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提灯行列の思い出

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独立学園は、今は「才の神橋」から入ったずーと奥の方に建っているのだが、あの頃の校舎は横川に架かる橋のたもとに建てられていて、大雨で増水すると、濁流が校舎の土台石を洗うこともある程、河の側に建っていた。

才の神橋

才の神橋

 

昔そこに学園が建っていたことを御存知の方々もいると思うが、とても学校とは思えないほど粗末な校舎だった。

そこで私は三年間を過ごした。だから、私の胸の中にある独立学園の思い出は、全て古い校舎の時のものである。

国鉄の伊佐領駅から8kmの道は歩く他に交通手段は無く、道は下叶水を通って独立学園までは一本道、ここで道が二つに分かれて橋を渡って奥の方に行けば、上叶水、大石沢に行くことが出来る。橋を渡らずに山添いに奥に行けば新股、川原角、滝と言う集落が有ってそして飯豊山の登山口とつながっている。丁度2本の道の合わさる所に学園が建っていた訳である。

下叶水の集落

下叶水の集落

 

あの校舎は、元鈴木校長御夫妻の自宅として建てられたもので、学校として使うにはかなりの無理があったのだが、それは又それで、独立学園の目指す教育をする場としては、本当に神により与えられた、これ以上を望むことが出来ないくらいの舞台となっていた。

その粗末な校舎の二階に、三年生の教室として使われていた学園で最も大きな教室があった。

四十人近い全校生徒と、十名程の教職員が集まる事が出来るので、朝礼とか一年生から三年生までの合同の授業の時間や、寮生が就寝前九時に夕拝をする時など、人が多く集まる時には、その教室が使われていた。

三方向が窓になっていたので、その教室からは、外の景色が本当に良く見えたのであった。

校舎の下を流れる横川の中を泳ぐハヤが、一匹一匹良く見えて、すぐにでも裸になって河に潜って捕りに行きたくなるものだった。遠くに見えるサルッパナとかシゲ松の山は、季節によって色が変わり、いつも美しく見えていた。校舎が道よりかなり低い所に建っていたので、二階の教室と道路の高さがほぼ同じ位で、橋を渡って学園の前を通る人の姿が、手が届くほどの近さで実に良く見えていた。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

 

いつも伊佐領から、塩ホッケとか、練り製品とか、調味料とか、その他いろいろなものを背中に背負って売りにくる行商の叔父さんとか、ブナ材を積んだトラックがゆっくり通って行った。上叶水の顔見知りの人だったりもした。ある時は熊を撃ったが逆襲され、返り討ちに合った人が全身包帯巻きでリヤカーに乗せられて行ったときもあった。

冬になると、雪の中を川原角の方から俵詰めにされた木炭を背負い出す集団が通る。男性四~五人に女性が同じ位混じって、皆が二俵づつ背負っていたが、中には一人だけ大柄な男の人が三俵背負っている姿も見えた。何かお互いに声高に笑いながら楽しげに話し合い、いつも決まった時間に通っていった。

いつだったか、伊佐領に出る道が崖崩れで、トラックが何日も止まった時、7kmほど奥の「滝の集落」から鉄道に使う大量の枕木を川に流して運び出していたこともあった。水量はそれほど多くはなかったので枕木はあっちの石、こっちの岩かげにと引っ掛かり、止まったり、道草を食いながら流れてゆく。それを何人もの男達が川の中を石から石へと跳び移りながら、「トビロ」で押したり引いたりしながら流して行った。

私は勉強が苦手だったので、授業中、良くそんな光景を眺めていたものだった。雪のない季節ならトラックが走る道路も、冬になると雪が三メートルも積もるので、雪の道は人一人が通れるだけの細い巾しかない。誰かとすれ違う時は、どっちかが道の脇によけて、もう一方が通り過ぎるのを待っていた。

学園で初めて迎えた冬のことだ。雪が深く積もっていたが、あの日も一日中降り続いていた。

雪に埋まった学園の正面玄関

雪に埋まった学園の正面玄関

 

夕食が終わってしばらくしてからのことだった。二階の教室に居る時、上叶水の方から橋を渡って近づいてくる提灯を持った10人ほどの集団が見えた。

その一団が学園の前に来た時、先生だったか、あるいは上級生だったか、良く覚えていないが、誰かが出て行って、提灯行列の人達と何か話していた。やがて学園の中が急に殺気立ち、あわただしくなってきた。寮生が思い思いに、防寒着に着替え始め、外出の準備をし始めたのだ。

一年生の私には何が始まったのか分からなかったので聞いてみると、外の提灯行列は急病人を伊佐領駅まで「ソリ」に乗せて運び、汽車に乗せ小国町の病院へと連れていく為のものだった。

雪の深い冬に、病人を川添いに八キロメートルもソリに乗せて運ぶのは実に大変なことだ。ソリの巾に踏み固める人数がないと進めない。そして五~六人のソリを引く人と、押す人又、それらを時々交替する要員と、人手はあればある程良い。多い程早く伊佐領に行き着けることになる。

私は初めてだったので、その日がどんなにつらい重労働になるのか良く分からず、人助けに出るのだという一種の使命感というのか、寮生が多く参加するという安心感もあって、お祭りが始まるような興奮した気持ちになっていた。

三列になって並んで、十人くらいがカンジキで雪を踏み固めて道を作ってゆく。その後ろをソリが引かれてゆく。

下叶水から下って田圃が終わったあたりからが難所である。川の右側の斜面が切り立っていて、わずかに歩く所だけが平らになっている。川の巾も狭くなって急斜面が山の方から川迄続いている。ここはナダレの名所だった。雪は固くなり踏みつけるだけでは道が出来なかった。シャベルで掘って道を作っていった。

今となっては、あの難所の一帯はダムの下に沈み見ることがかなわないが、ダムをまたぐ新しい橋が出来ているので車を止めて見下ろすことが有り、眼下に広がる山並みとダムの水面に遠い昔が甦ってくる。危なかった道が水面下に続いていたのは記憶の中にしか甦ることが無くなってしまった。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

 

あの頃は、3km下流の市野々の集落近く迄急斜面が続いて苦労したものだった。

学園を出て初めのうちは皆元気が良く足を高くあげ、勢い良く雪を踏んでいたが市野々に着く頃は声を出す者は一人も居なくなってしまった。

村の大人の人達も、学園生も疲れてしまったのだった。それともうひとつ空腹だった。雪の中を何時間も歩くことを深く考える人が居なかったのだろう。又、そんな余裕もなく飛び出してきたので、食べ物を持ってくるのを忘れたのだ。大人達も、誰も食料を持っていなかった。市野々を過ぎると、又、大曲の所迄、川添いの急斜面を行く難所だ。更に5km先の伊佐領めざして物言わぬ提灯の集団が進んでいった。

そんな時に学園生の中の誰かが歌い始めた。すると不思議なことに、何と不思議なことに体に力が入り元気が出るのだった。

歌というものは本当に不思議だ。聞いているだけで、別に何か食べた訳でもなく、何の変化もないのに元気が出るのだ。

歌い終わると誰かが歌い継いでいった。

歌声が続いている間はあまり空腹も感じなかった。

歌が途切れると、村の大人から「歌ってくれ」と声が掛かった。大人達は何も言わずに聞いていたが、皆同じように疲れていて、歌声を聞いて元気を出したかったのだと思う。そうして学園生が賛美歌を歌いつないで、伊佐領の駅に着いた。

雪の伊佐領駅

雪の伊佐領駅

 

夜の十時は過ぎていたと思う。駅のストーブにあたって暖かくなり、そしてみんなで駅前の食堂が作ってくれたラーメンを御馳走になった。

伊佐領までの重労働のお礼がいっぱいのラーメンだった。しかし誰もそれ以上のものを求める人も居なく、不平を言う者も居ない。ごく当たり前の様に戻り始めた。

帰り道も又疲れて、疲れて、早く学園に着いて眠りたい、それだけが頭の中を占領していた。

頭も体もボーと思考力を失い、夢遊病者のように歩いていた。帰りは道が広々と出来ていて、歩き易かったのが救いで、力強くは歌えなかったが、誰かが歌い終わると次の人が歌い、いつの間にか順番が出来て、次から次へと歌がつながっていった。

私も歌ったが、何の曲だったかは思い出すことが出来ない。

こうして一年の間に三回位は、提灯行列に加わって伊佐領駅迄行って、病人を汽車に乗せて小国へと送り出していた。

いつも、ふいに提灯行列がどっちかの道から現れて学園の前に来ると、思い思いに仕度をして、参加したものだった。

学園生も全員が参加するのではなく、行かない人もあれば、毎回必ず行く人もあり、それは全く自由だった。

村の人から頼まれた記憶はない。何時の間にか出来上がった学園の伝統だったのだと思う。

スキーで足を折った学園生を運んだ事もある。

先生方は、私達が参加することを別に止める事もなく、自由にさせてくれた。

今思うと、他人の為に何かをする時、代償を求めずに一生懸命頑張るという、学園の教育だった様にも思うのであった。

 

 

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