突っ走ってきた仕事の第一線を離れたときに胸に去来したものは何だったろう。「まだまだ若いものには負けない。」「あの仕事ぶりは何だ。」「俺だったらあんな事はしないぞ。」悶々とする日々の思いを胸の奥底に呑み込んだ男の心の隙間を埋めてくれたのはたった一つ、生まれ故郷に帰りイワナ釣り三昧の日々を過ごすことだった。

その楽しみを自ら断つことは出来なかっただろう。あの頃の社長と同じ年代になった今その心境はよく分かる気がする。

大山鳴動して地域を巻き込んだ昭和42年「足達鶴岡市長の観光の市構想」は、湯野浜ゴルフ場の下にホテル一つだけが残って消えたが、その陰には悲喜こもごもの物語が存在する。

芸は身を助けるという諺があるが、趣味は会社を助けるといつも思いながらイワナ釣りに明け暮れていた。